No.19 さくらんぼペンション オーナー 吉田勇次さん

Story No.19 さくらんぼペンション オーナー 吉田勇次さん

「特別なものなんて、なくていいんです」

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1944年長野県生まれ。西川町岩根沢在住。妻と「さくらんぼペンション」を営む。
中学卒業後、定時制高校に通いながら工場で働き始める。19歳の時に旅に出た後、会社を辞める。その後、職を転々とし様々な人の下で働く。所属した職場は20ヶ所以上。25歳の時、全国チェーンでペンションを経営する会社と出逢い、1975年、31歳の時当ペンションの経営を任され移住。同時に結婚。1996年より、2期(8年間)西川町町会議員を務める。現在は、旅館業の傍ら、借りた畑で美味しくて安全な食べ物を作ることに精を出している。
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やまがらのさえずり

 

自然体で生きやすい場所
 西川町に来て、もうかれこれ40年近くの月日が経とうとしています。
 今の私は、このペンション周辺の手つかずの雑木林にとても魅力を感じています。自然に近いここは自然体で生きていった方が生きやすい場所なんですよ。だから、悩みを抱えた人が来て心と体が健康になるような場所として、気軽にふらっと立ち寄ってお茶を飲めるような場所として提供できれば、と思っています。

自分にできること
 ―――あれは1975年のこと。複数のペンションを経営する会社の転勤で、全く縁もゆかりもない西川町に私は結婚したばかりの妻とやって来ました。だから、当初はずっと住み続けるつもりはなかったんですよね。
 移り住んできてしばらくの間は色々と大変でした。だからこの町を逃げ出そうと思ったことは何回もあるんですよ、正直に言えば。
 そうこうするうちにも時が経ち、このペンションのローン返済がだいぶ落ち着き、将来の見通しが立ってくるようになったのは1990年代半ば。ようやく町全体のことを考えられるようになった私には、色んな問題点や変えていくべき所が見えてきたんです。
 そんな時に周りから薦められたのが、町会議員の座でした。それなら、と1996年の選挙で立候補した私は周り(地区)からのバックアップのおかげで当選。それから2期(8年間)議員を務めました。当選すれば3期目になる2004年の選挙では落選したけれど、2008年、その次の町会議員選挙の時にも周りから推されたんです。「もう一度、議員をやらないか」って。
 でも、断りました。もちろん、西川町に対する思いは強かったし、今でもそれはたくさんあるのだけれど…。一番の理由は、8年間議員として過ごした中で、一議員として自分ができることに限界を感じていたから。
 ・・・「ならば違うところで頑張ろう」と、2009年に畑(約1ha)を借りて食べ物を作り始めました。そんな自分の姿を見せることで、農業に対して目を向ける若い人たちが増えてくれればと思っています。
 畑作業に精を出している今、畑に行くのはほんとに楽しいんです。そんな中で最近特に思うのは、彼らは裏切らないということ。手をかければかけるほど、何か応えてくれるような気がするんですよね。 

* * *

私の生き方
 初めて"ペンション“に出逢ったのは、25歳くらいの時。友達とスキーをしにヨーロッパに行った時のことでした。
 自分たちが宿泊していたホテルの隣にあった、生まれて初めて見る魅力的な木造りの建物がペンションだったんです。そんなペンションへの憧れを胸に日本へと帰ってきた私がこれまで通りの日常に戻り新聞を読んでいた時、ふと目に止まったのがペンションを経営している会社の宣伝広告でした。それを見るやいなや、立ちどころにその会社に連絡をとり足繁く通った私は、そこで働かせてもらえることになりました。
 その前に働いていた職場(割烹料理屋)から「続けてくれ」と提示された条件は、料理長の役職+家1軒+月給30万円。一方で、ペンションの会社での条件は、月給5万円の現地駐在員としての仕事。それでも、私が選んだのは後者でした。
 やっぱり、やりたいことをやりたかったから。安定した生活よりは、先の読めない冒険的な生活の方を選んだんですよ。
 ―――夫を戦死で亡くした私の母親は、厳しい経済状況ながらも、私たち兄弟姉妹(兄1人、姉2人)を女手一つで育ててくれました。中学卒業後、働かざるを得なかった私は、昼間は工場で働きながら夜間高校に通い始めました。だけど、2年くらい経ってから高校は辞めちゃったんです。それができるほど、自分の意志は強くなかったんですよね。
 19歳の頃だったかな。「とにかく、そこ(工場)から抜け出したい。」そんな思いがつのりつのって、旅に出たんです。工場の中で、自分が替えのきく一つの部品のような存在になっていることに耐えられなくて。それで旅から戻ってきた後、その会社を退職し、北海道へと再び旅に出ました。「自営業をやりたい」思い返せば、そんな思いは当時からあったんですよね。
 それから、色んな所に行って、色んな人の下で働いてきた私がここに落ち着くまでに転職した回数はおそらく20回以上。焼鳥屋、ラーメン屋、運送業、工場…。働いた職場のほとんどが個人事業主のところだったおかげか、行くところ(職場)、行くところで人とのつながりがあって、その縁で次の仕事も紹介してもらっていましたね、今振り返ってみたら。
 ・・・ほんと自由な生き方をしてきました。ここで暮らすようになるまでは将来の人生設計をしたことがなかったですし。
 だけど、19で実家を飛び出したのは正解でした。色んな人と出逢えたおかげで、人間としての幅が広がったように思いますから。

