No.15 月山ポレポレファーム 奥山昇さん

Story No.15 月山ポレポレファーム 奥山昇さん

「自立した働き方をできる環境作りが、僕の仕事です」

奥山昇さん 3Profile
1985年西川町弓張平生まれ。父はNo.7 奥山悌二。実家は、月山ポレポレファームを営む。 小学校4年から大学3年までバドミントン歴12年。そのうち、中学2年から大学3年までの9年間はバドミントン漬けの生活を送る。 地元の中学卒業後からは親元を離れ、高校時代は埼玉、大学時代は神奈川、社会人時代は千葉で過ごす。 2008年新卒で大手企業に入社、2012年に4年間のサラリーマン生活に終止符を打つ。同年4月より藤原直哉の付き人となり、目下勉強中。2013年1月より実家の仕事を引き継ぐ予定。

 

良き先生との出逢い
 2013年1月、実家でもあるポレポレファームに戻って仕事をする予定です。
 2012年3月、4年勤めた会社を辞めて、同年4月から藤原直哉さん(大学時代のゼミの先生、以下先生)の付き人をやっています。先生の仕事のほとんどが全国色んな所で講演をすることなんですね。講演の主なテーマは「世界情勢と未来の展望」なんですけど、単なる理想論でなくて、今までの歴史を振り返って、きちんと理論立てて明確な根拠がある上での話だからすごく現実的なんですよ。そして、そこに来るお客さんというか、そこで知り合う人は行き過ぎた市場原理から脱却した次世代の経済体制を考えている人ばかりだから(半農半X的な考え)、時代の流れを感じ取ることができる。だから、一言で言えばすごく刺激的なんです。
 ―――そもそも、先生との出逢いは大学時代。大学1年の終わりに、2年から始まるゼミを選ばないといけなかったんですけど、希望するゼミを書く用紙を提出し忘れた僕は、強制的に先生のゼミに入れられることになったんです。その時は楽なゼミであることだけを祈ってたんですけど、いざ入ってみたら授業が面白くて。いつもゼミには出席して、話に耳を傾けていましたから。
 大学2年の秋だったかな。先生に「この先、どういう道を進めばいいか?」って一度人生相談みたいなことを持ちかけたんです。そしたら、実家(ポレポレファーム。以下、ここ)を継ぐことを薦められたんですよね。ここのホームページを見て「お父さん、すごく地元で頑張っているんだからそれを生かさない手はないよ。4、5年くらい社会人として働いて、帰ってきて何年かかけて徐々に引き継いでいけばいいんじゃないの」って。
 実際、大学に入ってからは実家によく帰るようになって、その時に父親から仕事についての色んな話を聞いていると、的を得た話が多かったんですよね。ある意味醒めているんだけれど、地に足がついていて現実的な考え方をしているし、自立しているな、と。一人の経営者・創業者としてすばらしいな、と思ったんです。
 それでも、とりあえずは社会で揉まれようと、前いた会社に就職しました。だけど、ずっと都会でサラリーマンとして生きていくつもりはなかったから、入る会社は正直どこでも良かったんですよ。仕事のやり方を覚えることが目的でしたから。とは言え、会社での3年間の営業経験は大きかったですね。大体の仕事のやり方を覚えることができたし、勉強になりました。
 それから4年経って仕事を辞めたわけですけど、振り返ってみると、不思議と大体先生のアドバイス通りの人生を歩んでいるんですよね。4年働いていた会社を辞めて、実家に帰って仕事をすることを決めている今の僕がいる。たまたま結果としてそうなっているという感じなんですけどね。自分の腑に落ちたタイミングと先生の提案が偶然合致したというか。
 その会社を辞めた後、また別の会社で働いてみてもいいかなとは思っていたんですけど、あんまり面白そうな会社が見つからなくて。それで、先生の付き人をしようと思いついて、押しかけて行ったんです「何でもやるんで秘書やらしてください、給料はいらないんで。」って。そしたら、好意で引き受けてくれました。

