#94 シューズ・ミニッシュ / RegettaCanoe(リゲッタカヌー) 代表取締役 高本泰朗さん

シューズ・ミニッシュ / RegettaCanoe 代表取締役 高本泰朗さん「40歳近くになってようやく、
仲間と一緒に仕事をするすばらしさに気づいたんです」


 

1975年生。大阪市生野区出身。家業は靴メーカーの下請けとして、サンダルを主体とした靴を受注生産するタカモトゴム工業所。高校卒業後、東京にある靴の専門学校に進学。卒業後、神戸・長田で3年間の修行生活を送る。23歳で入社後、いったんは仕事がゼロになった家内工業を年商20億企業に成長させる。現在は、日本のみならず東南アジアを中心に海外にもシェアを広げている。「アディダスやナイキに肉薄するようなブランドに育てる」という目標を社員と共有している。2016年1月、RegettaCanoe代表取締役の役割を日吉慶三郎に委ねる

シューズ・ミニッシュ:http://www.mini-shu.com
RegettaCanoe(リゲッタカヌー): http://regettacanoe.com

記事公開:2016-02-05






 

腹をくくって
「やってみる1年、伝えてみる1年」。2016年1月。年始の挨拶にて、社長7年目を迎える高本はめずらしくスローガンを掲げた。ついで「1年目の子でも、言いたいことがあったら社長や専務相手に伝えてくれていい。そうせな絶対奇跡は起こらへんから」と付け加えた。
「彼らには評論家になってほしくないんです。やった人にしかわからへんことしか世の中にはないですから。最近、自分が27歳の頃に描いていた野望のようなビジョンを書き綴っていた日記帳を読み返してみて笑ってしまいました。そこに書いてあることがすべて現実になっていたんです」
 ―― 思えば、25歳のとき、旅はいつのまにか始まっていた。
 地元の住吉高校卒業後、東京は浅草にあるエスペランサ靴学院、いわゆる靴の専門学校での1年間の学び、日本有数の靴の産地として名高い神戸・長田での3年間の修行を終えた高本が、家業であるタカモトゴム工業所に就職したのは1998年、23歳のときのことである。
 両親は高本が生まれる前から長年、広島にある靴メーカーM社の下請けとしてサンダルを主体とした靴を受注生産する家内工業を営んでいた。専門として作っていた1,980円の靴は、70代のミセス向け。経営が傾いていた家業の弱点は自分なりにつかんでいた。高本がまず取りかかったのは、デザインを親元メーカーに提案すること、つまりは受け身状態からの脱却だった。仕事を終えたあとは、自分たちが置かれている現状を把握するため生野区の靴製造方法やハウスルールを徹底的に研究した。当時付き合っていた彼女とも月に一度会えればいい方、学生時代の友人と交流する時間もない。高本を仕事へと向かわせたのは、未来の安定を勝ち取りたい願いと同居する先行きへの不安だった。
 結果は1年半ほどで表れた。昔の流行りと今の流行りを融合させたデザインをあしらった靴が展示会で獲得した発注は11,000足。700、800という通常の注文数を大幅に上回る空前の大ヒットである。だからといって、天にも昇る思いに酔いしれていたわけではない。24、25歳でこんなにも安心できるものなのか。むしろ順風満帆ともいえる展開に拍子抜けしたような感覚すら覚えていた。後々振り返ってみても、新陳代謝のとどこおっていた市場に投入した画期的なデザインが、熱視線を浴びるのは当然といえば当然だった。
 将来の目処が立ったその年、遠距離恋愛中の彼女に高本はプロポーズしている。結婚式を翌2001年3月に挙げる予定を立ててもいる。だが、安定的で落ち着いた人生を歩んでいくことを高本の運命は許さなかった。
 事件が起こったのは2000年の年の瀬だった。仕事が突然、ゼロになったのである。「商品をすべて中国製に切り替える」という方針を打ち出した親元の靴メーカーM社から契約を打ち切られたのだ。
 長い間、M社はタカモトゴムを含めた下請けメーカー数社に対して、仕事をある程度平等に分配していた時代がある。だが高本らが件の大ヒットを記録したことで、その秩序は一気に崩れ、タカモトゴムがM社から発注される仕事を独占するような状態になっていた。それを快く思わなかった某下請けメーカーが、代変わりして間もないM社の若社長をうまく丸めこんだ――という経緯がそこにはあったのである。
