No.12 ウエストフィールド大学 コミュニケーション学部 准教授 マックス斎藤さん

Story No.12 ウエストフィールド大学 コミュニケーション学部 准教授 マックス斉藤さん

「仕事は何であれ、最大限のパフォーマンスを追求する」

マックス斎藤さんbProfile
1960年西川町大井沢生まれ。米国在住。米国ウエストフィールド大学コミュニケーション学部准教授。4人の子の父。 高校卒業後、東京の自動車整備士の専門学校卒業を経て、自動車整備士として山形市にて就職。 青年海外協力隊として、1983~85年の2年間、87~88年の1年強はスリランカ、88~89年の1年強はフィリピンに行き、主に自動車整備の技術を教える仕事に携わる。 一方で、86年末に会社を退職し東京の語学学校に通うなど、大学進学への準備を着々と進め、89年、29歳の時に米国の大学に入学。 転校、大学院進学、就職、2度目の大学院進学を経て、98年秋、学生をする傍ら、講師として教え始める。 2007年、博士号を取得し大学院を卒業すると同時に現職に就き、今に至る。

 

私が協力隊になった理由
わけ

 私がまだ実家にいる頃(実家で暮らしていたのは高校に入学するまで)、母の乗っているバイクが故障して困ったことが何度もあったんです。それで「車の整備ができれば困った時役に立つかな」と思っていた私は、東京にある自動車整備士の専門学校に入りました。単純に、機械関係のもの、壊れたものを直すということが好きで、それが仕事になればいいな、という思いもありましたしね。ちなみに、東京に行ったのは、東京を見てみたかったから。そして、新聞奨学生(奨学金をもらう代りに、新聞配達を行う)という制度を活用したかったからです。
 その専門学校に通っている時―――。「そんなに収入がなくてもいいから、人のためになる仕事をしたい」そんな思いの中、浮かび上がってきたのが、青年海外協力隊という選択肢だったんです。そうして、就職してから2年が経った1982年。休職した私は、協力隊として2年間スリランカに行きました。

無我夢中だった、協力隊の仕事
 現地の短大の自動車整備科のインストラクターとして働いていた1度目のスリランカでは、無我夢中でしたね。英語もほとんどできないうえに、学校ではシンハリ語で教えないといけない。そのうえ、現地には日本語―シンハリ語の辞書はなかったし、まして使う言葉は機械工学の専門用語。だから教える時には、日本語をまず英訳して、それからシンハリ語に訳さないといけなくて。半端な仕事ではなかったですよね。でも、だからこそ、「きちんと理論をシンハリ語で説明できたな、上手く伝えられたかな」と思った時なんかは、嬉しかった。
 そんな風に「教える」という仕事をしていたわけですけど、協力隊としてスリランカに行く前も行っている時も、「先生になる、なりたい、なれるだろう」なんて考えはまったくなかったんです。勉強に自信があったわけではなかったですから。仕事だし、責任があるからやっていたという感じですね、当時の私の心境としては。

自動車整備士という仕事への誇り
 自動車整備士という仕事の社会的地位は、日本においてもスリランカにおいても決して高くはなかったですね。例えば、「お医者さんと自動車整備士を比べたら、お医者さんの方が立派だ」と一般的には言われるでしょう。私はそれをわかっていたけれど、自分の仕事に誇りを持ってやっていましたね。具体的に言えば「壊れたものを自分の力で直せた」時に、達成感や充実感がありました。
 実際、この仕事は同じような作業の繰り返しだからともすればマンネリ化してしまうんです。だから、そうならないためにも高いモチベーションを維持できるようには努めていましたね、むしろその作業がルーティンワークであればあるほど。例えば、1秒でも早く作業を終わらせる方法、より効率的な作業方法を模索してみるとかっていうように。そうやって、その作業をチャレンジングなものに自分で変えていったから、一つとして同じ仕事はなかったですね。

変わった思い
 大学に行こうと具体的に思ったのは、スリランカに行って2年目、24歳の時でした。現地の学校の生徒たちにシンハリ語と英語で教えているうちに、上達してきて自信がついたっていうのもあったからなんでしょうか。ずっと頭の片隅にはあった「勉強したい」が、いつしか「勉強できる」へと変わっていったんですよ。
 ―――高校・専門学校時代。勉強したいのにできなかった悔しさがあって、それがバネになったというのもあるでしょうね。というのも、当時やっていた新聞配達の仕事は、「仕事」という枠を越えて、自分自身の「生き方そのもの」でしたから。全身全霊を傾けてやった仕事を終えた後、学校の授業を受けるときには疲れきっているという状態でしたからね。疲れて目がかすんで、黒板に白いチョークで書かれた字に色がついて見えた時もありましたし。もしその時、適度に勉強する時間が確保出来ていたら・・・。今のような人生を歩んではいなかったんじゃないでしょうか。
 それと、大学に行きたいと思うようになった理由はもう一つ。「学力なんて大して重要ではない。技術を身につけて働く力を養う方がいい、知識とか学歴なんていらない」日本にいる時はそう思っていたけれど、外国に行って国際的な視点を持つようになった時、その考えは間違いだったと気づいたんですよね。国際的な職場で仕事をするには、知識は必要不可欠だし、学歴は形だけのものじゃないことを知りましたから。つまりは、知らないから損をすることがたくさんあると知ったんです。もちろん、知らないでいいこともたくさんありますけど。

