#98 RegettaCanoe 代表取締役 日吉 慶三郎さん

98 日吉慶三郎さん 「まさか靴屋で人生を終えるとは思いもしなかったんです」

 

 

1974年生。大阪市出身。高校を卒業するまで、イギリスで暮らすことのべ約10年。18歳で帰国後、ジプシーのような生活を経て、岡山市に居場所を定める。数年間の音楽活動を経て、結婚・妻の出産を機に帰郷。以後、浄水器販売会社、屋根屋などでの勤務を経て、卸問屋をはじめたのは30歳のとき。2012年、取引先の間柄だったシューズ・ミニッシュの社長・高本泰朗(以下、高本)に声をかけられ、新たに立ち上げた(株)リゲッタカヌーの役員となる。ドレッドヘアーがトレードマークの「見た目はいかついけど、心のやさしい人」<高本談>。本人Facebook

※ 文中敬称略

記事公開:2016-05-20

 

訪れた出会い
「日吉さん、一緒にやりましょ!」
 悩まなかったわけでもない。躊躇しなかったわけでもない。しかし気づいたときには「お願いします」という言葉が口から飛び出していた。その1年ほど前からシューズ・ミニッシュ(以下、ミニッシュ)の仕事を手伝うようになっていた日吉が、社長の高本からそう声をかけられたのは今から4年前、2012年のことである。
 2005年から卸問屋を経営していた日吉にとって、高本らミニッシュは取引先の間柄だった。ふたりの距離を近づけたのは、2012年2月、高本がアメリカ進出をめざして出展したラスベガスでの展示会だ。その折、「よかったら手伝いに来てもらえないか」と高本から声をかけられた日吉は、のべ10年ほどのイギリス生活で培った英語力を生かし、接客対応などで貢献したのである。
 展示会が開催された3~4日間、毎日ミニッシュのブースに立ち寄ったアメリカ系韓国人のジェームスがいた。彼は長年、アメリカブランド靴や自社ブランド靴の韓国国内への流通・販売をおこなっている会社の経営者である。かねてより「韓国でミニッシュの靴を取り扱う店を開きたい」と語っていた彼は、「あなたのところの商品はめちゃくちゃおもしろい。ポテンシャルもある」と賞賛を惜しまなかった。
 「君たちはブランディングをすこし勉強したほうがいい」彼からそう助言されたことが、卸・販売を担う(株)リゲッタカヌーが誕生する直接的なきっかけとなる。
 それまで通販サイトなどの媒体から口コミでじわじわと認知度を広げていたミニッシュにとって、ブランディングやマーケティングは新境地だった。茶箱に入れてあるだけの靴に紙玉を詰め込んだり、箱にデザインをあしらったり。日吉と高本と新居(ミニッシュにとっては仕入れ先でもある靴底メーカーの社長)で、毎週のように集まって会議を重ねること約1年、第一号の自社店舗となる南船場店のオープンを翌年4月に控えるなか、リゲッタカヌー立ち上げの準備を進めていたのである。
 そして2012年11月。「リゲッタカヌーを取りまとめるような動きをしてくれたら大丈夫です。基本的には好きなことをしてください」会社設立の折、そんな高本の言葉とともに、日吉は役員のひとりとして迎えられた。以来、主に商品の海外拡販を担ってきた日吉が、同社の代表取締役に就任したのは2016年1月のことである。
「ここ数年で海外(アジア)の市場もだいぶ広がって、今後の海外展開のめども立ってきました。大阪市生野区発祥の会社が世界で名の知れた会社になるために、いかに価値を広められるか、浸透させられるかが次のステップであり、自分がやらなきゃいけないことだと思っています」
 2016年5月現在、ミニッシュの靴が販売・流通している外国は、代理店契約を結んでいるジェームスの会社が一手に担う韓国を筆頭に、台湾・香港・シンガポール・マレーシア・タイと東南アジアの国々だ。それぞれの国で自社製品のみを扱う専門店を展開する中、タイでは2年間で10店舗と際立った展開スピードを見せている。また、2015年7月には、上記以外の世界の国々に対して、生産から販売まで自社の権限でおこなえる生産販売権を同社に提供するという契約を、台湾では名の知れた靴メーカー・Ccilu(チル)社と締結。今季からの本格的な海外展開を見据えている。
「5年後には必ずちょっとしたブランドにしてみせるんで楽しみにしていてください。いずれはNYのタイムズ・スクエアに貼られているコカ・コーラの広告を剥がしてリゲッタカヌーのロゴを貼るという青写真を描いています。ビジョンは思い続けないとぜったい実現しないですから」