 下請けメーカーにとって、親元メーカーは命綱に等しい存在である。この先どうやって生きていけばいいのか……。暗澹たる気持ちを消化できぬまま、しばらく経ったある日のことだ。仕事場の机の上に突っ伏していた高本は、ふと「今言わなきゃ」という思いに駆られ、階上にいる父のもとへと足を進めた。父はテレビで阪神戦を観ていた。「メーカーせぇへん?」そう声をかけたとき、意を決したかのように「やるか」と言ったときの父の表情は、15年以上経った今も高本の脳裏に鮮やかに焼きついている。
「どこかの靴メーカーの下請けをやるという太い命綱を確保する道も選ぶことはできたんです。事実、数社から声はかかっていました。でもそうしなかったのは「また先輩や偉い人にペコペコするのは嫌や」とむしょうに思っていたからです。
 親元のメーカーの悪口を言っている自分が嫌いだったというのもあります。自身が矢面に立って責任をかぶる方が気楽だと思ったこと、10年後、絶対自分でやっときゃよかったと後悔するだろうと思ったことも選択を後押ししたでしょう。人生でそのときはじめて腹をくくったんです」
 喫緊の課題は飯を食えるようになることだった。当時の高本の目に、夕方5、6時になれば仕事を終えて飲みに行ける人たちはみな「成功者」に映っていた。使えるのは時間しかない。人の倍は仕事をしなければ――。そんな思いで仕事に没頭する日々だった。
 そもそも自身の頑張りが 某下請けメーカーの不興や嫉妬を買い、件の「契約打ち切り」に結びついてしまったのである。自責の念に駆られながら高本が立てた目標は「靴業界で日本一になること」。飯を食えない現状と照らし合わせればまるで現実的ではない話である。が、窮地を抜け出すためにはそれくらい頑強な柱が必要だった。
 メーカーとしてやっていく腹を決めてからはじめて出た展示会では、1足たりとも注文はこなかった。内心では勝算があっただけに、落胆も大きかった。デザインだけでは通用しないのか……。惨めな気持ちで帰宅しながらも、高本は客との癒着、コミュニケーション、実績などの“入場料”を払う必要性を感じていた。
「当時のぼくは、モノを作って売るまでのプロセスを全然理解していなかった。ずっと会社にこもってモノづくりをする“箱入り娘”だったんです」
 両親は仕事の手を広げようとしなかったため、高本は身だしなみやビジネスマナーの本を読んだりしながら、営業から発注、納期の管理まで一手に担うようになった。やらざるを得ない仕事だったが、やらされている感覚はなかった。
 努力の甲斐あって、メーカーとして独立した25歳のときに掲げた「売上(年間)3億」という目標は「できるわけない。こんな時代に」と同世代の同業者の失笑を買ってから3、4年後に達成した。だが「飯を食うための3億」という甘い目標設定だったため、当の高本に達成感はなかった。遅れてやってきた努力の成果は、望んでいない4億、6億という売上につながってゆく。
「どうせ死ぬならそれくらいのことやろ。30歳になってあかんかったら死んでもいい……。神さまは信じたことはないのに「30歳までに成功させてください」と神頼みするような状態でしたから。でも根幹にあったのは、世話になった両親の恩に報いたいとの一心やったと思います」
 さしたる思い出もない小学校時代。どちらかといえば内向的で、部活もろくに行けなかった中学時代。楽しかったし、ラグビー部にも入っていたけれど、目的を持ってがんばったことは一度もない高校時代。やることがなかったから進学した靴の専門学校。年間200,300万の投資をしてもらったにもかかわらず、ヘラヘラ過ごしていた専門学校時代。一切の将来設計がないまま、親父が勧めるがままに決めた神戸での修行。しょっちゅう遅刻をするなど堕落した修行生活――。20数年間のうち、目的をもった人生を歩んだことが一度もなかったのだ。
 いや、修業で神戸にいた頃、有名靴メーカーの息子である親戚の兄との出会いを機に、気持ちに火がついたところはあった。目の輝きは変わり、貪欲に靴作りのノウハウを求めて走り回った。会う人間すべてがライバルになった。勉強のため、国内は革靴の産地である大阪・西成、東京・浅草のみならず、イギリス、ドイツなど10ヶ国以上に足を運んだ。だがそれだけでは慰めにもならぬほど、過去20数年間の「親のスネをかじってのうのうと生きてきた情けない人生」は高本の心に重くのしかかっていた。
 頑張っている姿を見せて親父、お袋をよろこばせたい。情けなかった自分をこれからの頑張りでなんとか埋め合わせたい――。胸中で荒ぶる自責の念は、並みはずれた気負いと努力を生み出していったのである。