私の生きがい
 大学にどうせ行くんだったら、海外の大学に行きたいという思いはありましたね。あえてハードルの高い環境に飛び込んで挑戦したかったんですよ。それで、会社は辞めて東京の語学学校に通い始めたんです、大学に入るための勉強に専念するために。その後数ヶ月も経たないうちに、緊急派遣という形でスリランカに行くことにはなったんですけどね。そういう厳しい環境に身を置いて仕事をするのが好きだった僕は、当初の予定だった1年から3ヶ月延長してもらい、JICAからの誘いを受けて1年と数ヶ月間フィリピンにも行きました。要は、「挑戦」が自分にとっての一つの生きがいなんですよ。
 フィリピンから日本に戻って少し経った89年12月、私が29歳の時、国際学を学ぼうとアメリカの大学に入学したんです。その頃も相変わらず「大学の先生になりたい、なれるだろう」なんてつゆほども思っていなかったんですよね。「勉強して色んなことを知りたい」そんな思いが当時の私を動かしていましたから。
 そうしてアメリカでの大学生活を送り始めてから2年ほど経った92年。国際学をもっと深めたいという理由で、別の大学(カレッジと言われる規模の小さな大学)に転校しました。そしてその大学、さらには大学院を卒業してから、ワシントンD・Cで日本人留学生をサポートする留学カウンセラーのような仕事を1年半くらいやって、別の大学院に入りました。

僕のモットー
 そうして98年の秋から、その大学院にて学生として勉強する傍ら、講師として教え始めたんですよ。それも、先生を目指してやっていたわけではなく、仕事だったからやっていただけだったんですよね。だから何と言うか、頂いている仕事を精一杯こなしているうちに、結果として先生になったという感じでしょうか。
 「仕事は何でも、自分の最高のパフォーマンスを追求する」これが私のモットーです。全力投球ですね、その仕事がどんな仕事であっても社会の歯車となっている限りは。むしろ厳しい環境であればあるほど燃えるし、「これをやれば人の役に立つだろう」と自分なりに信じられることであれば、最大限力を尽くす。だけど、人を騙してまでやるような仕事は嫌いですけどね。自分が納得できない仕事はしたくないですから。
 ーー「整備工場というのは、命を張った道場だ。だから、気合を入れて仕事をしろ。」整備士時代、尊敬する職場の工場長から頂いた言葉は、それ以来、仕事に向かう姿勢、そして自分自身の生き方の根底に息づいている気がしますね。

母の背中
 最近になって、そういう考え方や生き方が母とそっくりだということに気づきました。一緒に畑仕事をしていても、それはすごく感じますから。やっぱり、小さい頃から母の背中を見て育ってきましたからね。気づかないうちに、影響は強く受けているんでしょう。特に、直接言葉にはせずとも、背中で語っていたことの方から多くを受け取ってきた気がしますね。
そんな母に感謝の気持ちを示す一つの手段として。ほとんど毎年、大学が休みの間に1ヶ月弱大井沢に帰ってきて、母のやっている農業を手伝っていますね。


私が先生をやっている理由
わけ

 2007年。博士号を取得して、大学院を卒業し、今の大学でアシスタント・プロフェッサー(日本でいう准教授)として働き始めて、今に至ります。
 私が先生をやっているのは、教えるのが好きだからではないんです。考えたり、分析したりして、社会現象を発見していくことが好きだから。大学の先生は、そうやって研究して給料を貰えるわけですから、いい仕事だなと思いましたね。授業では研究を発表するわけですけど、それを生徒にわかりやすく伝えて、生徒とのやりとりの中で彼らからも学ぶことによって、また研究を進めていくことができる。そんな楽しいことをして給料をもらえるなんて素晴らしい仕事だなと思っていますね。

私の夢
 定年退職後、研究を進めながら、大井沢に帰ってきて農業をやる。その2つをアメリカと日本を半々くらいで行き来しながら同時並行してやっていく。それが、将来の私の夢です。
 親としては子育て、息子としては親孝行をして、学校の先生としては生徒のためになる授業をして、学者としては社会にプラスになるような研究を進めていく。そして、西川町の大井沢に生まれた人間としては、地元に何らかの形で貢献する。「世のため、人のため」って言ってしまえば綺麗すぎるかもしれないですけど、そういうことを私は目指していますね。

振り返ってみて思うこと
 「日本にいても、アメリカにいても、スリランカにいても結局大体同じだな」振り返ってみてそんなこと思うんです。もちろん社会構造という点では大きく違うけれど、「自分が何をしたいのか」という点ではどこも同じだと思いますね。

 

<編集後記>
「職業に貴賎などない」そんなメッセージを僕は受け取った。
僕は斎藤さんと一緒に仕事をしたことはない。だが、「仕事に全力を注ぎ込む」という斎藤さんの言葉に疑いの余地はない。少なくとも僕はそう信じられた。

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