僕にとってのバドミントン
「あんた、羽根食ってても生きていけないよ」ーーー大学3年の時、その先生に言われた一言です。
 というのも、僕は小学校から大学3年までずっとバドミントンをやってきていたんですね。その中でも中学2年から大学の部活を引退するまでは、ほんとにバドミントン一色の生活でした。
   中学校時代所属していたバドミントン部は部員2人。教えてくれる人もいなかったから全然強くなれなかった。そんな時、キッカケがあって仙台にいる熱血コーチの所で指導してもらえるようになったんです。ものすごく辛い練習だったけれど、おかげで強くなれた。ダブルスで東北1位になれたんですよ。だけど、全中(全国中学選手権)の1回戦で完敗。あまりの悔しさゆえに、僕はその場で「日本で一番強い高校に行かせてくれ」とコーチにお願いしてしまったんです。
それで、高校はスポーツ推薦で埼玉の強豪校に入ったんですけど、そこはもう別世界。「とんでもないところに来てしまったな」というのが最初の印象でした。周りの連中は、全国屈指のプレイヤーばかり。最初、弱すぎて、男子とはレベルが違いすぎた僕は、女子としか練習させてもらえなかったんですから。僕と同じくらいの実力の子も入部したけど、すぐ辞めてしまいましたしね。だけど、「せっかく親に出してもらったのに、逃げて帰っては来られない」という気持ちが強かったから耐えるしかなかった。この気持ちが、僕の大きな原動力だったことは間違いないですね。
そうやって続けていたら、運良くチャンスが巡ってきて、1つ上の先輩とダブルスを組めることになって、勝ちを得られたんですよ。
  そうして、高校3年の時。これで負けたら引退という最後の大会で、1年後輩の一番強い子と組めたんですよ。ちなみに、その組んだ後輩っていうのは、何の因果か自分が全中の1回戦で完敗した相手でした。結局、彼と組んで、ずっと勝てなかった相手に最後の最後で勝って、全国大会に行って準優勝まで上り詰めることができたし、その上団体戦のメンバーにも入ることができた。
 これはきっと、今までの僕の人生の中で最高の成功体験。僕は本来、全国で活躍できるようなタマではなかったから、運が良かったんですよ。
 今思えば、この高校に入ったのも、自分の身の程を知らなかったという思慮の浅さによる進路選択だったんです。だから、もう1回行けと言われても、絶対に行かない。でも、それが結果的に功を奏したんですよね。結構名前も売れたし、全国に人のつながりができたし。そんな風に、気づかないうちに自分の武器になっているから。まぁでも、やっている時は必死になってやっているだけという感じでしたね。寮生活で缶詰状態だったし、先生は滅茶苦茶怖かったし。仲間といるのは楽しかったですけど。あと何日で卒業できるか、毎日指折り数えていましたよ、ほんとに。(笑)
   そんな高校時代を終えて、スポーツ推薦で入った大学のバドミントン部でも、高校時代ほどじゃないけれどバドミントン漬けの学生生活を送っていました。だから、大学2年くらいまでは卒業後の進路もバドミントンをベースに考えていたんです。例えば、実業団に入ったり、先生になったりっていう風に。だけど、自分は大学界全体で見ればそんなに強い選手ではない。仮にこのまま続けていても一流の実業団には行けない…。そんな未来は目に見えていたーー。
 それでどうしようかな、と迷っていた時に、先生のその一言があったんです。ハッとしましたよね。確かにそうだな、って。価値観がガラッと変わりましたから。そういうことを教えてくれる大人と出逢えたのは、とても運が良かったですね。            それまで狭い世界で生きてきたから、この一言で世界が一気に広がりました。例えるなら、周囲を雲で覆われ、視界が完全に遮られた山頂で、突然雲が消えて視界がさっと開け、眼下に広がる絶景を目の当たりにしたというような感覚がありましたね。