報われない日々
 話はさかのぼって2000年。いまや独自のブランドを掲げ、自社通販サイトに直営店、そして東南アジアなど海外でも販路を拡大するなど、広い舞台で闘う高本らミニッシュにとって、ローカルでせまい靴業界だけで勝負していた時代のことである。
 停滞した空気の漂う靴業界の展示会とて高本は真剣だった。備え付けの什器や棚は使わず、すべて自前で調達。関係者から「勝手なことをするな」と怒られると、間髪入れずに「誰があかんって言うたんですか」といきり立たずにはいられなかった。えらそうにしている先輩や顧客、縦社会を忌み嫌うがあまり、「目上の人の言うことを聞け」「先輩を立てろ」と言われた瞬間、条件反射的に噛みついてしまうことしきりだった。
 散々な結果に泣きながら帰社したことも一度や二度ではない。帰社後は、うまくいかなかった原因を究明し、次に生かす作業を繰り返した。結婚して3年、家にもほとんど帰らなかった。いつ壊れてもおかしくない精神の防波堤となっていたのは、たゆみなく湧き出てくる「何としてでも打ち勝ちたい」という競争心だった。
「似たような商品を作るライバルメーカーを敵に見立てながら、エネルギーを結集して勉強や情報収集、コミュニケーション能力の向上に注ぎこんだことが、業界内で生き残った勝因のひとつやと思います。それくらい勝つことに執着しなければいけない時代状況でもあったんです」
 コピーがまかり通る靴業界では、売れ筋の商品をいかに早く見つけられるかが雌雄を決するのだ。一日でも早く注文を取らなければ、どこかからコピーされる。たえず追われているような感覚につきまとわれているなかでは、目的地から遡って手段を考える余裕などなかった。
 安さが一番の価値とされた時代でもある。「安く作れ」「仕入れ値も安くしろ」とせっつくバイヤーとの主従関係に抗うだけの力は小さなメーカーにはない。必死にキャッチアップしていたおかげで売り上げは好調だった。だが人の顔色をうかがいながら、思い入れなどかけらもない、売れるものを作りつづけることに、仕事のおもしろみなど見出せようはずもない。奴隷のような気持ちを味あわされつづける日々にむしばまれていく精神が渇望するやりがいや充実感は、好きなことをやろうという思いの火種を着実に育んでいった。
 そもそも生野で靴メーカーをすること自体、ビハインドでもあった。浅草、西成(大阪)、長田(神戸)、生野は日本の靴の4大産地と言われている。そのなかで底辺に位置する生野は通称「198(イチキュッパ)の町」。長田で作った3,980円の靴が、翌年生野では1,980円で売られていたからだ。
 志の低い人間の多い生野の町が高本は大嫌いだった。胸に渦巻いていたのは、こんな町じゃなかったらもっとええもの作れんのに、なんで周りに足を引っ張られなあかんねん……という他責の念だった。
 しかしあるとき、高本は発想の転換を図る。町全体で靴を作っていること、速さが最重要視される安物を作りつづける中で磨かれたスピードなど、生野のいいところに目を向けたのだ。
 いわば食材、料理人の腕、調理器具、すべてが悪いなかでどうやって料理をおいしく見せるか、思いを巡らせるうち、器を変えるしかないというコアに気づく。機械で作る靴底やインソール(皿)の見栄えや機能性がよければ、靴のデザイン(目玉焼きとソーセージ)もよく見えるんじゃないか――との考えで、一転、設計に全精力を傾けるようになったのである。
 以前、問屋の人間から投げかけられた「自分 ※もいつかブランド作らなあかんで」との言葉も頭にはあった。オリジナルを求める意識は、靴の絵を描くという靴屋の企画としての本分を超え、木型を削る日常へと高本を連れてゆく。が、いざ手錠や足枷が外れたとき、胸に生まれたのは、自由を手にいれた解放感ではなく、茫洋たる宇宙空間をさまよっているかのような得体の知れない不安感だった。 ※ 関西弁で言うあなたの意
 品番8502。2004年にデビューさせた忘れもしない一品である。今でも復活させたいと思うほど、デザインは最高の仕上がりだった。だが妻に試し履きをしてもらったところ、反応は「(中央部の突起が)足の裏を押し上げすぎて痛い。ずっと履いてたら血行が良くなりすぎて、足の裏がかゆくなってくる」と散々なもの。土踏まずの膨らみとともにこだわっていたインソールの中央部分を盛り上げすぎてしまったのである。
 さりとて完成したのは展示会の2日前。一から作り直す時間もない。皮肉なことに、展示会で8502は15,000足という笑ってしまうほどの注文数を獲得する。いまでは4ヶ月を確保している、展示会後の納品期日は1、2ヶ月後。こんなものを売り出したらえらいことになる――。
 結果、生まれたのは膨らみという個性がすっかり消えた平らなインソールだった。失敗を恐れるがゆえに置きにいってしまったのである。なんておれは情けないんや……。落胆を隠せない高本への優しさだったのか、そばには「あんたの作った靴がいちばん履きやすい」と言ってくれる母がいた。
