#90 男性問題研究家 / 釜ヶ崎地域史研究家 水野阿修羅さん

90 水野阿修羅さん
「「愛」はずっと、さっぱりわからないものだったんです」


 

1949年生。大阪市西成区在住。1970年に開催された大阪万博を機に、仕事を求めて釜ヶ崎へと移住。以来、建設業・運送業を中心に45年間日雇い仕事に従事。その傍ら、88年に外国人支援組織「アジアン・フレンド」を立ち上げ、アジアからの出稼ぎ労働者問題に関わるようになる。91年にはメンズリブ研究会、98年にはメンズサポートルーム大阪を立ち上げ。以来、DV加害者に対し、自らの感情を回復させ、DVから脱却することを目的に「男の非暴力グループワーク」を実施している。ほか、部落解放運動・女性解放運動などの運動も進める。99年、NPO法人釜ヶ崎支援機構の職員となり、2014年1月に定年退職。

※ 文中敬称略

記事公開:2015-06-03

 

肯定していた怒り
 喧嘩は得意とするところだった。その起因となる怒りは、もとより肯定していた。怒りのエネルギーは社会を変える力になったからである。
 1970年前後は、釜ヶ崎の日雇い労働者にとってもっとも過酷だったと言われている時代だ。暴力団は跳梁跋扈し、業者からの劣悪なピンハネがまかり通っている。現場で出される弁当は、漬物一切れ、めざし一匹など、犬も横を向くと言われるほどにひどいもの。おまけに、労働組合のメンバーがビラを撒いているだけでも団員に殴られ、警察からも人間扱いされないときた。釜ヶ崎では、暴力団の支配に不満を鬱積させた労働者が起こした喧嘩や暴動が勃発、殺人事件に至るケースも少なくはなかった。事実、釜ヶ崎では、1961年の第1次暴動から2008年の第24次暴動まで、半数以上となる13度の暴動が70年から73年の間に集中的に発生している。
 だが、水野にとってはそこが魅力だった。釜ヶ崎に居ついた水野は、発足して間もない日雇い労働組合「全港湾西成分会」に入り、ヤクザとの全面戦争に参加するようになった。
 法律を無視してナンボの彼らにはきれいごとで太刀打ちできるはずもなければ、正論が通用するはずもない。事実、法律的手続きを踏もうとしたところで、逃げられたり、報復されたりすることの方が多く、徒労に終わるばかりだった。それでも合法路線にこだわる「全港湾」の幹部たちとは、よくぶつかった。
 そうした状況を変えるため、労働組合の枠を飛び出した水野らは「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(通称「釜共」)を結成。典型的な序列社会に生きる彼らに対抗する術は、唯一こちらが彼ら以上の力を持つことのみ。力で我々に屈すれば、絶対に手を出してこなくなる。ヤクザとの決闘は避けては通れない道だった。
 水野らが手始めに相手どったのは、あいりん総合センターを牛耳っていた鈴木組である。
 看板には「大阪市内」と書かれてあったのに、大阪市外の現場が指定された――。1972年5月26日の朝、組の事務所内で「条件違反」として拒否の意を示すやいなや、水野ら10数名の労働者は若い衆に取り囲まれた。頭数ゆえか相手は手を出してはこなかったが、にらみ合いの末、仕事に行くということで水野らは手を打った。
 その日の帰宅後、釜ヶ崎内をうろついていた水野は彼らに見つかり拉致されそうになるも、すんでのところで事なきを得た。水野が大声をあげると、異変に気づいた大勢の労働者が援軍に駆けつけてきてくれたのだ。だが、行かされた奈良の現場でトンコした仲間の一人は拉致され、リンチを受けたと聞いた。
 翌朝、相手は攻撃を仕掛けてくるだろう。でも、仕事を求めに集まってくる数百人の労働者に助けを求めれば何とかなるはずだ。そう読んだ水野らは、抗議の意を示したビラをあいりん総合センターで配布していた。
 読みは当たった。彼らは準備していた木刀や日本刀で襲いかかってきた。しかし、ヤクザとて十数人では、積年の恨みをこめた数百人の労働者による反撃の前にはなす術なし。人海戦術は功を奏した。最後にはかろうじて捕らえた鈴木組の組長を土下座させ、謝罪させた。とともに、これまでヤクザにおびえて耐えるしかなかった労働者たちの感情の蓋が弾け飛んだ。
 しかし、1ヶ月後。水野らも暴力をふるったとして逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決を言い渡された。2ヶ月前に起きた連合赤軍ハイジャック事件に絡ませられ、言われのない過激派学生のレッテルを貼られもした。だが、この土下座を機に、ヤクザへの恨みを晴らそうとする若い労働者が次から次へと集まってくるなど、釜共は徐々に力をつけていったのである。
 その後、山口組系のヤクザが釜ヶ崎の「夏祭り」を中止させようと襲撃し、数名を殴ったときには、即座に反撃。彼らの事務所を破壊するという“数倍返し”をお見舞いすると、相手は調停を願い出てきた。以後も「労働者に暴力をふるったヤクザには即反撃」という戦法で何度か戦いを繰り返すうち、釜ヶ崎周辺での暴力沙汰は下火になっていった。
 勢いづいた水野らは、現場での労働条件の改善に着手する。悪質な条件違反をする業者のもとへ大挙して押しかけ、アブレ賃(業者の仕事で中止になったときの失業手当)や、バレ賃(雨が降ってきて、仕事が中止になったときの休業補償)、ヌレ賃(雨の中で仕事をしたときの手当)など労働者の権利を次々と獲得していった。多発していたサービス残業にもメスを入れ、5分の超過ですら残業代を受け取れる権利も勝ち取った。
 釜共には、赤軍派もいた。暴力団側が全面戦争を控えた背景として、ハイジャック事件を起こしたり、爆弾を持っていたりする得体の知れない彼らを警戒していたというのも大きかったのかもしれない。
 何はともあれ、釜共は労働者には頼りにされ、ヤクザや業者には恐れられる存在としてその地位を確立していった。しかし、組織として体制を整えていないアメーバのような団体である。73年、オイルショックで仕事がなくなったことと重なって、自然消滅的に3年ほどの命を閉じた。だが、釜ヶ崎では以後20年ほどの間、「釜共神話」が残り、関西周辺では、たとえヤクザの経営する業者でも労働者に暴力をふるうことはめったになくなったのである。