母の教え
 「どこでどんなことやってもいいけど、人に迷惑はかけるな」次男坊だった私は、母親からそう言われて育ちました。今年(2012年)5月、晩年をここで過ごし96歳でこの世を去った母親から受けてきた影響はすごく大きいんです。
  まだ私が実家にいる時のこと―――。母親は毎日のように生き物に関すること(例えば野良仕事をしている時に教えてくれたのは、オニヤンマが同じところばかり飛ぶ理由)を教えてくれたり、家の庭を見ながら「庭という空間は、非常に理に適った造られ方をしていて、一つひとつのものにそれぞれ意味がある。」そんな内容のことを子どもの私にもわかるように教えてくれたり。だからかどうか、子どもの頃から生き物が好きだったし、庭を含めた日本の伝統的なものには今すごく関心が高いんですよね。
 それから、「自己主張が強く、他者に対して攻撃的な人にはなってはいけないよ。石段の石のように決して目立ちはしなくても、なくてはならない存在でありなさい。」そんなニュアンスのことを「イワナとかアユのような生き方ではなく、カジカのような生き方をしなさい」という例え話で伝えてくれたり。・・・何というか、母親が私に教えてくれていたのはいつもヒントだったんです。だから、そのヒントを基に色んなことを想像することができた。
 そんな母親の存在は、亡くなってからより大きなものとなっています。やっぱり自分の考えや価値観・行動の節々にその影響を感じますし、折に触れてその場面の記憶がありありと蘇ってくるんですよね。

私に一番ふさわしい場所
 今、自然に近いこの場所で、鳥やミツバチなどの動物たちと一緒に暮らしていることがものすごく幸せなんです。それでも、きっと鳥たちにはもどかしさがあるはず。だって、人間は自分勝手に色々できる(例えば、木を切ったり)けれど、彼らは与えられたものの中で生きていかないといけないわけだから。私のそういう考え方の原点を提供してくれたのは、40代半ばの頃に出逢った中山町(山形県)に住むとあるおばあちゃんだったんです―――。
 そのおばあちゃんが暮らす家は、立派な庭がある大きな旧家でした。その家の庭には沼みたいな大きな池があって、その池の周りに積まれた石の隙間から咲いているシャクナゲの花を見て、おばあちゃんは言うんです。
 「あの花はね、昔私が植えたシャクナゲの花から地面に落ちた種が芽吹き、再び花を咲かせたものなんだよ。シャクナゲっていうのはね、咲く場所とか土地を選ぶ植物だから、より自然に近いところでないと咲かないんだ。でも、こうして今、自然に花を咲かせているということは、あなたたちもここに住んでいいよってやっと自然が認めてくれたってことなんだよ。」って。シャクナゲの花が人の手が入った庭に自然の力で咲く、言い換えれば自分が子孫を残す場所として選ぶなんて、普通はありえないことですから。
 私の考えを大きく変えたその出逢い以来、極力自然のものに手を入れないようにはしています。だから、この建物のすぐ側に生えているモミジの木もできるだけ切らないようにしているんですよ。私の経験上、風とか雪のような自然の力で折れた木は絶対枯れない。一方で、人間がのこぎりで切ってしまった木は、たいがいそこから枯れてしまいますから。もちろん、止むを得ず切ったりすることもありますけどね。うちの庭には今、植えた木や花は一つもないんです。すべて、自然のもの。だから、初めて来たお客さんは言ってくれるんですよ。「うわー、ここは夢に見ていたような場所だー」って。 
 それに加えて、ここに来てくれた人と話をしたり、一緒に食事をとったりすることも、さみしがりやの私には大きな喜びです。
 今、自然に囲まれたこのペンションで暮らしていることがすごく幸せ。いつの間にやら、ここは私に一番ふさわしいと感じる場所に変わっていたんです。特別なものなんて、なくてもいいんですよ。

 

[編集後記]
人と人、人と動物、人と自然の「境目」を感じない、さくらんぼペンション。だからきっと、ここにいると安らぎを感じるのだろう。

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