僕がここに戻ってくる理由(わけ)
 そんなこんながあって、21歳の頃には実家に戻ることはほぼ自分の中で決まっているという状態になっていましたね。
 ここに戻って働くことを決めた一番の理由は、面白い仕事が出来そうだったから。大学・社会人時代、ちょくちょく帰って来ていた時にここの仕事の様子を見ていて、スタッフさんがスラックラインを張ったり、ブランコを作ったりしていて、面白そうだな、と。自分の裁量で出来ることに幅がある所がここのような零細企業の魅力だと感じています。
 そう感じているのも、サラリーマンをやったからこそ。様々な規制の下でやる仕事だったから、自分の考えで手を加えられる幅は少なかった。それに、そこで働いている人たちを見た限り、苦しそうな人が多かったんです。「いい給料を貰って、生活も安定していて、だけど仕事は…」という風に。もしかしたら、色眼鏡で見ているのかも知れないけれど。
   会社で経験した初仕事で最も重きが置かれたのは、「指示されたことを遅滞なくきちんとこなす」こと。これは仕事をする上では基本中の基本で非常に重要なことだけれど、僕にとってのやりがいは「自分の頭で考えて、工夫して何かをやる」こと。そんな僕が、ここに魅力を感じるようになるのも自然な流れでしたね。バドミントンでも、僕はセンスのある方じゃなくて、工夫しないと勝てなかったから、知らないうちに工夫することが好きになっていたんですよね。
   ただ、サラリーマン時代も決して退屈だったというわけではなかったです。特に、営業の仕事は毎日がとても刺激的で。仕事の進め方、社会のルール、業界団体の存在など、たくさんのことを会社は僕に教えてくれましたから。他にも、さすが世間に名の知れた一流企業だなというシステムを学んだり、実力のある上司や先輩から仕事術を教わったり、大企業でしかできないスケールの大きい仕事も任せてもらえたり。だから、正社員として働いた経験が僕の大きな財産になっていることは間違いない。
 あとは、基本的に好奇心が強いことも関係しているのかな。
 まだ実家にいた中学生の頃。「とにかく一刻も早く外に出たい!」これは、当時の僕のただひたすらな願いでしたから。
 友達の家も離れていたから、遊びたくとも遊べなかった僕の小さい頃からの楽しみは、色んな所から来るお客さんの車のナンバーに書かれてある地名を調べて色々想像すること。そして、そういうお客さんの話を聞いては「行きたい!」という思いがさらにまた加速するわけです。中学校時代、好きな教科は社会の地理でしたし。とにかく、外の世界、未知の世界への憧れの気持ちは尋常じゃないほど強かったかもしれない。
 それで、大学3年で部活を引退してやっと時間の自由を手に入れてから、そして社会人になってからも長い休みをとって色んな所に旅をしてきました。旅が好きな父親とか、ここでアルバイトをしていた自由な気質の人たちとかを見て育ったからっていうのもあるでしょうね。

僕の役割 ~新しい働き方を作る~
 ここで仕事をしていく上での僕の役割は、父親が築いてきた基本路線を受け継ぎながら、働いている人がより主役になれるような形を作っていくこと。スタッフとして働いている人が工夫して主体的に色々やれる、やりがいを感じる仕事をできる環境を作ること。極力、スタッフさんの個性を消さないようにしたいんです。究極の理想としては、皆に裁量権がある組織ですね。だからと言うか、スタッフさんにはここでずっと働いてもらうことを求めていないんです。ここで面白い仕事をして、それを踏み台にして自立してもらっていいんですよ。でも、それは一方でスタッフさんにとってはシビアな環境だと思います。組織に依存していては絶対にできないから。スタッフさんも僕も、お互いに自立していないといけない。逆に、得意分野がある人ならチャンスだと思いますけどね。
そういう「働き方」、「組織のあり方」というのは、今の僕の大きなテーマなんですけど、世間一般的な働き方、いわゆるサラリーマン的な働き方に対する違和感は、学生の頃から薄々あったんですよね。
 その違和感を決定づけたのは2008年、リーマンショックがあった年のこと。リーマンショックが起きる前まではたくさんの派遣社員さん、契約社員さん、アルバイトさんとか色んな雇用形態の人たちが会社で働いていたんです。でも、リーマンショックが起こってからは「朝出勤したら、隣の派遣社員さんの机が無くなっている」という状況がしばらくの間続いて、最終的には5分の1くらいいなくなってしまった。そうなると残っている人たちもクビを恐れて守りに入ってしまって、失敗をしないやり方でしか仕事をしなくなるという状況が生まれたんです。そんな状況を目の当たりにして、健全な組織のあり方を模索し始めたんですよね。
 そんな過去を経た今、先生の下で勉強させてもらっている中で、自分が理想とする「働き方」、「組織のあり方」を具体的に筋道立てて説明できる状態にまで固まってきています。

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