「男らしさ」に憧れて
 釜共は、釜ヶ崎でのさばる暴力団に対して、初めて真っ向勝負を挑んだ団体である。みな若く、怖いもの知らずではあった。さりとて怖れが湧いてこないはずはない。怖れは封殺するしかなかった。いったん怖れが吹きこぼれ出せば、暴力団相手になど立ち向かえやしないのだ。押し寄せる恐怖の波の防波堤となっていたのは、「男として、男らしくない行動はとるべきではない」という信条めいた思いだった。
 1949年生まれの水野は全共闘世代のひとりである。水野が釜ヶ崎に来た頃は、高倉健が主役をはる任侠映画が空前の大ヒットを飛ばしていた。
 映画はパターン化されていて、暴虐の限りを尽くす悪玉ヤクザに対し、あくまで任侠道を貫くヒーローは我慢に我慢を重ね、最後の一線を越えたとき、決然と起ち上がるのである。ラストの怒涛の殴り込み。その道行きのシーンにかぶさる主題歌。これほど観客が主人公に同化でき、感情移入が容易な映画もなかった。「情念劇」とも「我慢劇」とも称されて、男の美学、任侠浪漫を高らかに謳いあげた世界が任侠映画であった。『全証言 伝説のヒーローとその時代 任侠映画が青春だった』(山平重樹・著)より引用
 68年、東大紛争中に作られた「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーが脚光を浴びるなど、学生運動が盛んで異様な熱気に包まれていた70年前後。そんな時代背景も相まってか、高倉健演じる主人公は「理想の男像」として、当時の男たちから圧倒的な支持を受けていた。
 当時は世界的にも、左翼の世界において暴力が肯定され、用いられていた。アメリカで銃を持って武装自衛をしながら、黒人民主主義運動、黒人解放闘争を進めるブラックパンサー党に勢いがあり、党情報相のエルドリッジ・クリーバーによって書かれた『氷の上の魂』が世界的にヒットしていたり、ブラジルでは都市ゲリラが行われたりしていたのだ。
 激流とも呼べるような時代の潮流にさらわれていたのだろうか。〈男たるもの、迷うことなかれ、弱音を吐くことなかれ、愚痴を言うことなかれ〉「男らしさ」という名の規範意識にすっぽりくるまれた日常生活は、我慢の連続だった。
 しかし、我慢の分だけ反動も大きくなる。「男らしさ」に抑圧されたものがすべて怒りとして凝縮され、怖れを封殺するために引き出した気迫と混ざり合いながら暴力に生まれ変わろうとする時のエネルギーはすさまじかった。ひとたび怒りの導火線に火がつけば、怖さはどこかに消し飛んでいた。しかも、そこに正義が加われば、死すらも恐るるに足らないものになってゆく。白か黒、二つにくっきりと分断された世界においては負けたが最後、妥協や折衝など意味をなさなかった。
 もっとも、水野は日大全共闘、新宿騒乱事件、東大闘争と流れ歩いてきた身でもある。非日常に撹拌される日常は、血気盛んな若かりし水野と抜群に反りが合った。状況が状況だけに、高揚感や充実感も格別である。ヤクザとの戦いに臨む自身を、銀幕の向こうで戦う高倉健に重ねられるひとときに、“男の魂”は打ち震えていた。
