No.23 旅館 孝庵 女将 小山裕子さん

Story No.23   旅館 孝庵 女将  小山裕子さん

「家の中でのお母さんの役割って、すごく大きいと私は思います」

小山裕子さんProfile
西川町大井沢出身。旅館「加登屋」の長女(弟、妹と3人姉弟)として生まれ育つ。下宿しながら通った高校を卒業後、実家に戻ってくる。19歳の頃、客として泊まりに来た夫と出逢い、21歳の時結婚。転勤族だった国家公務員の夫と共に全国を転々とする。約30年の間に経験した引越しは14回。2001年、早期退職した旦那と共に、地元大井沢で民宿「孝庵」を始め、今に至る。主婦時代より続けていた趣味であるパッチワークの技を生かし、月1回の「古布パッチワーク教室」を開いている。(写真:本人提供)

 

民宿を始めようと、地元である大井沢に夫と共に帰ってきて13年が過ぎました―――。

赤い糸に導かれた私
 私は、大井沢にある「加登屋」という老舗旅館で、ものすごく厳しい父と、女将として気配りの上手な母の長女として生まれ育ちました。
 山形で下宿をしながら通っていた高校を卒業した後は短大に進学する心づもりでいたものの、父の「花嫁修業をしろ」との言いつけに素直に従い、実家へと帰ってきた私。その後は、家業の手伝いの合間を見つけて、和裁や大好きな日本舞踊をしながら日々を過ごしていた私に、出逢いは突然訪れました―――。
 あれは、19歳の冬のこと。大雪だったその日、家に帰ってきた私が玄関先で目にしたのは見慣れない一足の靴でした。時期はずれのお客さんを不思議に思っていた私と、後に夫となるそのお客さんを出逢わせたのは、大雪のせいで起こった停電でした。停電のせいで、囲炉裏の周りにみんなが集まらざるを得なくなったんですよね。
 当時、国家公務員の就職内定を得ていた大学4年生の彼。大井沢を題材にした卒業論文を書くためにここに来ていた彼と出逢った瞬間、その洗練された風貌にときめきを感じた私の中で、すでに彼は“心に決めた人”となっていました。今思えば、まだ若かった私が勝手に作り上げていた夢物語だったのかもしれないけれど。
 電話やメールなんてもちろんなかった40年前。遠く長野で働き始めた彼と連絡をとる術は、届くまでに1週間かかる手紙だけ。そんな時代に、赤い糸が二人を導いてくれたんでしょうか?どちらからともなく文通が始まり、約2、3年の交際期間の間に交わした手紙は、計61通。未だにどちらが先に手紙を出したかはわからないまま。(笑)その手紙は、今でも大事にとってある私の宝物です。「好きです」「愛しています」との言葉は、ついぞ文面には現れずじまい。そんな台詞の代わりにか、彼は私の字の間違いをいつも指摘してくれていました。(笑)
 だけど、その手紙の中に滲み出ていた彼の誠実な人柄を感じる度に、私の中で「この人ならついて行っても大丈夫だろう」という思いが増してきたんです。だから、ほとんど会ったことがなかったにも関わらず、結婚まで踏み切れたんでしょうね。一方で、「朝晩も休みもない実家のような商売は絶対したくない」というのが本音としてあった私は、“普通の主婦”に対する憧れが半端なく強かった。そんな切なる私の願いも、結婚に踏み切った一つの動機となったのかもしれません。

