ライフストーリー

公開日 2016.2.6

Story

「とらわれない生き方が、わたしには必要だったんです」

Freedom 代表 / NPO法人大阪ダルク ディレクター / 元職業カメラマン 倉田めばさん

Profile

広島県尾道市出身。93年に大阪ダルクを設立。以来、8年ほどは公的助成を一切受けることなく、寄付金によって運営資金をまかなう。01年には大阪ダルクの外郭団体として Freedomを設立。06年、大阪ダルクは「大阪ダルク・アソシエーション」としてNPO法人を取得。自身が薬物依存症から回復してきた経験を踏まえながら、薬物依存者の支援をしたり家族の相談に乗ったりしている。その傍ら、教育機関での講演や授業などを通して、「ダメ。ゼッタイ。」ではなく、再発予防の見地からの啓発活動をつづけている。カメラマン、パフォーマンス・アーティスト、詩人としての活動もおこなっている。本人Twitter.
※ 約8,000字

新たな価値観との出会い

薬をやめたらちゃんと家族関係を回復させなきゃいけない。仕事もちゃんとやらなきゃいけない……。そんな思いに駆られつつ、薬の使用をやめるための努力をつづける20代の日々だった。恋人を作ったり、仕事に打ち込んだり、趣味に精を出したり。のべ2年ほどの間、精神病院で過ごしたこともあるが、努力は何ひとつ実らなかった。

変化の兆しが見えたのは、84年、29歳のときのこと。大阪にあるアルコールなどの依存症者の回復と成長をサポートする施設とアルコール依存症の自助グループに通いだしたことがきっかけだった。

「家族なんかどうでもいい」「一生、薬をやめる必要はない。とりあえず今日一日だけやめて、使いたければ明日使えばいい。努力は必要ない」「自分で薬と闘うこともやめたらいい」……。

めばを待っていたのは、30年近く生きてきた中で一度も触れたことのない価値観との出会いだった。その出会いは、かねてより自身を縛っていた薬物依存者に貼られたスティグマ(ネガティブなレッテル、汚名)を溶かしてゆく。それは薬物依存から回復に向かうプログラムに設けられた最初のステップでもあった。

50代、60代のアルコール依存症当事者が多い施設の環境もめばにとっては幸いする。重度のアルコール依存症に罹り、一杯でも飲めば死んでしまうか、精神病院に入院するか、という岐路に立っているような人たちばかりなのだ。紳士的な50代くらいの男性が、ふつうは人前で話さないようなスケベな話をするギャップに驚いたりもした。自分のことで精一杯のこの人たちに比べたら、わたしって大したことないんや……。虚勢を張ったりごまかしたりせずとも付き合える仲間の存在が、めばの心を軽くしていったのである。

やがてめばは、自分でなんとかするのを辞め、無力な存在であることを受け入れていく。気に入ろうが入るまいが、与えられるプログラムをとりあえずこなしていく、という姿勢もその一環だった。それが功を奏して、回復施設に休まず通いつづけて1年、薬を使用することは一度もなかった。
「わたしが探しつづけていたのは、薬をやめつづけていくための具体的な方法だったんです。まわりからは「気を強く持て」「恋人を作って結婚したらいい」とか「愛に包まれればいい」ということを言われて試したりもしたけど、そこに根拠はないわけです。

やりたい自分とやめたい自分。たえずその両方を持っているのが薬物依存者なんですよね。で、その焦点は「やめなきゃいけない」という道徳的、思想的な問題でもなく、「やったら捕まる」という法律的な問題でもない。生理的なやりたいという気持ちをどうするか、ということなんです。

自然に湧いてくる気持ちを否定することはできない。とりあえずあるがままの現実を受け入れたうえで、変えられるものと変えられないものを見極めていく。そういう視点で考えるなら、いいか悪いかの判断を下すのではなく、どう対応していけるかを考えていく必要があると思いますね」

 

「聞く」ことの力

「依存症からの回復には当事者語りが大切だという声もあるけど、自分のことを語るのはほんとに限定的で目新しいことはほどんどない。とくに体験語りは、話すたびにコピーのコピーになっていく感じで、どんどん狭められていくわけです。大事なのは、人の話を聞くこと。ダルクのプログラムによる回復効果の80~90%は、聞くことによってもたらされますから」

ダルクでは日曜日以外、おおむね1日に2度、1時間ずつのグループミーティングが催されている。参加者それぞれが、各回で設定されたお題に応じた自身の経験や思いなどを語る場である。だからといって、聞くことを強いたり干渉したりはせず、「話す順番が回ってきてもパスしていい」という方針をとっている。客観的に見れば、ほぼ言いっぱなし、聞きっぱなしの状態だ。それは全国のダルクで採用されているNA(ナルコティクス・アノニマス)※ の手法に準じたやり方であり、かつてめば自身が過ごした回復施設でのプログラムに影響を受けたやり方でもある。    ※ 薬物依存という病気から回復することを目的として集まった薬物依存症者当事者による自助グループ「たとえ沈黙していても、頭の中ではいろんなことが起こっているわけです。たとえば自分の番が来たらどうしようとか、頭にくるとか、自分に起こっている変化を自覚することが、よくなっていくことにつながるんですよね。