 71年のドルショック後、73年のオイルショック後など、仕事が激減した時には、旅がてら横浜や九州など仕事を求めて外に出たこともある。横浜の寿に東京の山谷と、ドヤ街のある釜ヶ崎に近しい街に暮らしてみたりもした。若く、もともと街歩きや旅が好きだったこともあり、外でもそれなりに楽しい時間を過ごすことはできた。
 だが、町が狭い分だけ人間関係が濃く、息苦しい。おまけに、きれいではあっても血が騒ぐような事件は起こらないのだ。かたや、街が大きく、ほどよい人間関係の距離感を保つことができた釜ヶ崎は居心地良好。はちゃめちゃな人が多い環境での生活は大変である反面、刺激に満ちあふれていた。正直なのは心と身体。過ぎし日の高ぶりを忘れえぬ血は、物足りなさを訴えてくる。強い刺激にともなって得られる満足を求める心のありようは、ある種の中毒性とも隣り合わせだった。
 まだ東京にいた頃、水野は釜ヶ崎で得られる刺激と相似形の刺激を味わったことがある。
 中国人と付き合いがあった水野は、横浜の中華街にある飲食店で3ヶ月ほど働きがてら療養していた。怪我は、69年1月、東大闘争に参加したときに負ったものだった。
 当時の横浜中華街は、今とはまるで違う様相を呈していた。白人船員のためのバーが寄り集まる街の一角では毎晩白人同士の喧嘩が起こり、日本語をまったく話せない高齢者の中国人があちこちに見受けられた。水野が働いていた店の経営者もスタッフも、みな中国人。異国の地に迷い込んだのではないかと錯覚するような中華街は、夜はおろか昼でさえもまったく日本人が寄りつかない場所だった。
「その頃が一番おもしろかったと言えばおもしろかったのかもしれませんね。いろんな人がいる、自分と違う人がいるのがおもしろいという感覚なんです。ただ、あまりにも刺激が強すぎたせいか、もう普通の町では退屈で住んでいられなくなりました(笑)」

止まらない好奇心
 旅好きな水野は、旅が目的ではない場合も含めて、これまでのべ15カ国ほど外国を訪れている。旅を進める上での基本スタンスは、なんでもやってみること、食べ物もとりあえず食べてみること。旅のガイドブック『地球の歩き方の旅』で「危険だから行ってはいけない」と書かれてあるところに行ってみたい性なのである。
 せっかくだからと観光地にも訪れるが、あまり心が動くことはない。一方、危険な地域を探し出すことには労をいとわない。釜ヶ崎で暮らしている身上もあって、訪れた国のスラム街にも積極的に足を運ぶ。
 かつて、水野は講師としてピースボートの旅に同行したことがある。ツアーのさなか、カンボジアの市街地で単独行動をしていた水野は、市場で地元の人たちの輪を見かけた。
 興味を惹かれ、中をのぞいてみると、ヘビやカエルなどのゲテモノの他、人間の赤ん坊かと見紛うようなサルなどが酒のなかに漬かった甕が並んでいた。店員は試飲を薦めたが、周りは皆見ているだけ。結局、口にしたのは水野だけだった。

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