 しかし滑り止めとしての機能を果たすには不十分すぎた靴底の設計は、高本に追い討ちをかけることとなる。あろうことか、8502を履いた母が階段で足を踏み外して尻もちをついた瞬間、背骨を圧迫骨折してしまったのだ。旅行先でのできごとである。大阪駅まで迎えにいったとき、えも言われぬ表情で車椅子に乗る母を見た瞬間、高本の目からは滂沱の涙があふれ出した。
 母の期待を裏切った自分、母に気を遣わせてしまった自分、納得いかないものを売りに出したプロじゃない自分……。そんな心境とは裏腹に、8502は飛ぶように売れていく。内情をつゆ知らぬ周囲からは「よかったやん」と声をかけられるとはいえ、胸を張れようようはずもない。持ち前の勝気さは「評価なんかいらんわ」という心の叫びとなり高本の胸にこだましていた。
 当然ながら、8502は10社ほどの靴メーカーにコピーされた。意匠権や特許を取得しておけばよかった、とは後になって思うこと。彼らに怒りをぶつけたところで「なに怒ってんねん、おまえもしてきたやんけ」と言われ、同じ穴の狢を実感するだけだった。「なんでそんなにイライラしてんの?」と妻から指摘されるほど、高本はささくれだった心を持て余していた。
 ブランドとはなにか、どうすれば長く履き続けてもらえるか――。8502によって負った痛手は、一方で高本に商売の根幹を見つめる機会をもたらした。どんなロゴがいいだろうか、などと、ときおり方法論に向かいがちな自分を引き戻しながら反問をつづけた時間が、リゲッタ・ファーストタイプの誕生へとつながっていく。
 高本が「基本的にはドイツの靴に教えてもらった足学とイタリアなどの先鋭的なデザイン性を融合し、そこに日本古来の履き物の下駄の技術を追加したもの」と定義づけているリゲッタ。好きだったビルケンシュトックのデザイン、20代前半頃に学んだフットベッドの技術などをヒントに生み出した革新的な商品は「おそらくは死にかけの人間が発揮した生存本能」の産物でもあった。
 生野の常識をくつがえす4,980円の値をつけたリゲッタ・ファーストタイプは某大手小売りチェーンのバイヤーから6,000足の注文を獲得し、量販店では発売2週間で完売。前代未聞のヒットを記録したという評判を聞きつけた同社の部長が、町の小さな一戸建ての会社を訪ねてきたこともある。1,980円という相場から大きく外れてもモノは売れるのか。オリジナルの商品を作れたことで、業界内で頭一つ抜け出すことができた――。安堵のため息をつきながら、高本はようやく子どもを作ろうと思うようになっていた。
 だが正義もへったくれもない市場競争は高本を容赦しなかった。来年も取り扱うと約束してくれていたバイヤーからの連絡は途絶え、展示会ですれちがっても目をそらして通り過ぎていく。かといって問屋に電話をかけても歯切れの悪い答えしか返ってこないのだ。
 薄々感じていた悪い予感は、翌年4月、市場動向を確認しに行った大手量販店で的中する。広々とした売り場を埋め尽くすように並ぶ、中国製・2,980円のコピー商品を目にした瞬間、高本は膝から崩れ落ちそうになっていた。「中国製=劣悪品」という図式は崩れ、安価でありながら日本製の商品に肩を並べるようなデザイン性を備えてきてもいる。同社での売り上げ実績をたずさえて、いろんな量販店で勝負していこう、という高本の皮算用はもろくも崩れ去っていた。
 その一件を機に、高本の気持ちは完全に切れた。がんばったところで、何が未来に待っているのか。靴業界ってほんまに嫌い……。腑抜けのようになり、丸1日、仕事を放り投げて出て行ったこともある。自身がいなければ会社は回らないことはわかっていた。帰社後、母からは激しく叱責された。やり場のない感情を持て余した高本は、雄叫びをあげながら2階の部屋の壁を殴りつけていた。
 それまでの行き過ぎた努力の代償は遅れてやってきた。思えば、食事を摂る時間すら削って仕事に身をささげる日々だった。仕事に費やす時間はかるく16時間を超えていた。コーヒーと煙草で湧いてくる食欲を麻痺させるも、空腹感を覚える夜の3時頃に小食を摂って眠りにつく。そんな無理がたたったのだろう。仕事中に汗と震えが止まらなくなったり、食事はいっさい喉を通らなくなったり。あげく電車にも乗れなくなるなど、パニック障害の症状が頻繁にあらわれていた。「人間の顔してないから、とにかく休め!」と親しい相手から言われたこともある。だからといって、借金を抱えている以上、ひっそりと生きていくこともできない。下手に事業を広げてきた分、バンザイできない現状もあるのだ。もう人生詰んだ……。これまでの人生で最悪の時期だった。灰色のベールに覆われた当時の記憶は、いまもその姿を留めたままだという。

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