真っさらだった私
 結婚して甘い新婚生活を楽しめると思いきや、嫁に行ってからは大変でした。新婚当初、いきなり夫に言われたんです。「勉強しないとついて行けない世界だから、おれは夜12時まで勉強する。だから、あなたも勉強しなさい」って。夫はきっと、田舎者で世間知らずの私を何とかしてやらなきゃと思ったんでしょうね。ほんと、何も知らないうちに奥さんになりましたから。
 結婚前、夫の母に言われたんです。「裕ちゃん、男は玄関から一歩出たらすごい大変な仕事が待っているのよ。だから、家に帰ってきた時は、とにかく気持ちよく迎えることだけはしてあげてね。」って。きっと、まだ真っさらだった私の素直さが、その義母の教えを30年間忠実に守り抜かせたんでしょうね。私自身、明るい家庭を築きたいという願望はものすごく強かったですし。だから、とにかく明るい雰囲気を作るための努力は怠らなかったですね。
 そんな私の姿を見た夫の同僚は言っていたみたいですよ「小山さんの家に夜遅くにおじゃましても、パジャマ姿の奥さんがニコニコして迎えてくれるんだよね。」って。夫の帰りが何時になろうとも、必ず起きて待っていましたから。
 ・・・ほんと、一生懸命ついてきたし、尽くしてきました。だから今、夫は私の言うことを聞くんでしょうね。(笑)

母としての私
 結婚するまで旅館業という仕事しか知らなかった私は、サラリーマンは月一回しか給料を貰えないということを結婚して初めて知りました。
 まだ夫のキャリアが浅かった当時、贅沢をできるようなお金はなかった。その代わり、私がたくさん持っていたのは時間でした。そんな環境にいたからこそ思ったんですよね「できるだけ手作りのものを作ろう」って。
 それからは独学で色んなものを作りましたね。例えば、子どもたちの弁当袋や遠足に行く時のリュック、おやつ…。そして、買ってきた3mの布生地で私と娘の洋服を作り、残った生地でパッチワークをしたり。全てが自己流でした。そうすればお金がかからないし、世界に一つしかないものができて子どもも喜んでくれる。それに、そうやって修得したことが今につながっていますから。
 真っ直ぐで、男に二言はないというようなタイプの夫、いわゆる亭主関白だった夫の約2年おきの転勤に、私たち家族はいつもついて行きました。家族の努力は大きかったですよね。子どもたちは幼稚園から高校まで転校の連続でしたし。泣かせてしまったこともありました。・・・まぁ実際色々大変だったけど、全国色んなところで暮らせてほんとに良かった。その場その場で貪欲に聞いて教わってきたことが今に生きていますから。
 うちの家庭は、私が望んでいたものでもあった父親中心の家庭でした。だから、父親の存在の大きさを子どもたちはいつも感じていたんじゃないでしょうか?私は思うんです、「家庭内でのお父さんの存在を濃くするも薄くするも、お母さんの責任じゃないか。お母さんは、子どもが自然と父親を尊敬するようになるために色んなことを教えてあげないといけないんじゃないか。」って。そんな私を側で見てきたからか、子どもを持った私の娘も同じような子育てをしていますね。やっぱり、家の中でのお母さんの役割ってすごく大きいと私は思います。

私がここに戻ってきた理由(わけ)
 子供たちが大きくなり、あまり手もかからなくなった頃、パートで働いている官舎の奥さん達を羨ましく思った私は、夫にお願いしたんです。「外で働いてもいいか?」って。だけど、答えはノー。それでも、結婚15年目くらいだったかな、懲りずに何度もお願いしてようやくOKをもらった私は、郵便局でパートとして働き始めました。
 そうして、主婦とパートを並行してやる生活が当たり前になっていくうちに、子どもが家を出て大学へと通い始めるようになりました。
 そんなある日のことでした。「子どもたちが独立し、私がおばあちゃんになった時には一体どうなっているんだろう?」そんな不安がふいに押し寄せてきたんです。それで、「何とかしなきゃ」との焦りともつかぬような気持ちが頭をもたげてきた私は夫に頼んだんです。「古い家を買ってお店を開きたいから1000万貸して」って。その時は保留になりましたけどね。それは、私が42、3歳の頃、札幌にいた時の出来事でしたね。
 それから約10年が経った2001年。夫は私の頼みを覚えていてくれたんでしょうね。52歳で早期退職して貰った退職金をはたいてこの民宿をプレゼントしてくれたんです。だから、「ここをやってかなきゃ」という責任感のようなものがその時私の中に芽生えたんですよ。もともと山が好きだった夫の中にもこういう所で暮らしたいという願望はあったと思いますしね。