知られたくない本音を隠している自分に気づき、正直に語る解放感を覚え、偽悪的に誇張してしゃべるようになると、その誇張どあいをチェックする自分が出てくる……。

その時々で自分の感情や行動を即座にチェックできるかどうか、ちゃんと言葉で認識できるかどうかって、すごく大事なんですね。もともとわたし自身、ことばで親や周囲に正直な思いを伝えるかわりに、薬を使ったり、自傷行為をはたらいたりしていたわけですから。

仕事もせず、年に1,000回ちかく、グループミーティングを延々と繰り返すことの効果は計り知れないですよ。聞くともなしに聞いている、言葉が耳に入っているというような状態が1年、2年と続いていくうちに、いつのまにかしゃべれるようになっていくんです。

わたしも、回復施設や自助グループに通い始めた頃は、ほとんどしゃべれなくて、ただ人の話を聞いているだけだった。年寄りのアル中の人なんかは、毎回のように同じ話をするから、次の展開も読めるし、ああ、またこの話かと思うわけです。だけど、施設を出て自分が危機に直面したときに、それがアウトプットとして出てきたりしたんですよね」

 

信念を持たずに

回復施設を出てから10年ほど続けていたカメラマンの仕事を辞めためばが、ひとりで大阪ダルクの運営に取りかかったのは93年のことだ。住吉区にて大阪ダルクとして借りたのは1K平屋の一室。12畳ほどのリビングは、昼はデイケア、夜は寝泊まりする入所施設となり、台所は家族の相談室にもなる多機能スペースへと姿を変えた。

資金運用の目処が立っているわけでもない。手元にあるのは向こう1ヶ月分の運営費だけ。地域から了解を得られる保証もないし、どんな人が来るかもわからない。不安と恐怖に胸を覆われた状態での見切り発車だった。

それから23年。寄付金によってやりくりしていた当初の約8年を経て、06年にはNPO法人を取得。社会的認知も進み、めば自身、当事者として小学校から大学まで、講演に呼ばれたり、客員教授として授業を受け持ったりするようになった。最近では、司法と連携しながら、薬物依存症の仮出所者や執行猶予者に向けた薬物処遇プログラムに協力もしている。
「ダルクの活動の一番の目的は、薬物依存者の人たちが薬を使わずに生きていくのをサポートすること。ただ、そういう支援者という仕事は、いろんな意味でとらわれていくんです。人の命がかかっているわけですし、しんどいことでもあります。

薬物依存者当事者としての自身の回復を基準に仕事を考えるのなら、いくら社会にとって必要なことであっても、意味があるとは思えない。というか、自分自身がいいモデルになるとは思えないんですね。だから、回復とか支援、更生に必要以上にとらわれているのならそこから脱すべきだとは、いつもどこかで思っています」

そもそもめばは、自らすすんでこの仕事をはじめたわけではない。ダルクの設立者である近藤恒夫からの「やらないか」という誘いを5年ほど拒みつづけた経緯もある。ボランティアで精神病院や拘置所にいる薬物依存者を訪ねる活動はしていたが、自分にはそういう仕事は向いていないと思っていたのが何よりの理由だ。そんなめばの意志決定を後押ししたのは、近藤の言葉だった。「今から来る人のためにやるんじゃなくて、お前自身がもっと回復していくために必要なものだから、やったほうがいいんじゃない?」
「だから、人のため、社会のため、というのはどこまでいっても、2番手、3番手。20年以上続けてきているのも、惰性みたいなものですよ。つらい状況で来られた人がよくなっていく姿を見ることの恩恵はありますけどね。

自分の中に仕事への信念とかポリシーはまったくないですから。逆に、こういう仕事は信念を持っていたらダメじゃないかなと。信念を持たないことが信念というのかな。

信念っていうのはとらわれにすぎない。優先されるのは、目の前にいる薬物依存者の人たちが、すこしでもいい方向にいくこと。それがすごく大事なんじゃないかとわたしは思っていますね」

精神病院への入院などを挟みながら、ビニ本などに掲載されるヌード写真を撮影するプロカメラマンとして仕事をすることのべ10数年。ダルクを始めるにあたり、カメラを棚の奥にしまうときの未練は20年以上過ぎたいまも心が憶えている。2015年9月に開催した写真展は、諦めきれない写真への想いが形となったものでもある。写真の撮影から仕上げまで、出来不出来はあれど、仕事か趣味かを問わず、たえずワクワクする感覚は、カメラを手にとった21、22歳の頃から40年近く、色褪せていないという。
「もともと自分一人で取り組む作業は好きなんです。いまでも、部屋に閉じこもって原稿を書いたり、写真の加工をしたりするほうが講演とかより楽しいんですよね。1日、2日であれ、全然苦にならない。簡単に言うと、おたくなんです。(笑)そっちのほうが性に合うというか、精神的にすごく安定する。とにかく、いわゆる対人援助をする仕事につくタイプの人間ではまったくないわけです(笑)。

でも、だからよくないんです。そっちにはまり込むと危ないのはわかっているから、人に会いに行くような仕事があったほうがいいんですよね」