反骨に占められた心
「たまたまミニッシュと出会ったことで、人生が180度変わったんです」
 そう語る日吉は1974年、三男坊として大阪市で生まれた。父はアルミを扱う商売人、母は幼少期に病死している。「アルミの市場はこれからイギリスが中心になる」と父が立てた目算により、いきなり家族でイギリスに移住したのは日吉が4歳のときのことだ。
 イギリスでは5年ほど過ごしたのちに帰国。小学4年生だった日吉をはじめとして、3兄弟はみな親戚に預けられ、バラバラになった。その頃を境に日吉の「素行の悪い人生」が始まった。中学生になってふたたび父と一緒に暮らすようになるも、父の再婚をきっかけに、家にも帰らなくなり素行の悪さはエスカレート。「こいつはいよいよ手がつけられないから、寮にでも放り込んだほうがいい」と父と兄は判断したのだろう。イギリスの中学校で寮生活を送るため、日吉がふたたび海を渡ったのは中学2年のときのことである。
「当時はエネルギーが有り余っとったんでしょうね。多感な時期でもあったし、それをぶつける場所がなかったんやと思います。家庭環境が悪いとか他人が悪いとか、すべてを他責にしていた時代だったんです」
 現地の高校を卒業する18歳の時まで、日吉はイギリスで学生生活を過ごすことになる。長期休暇がある夏の間だけ帰国する中で目にしたのは、歳を重ねるにつれ、暴走族になり、チンピラになり、やがては裏社会へと進んでいく友人たちの姿だった。
「イギリスでラグビーと出会って、すこしは改心したようには思います。“one for all, al for one” じゃないけど、自分のことだけ考えてたらいいわけじゃないということは多少なりとも勉強させてもらいました。あとは音楽との出会いも大きかったですね」
 レゲエをこよなく好んでいる日吉は、その発祥地であるジャマイカにも2度訪れている。17,18歳だった90年代前半、イギリスではレイブがムーブメントを起こしていたこともあり、もともと音楽好きだった日吉は、レゲエのエッセンスが混ざったジャングルなどを耳にするなかで、音楽にのめり込んでいったのだ。
 現在、妻とふたりの子どもと暮らしている日吉の自宅の一室には、1万枚をくだらないと思われるレコードが所狭しと並んでいる。音楽活動に多くの時間を費やしていた10代後半から20代前半までの間には、毎月10万ほどの金をレコードにつぎ込んでいたのである。
「ひとくくりにはできないけれど、パンクとよく似ているレゲエの根本にあるのは反骨心。声が生々しくて、生きることそのものを歌うメッセージ性がめっちゃ強い音楽、それが僕にはピッタリやったんです。(笑)発しているバイブスもすごく自分に合いましたしね。
 当時持っていた反骨心の源は世の中に対する不平不満です。政治家とか世の中の矛盾とか、考えたところでどうこうできるようなものではない問題について考えていたんです。右へならえにはならんぞ!という、いわば体制への反抗ですよね」
 18歳の時に日本に帰国してからは、住処を転々とするジプシーのような生活が始まった。なぜか住み着いた岡山市にて、クラブでアルバイトをしながら音楽活動をすること約5年。付き合っていた今の妻との結婚を機に、そろそろ身を落ち着けようと帰阪したのが23歳のときだ。
 それから浄水器のメンテナンスの仕事に従事すること約1年、旧知の先輩から「そんな安月給やったら(家族を養っていくのは)辛いやろ」と声をかけられて転職した屋根工事を主な事業とする通称・瓦屋で働くこと約8年。
 その後、父が商売人だったこともあり、日吉は32歳のときに会社を立ち上げている。父のもとで商売のノウハウめいたものを多少なりとも教わったとはいえ、いまだ商売のいろはもおぼつかない状態で、日本政策金融公庫に飛び込んで300万を調達。父の仕事を手伝いながらではあったが、アルミを母体として「売れるものは何でも」取り扱う卸問屋として新たなスタートを切る。ミニッシュの靴は自社で扱う商品のひとつだった。《次ページヘ

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