女将になった私
 そうして今年で11年目。地元でとれた素材を使った手作りの料理を一番の売りとして、こだわりとしてこれまでやって来ました。
 当初は、ランチもやっていたんですよ。だけど、6年目くらいだったかな?あまりに大変だったのと年齢的なものも重なってひっくり返ってしまったんです。階段を登れなくなってしまった。というのも、ずっとそれまで内助の功としてやって来たからか、私には「掃除から料理から、全部自分でやらないと気がすまない」というところがありましたから。そんな気性に私の生来の負けん気の強さが加わり、無理をしてしまったんでしょうね。それで、ランチはやめたんです。
 そうそう、一度、すごく忙しくてお客さんから頼まれたそばをなかなか出せなかった時があったんですよ。それで、「ごめんね~。腹減ったべ~。今作ってるから待ってろな~」とお客さんに伝えたら、そのお客さん(奥さん)はこう返してくれたんです「女将さんのそういう言葉がご馳走よ」って。それにはグッと来ましたね。

私が大事にしているもの・こと
 手作りのものや、料理に使う地元の素材。それから、大井沢の風景。そんな“お金では買えないもの”を私は大事にしています。あとは、使い込まれて年季の入ったものもしかり。
 私が年季の入ったものに興味を持ち始めるキッカケを与えてくれたのは、私の母親くらいの年齢だった、先輩の奥さんでした。―――あれは、東京の六本木の官舎に住んでいた頃のこと。京都出身の彼女が六本木の街に私を連れて行ってくれたんですよ。そして、その街中にある焼き物屋さんで、すごく高価な古い焼き物の器を私に買ってくれた時、彼女はこう言ったんです。『使わなきゃ意味がないから、仕舞わずに毎日使ってね。「これは大事なものだから」と言って、子どもにも使わせなきゃダメよ。』って。
 それを聞いて「ならば、布切れでも同じことだな」と解釈した私は、売り物ではない使い古された布生地を使うようになりました。その方が、布切れも喜びますしね。・・・やっぱり、年季の入ったものって魅力が全然違うんですよね。
 その奥さんには幾度となくビシビシ叱られ、教育されました。そんな彼女を始めとして、よその奥さん達にはものすごく影響を受けてきましたよね。彼女たちの姿を見ながら、礼儀作法から何まで貪欲に学んできました。
 そんな私の姿勢の背景には、新婚当初、夫から言われた「世の中にはきれいな女性や、かわいい女性はたくさんいる。だけど、あなたには教養あふれる人になってほしい」との言葉があったんです。当時の私にはその言葉の意味がわかるわけもなく、困り果ててしまいましたが。(笑)どうにかその要求に応えようとの思いも、私を動かしていた原動力の一つでしょうね。

私にとっての夫
 結婚を決めてから40年経った今、「この人なら」との20歳過ぎの私の判断に間違いはなかった。夫のおかげでこれと言って大きな苦労はしなくて済みましたし。そして何より、尊敬できる人だから。
 私の人生のいい先生でもありました。私が困ったことに直面して相談を持ちかけても、夫は必ず冷静に正しい方向に導いてくれました。それから・・・、結婚してすぐの頃。生まれてすぐの赤ちゃんを亡くしたことがありました。どん底に落ちていた私は、その時夫の底力というか精神的な強さを見ましたね。あのときはほんと、すごい男だなと思わされましたから。
 ・・・まぁ色々あったけれど、私はとっても幸せな専業主婦でした。今はまるっきり、立場は逆転していますけど。(笑)

 

[編集後記]
裕子さんが家庭という“職場”で培ってきたものが、お客さんを呼んでいるのかもしれない。

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