ライフストーリー

公開日 2016.8.2

Story

「ただ靴を売りたくてこの会社に来たわけじゃないんです」

シューズミニッシュ 東京営業所 所長(取締役) 松田 良博さん

Profile

1969年生。大阪府出身。高校卒業後、特別給費奨学生として明治大学経営学部に進学。新卒でドイツ系製薬会社・日本ベーリンガーインゲルハイムに就職。医薬情報担当者(以下、MR)として新人時代から頭角を現し、3年目の1994年には、抗アレルギー剤「アレジオン錠(エピナスチン塩酸塩)」の爆発的なヒットで全国1位 / MR約600名の営業成績をあげる。その後、慶應義塾大学病院の担当を任されるなど、出世街道に乗るが、30歳代でアメリカ系、スイス系の外資系製薬会社にヘッドハントされ転職。コスゲの通販開発部に属していた2007年にシューズミニッシュ社長・高本と知り合い、2012年秋より現職。日本ベーリンガー時代のあだ名は「出たきり雀」に「鉄砲玉」。
※ 約20,000字

養われたハングリー精神

「私はこの会社で社長をめざします」

1992年4月。会社が催した新入社員の歓迎会で、22歳の松田はマイクに向かって高らかに宣言した。

会場のそこかしこで沸き立つどよめきと、おかしさのあまり噴き出す笑いをよそに、松田はいたって真剣だった。約100名の同期は全員ライバル。どうすればこの中から抜けだして、出世争いを勝ち抜けるのか――。心のなかで燃え盛る上昇志向や野心がこぼれだすかのように、若者の瞳はギラついていた。

第二次ベビーブーム(1971〜74年)に差し掛かろうとする1969年、松田は長男として誕生した。両親が1歳の松田を連れて大阪市住吉区から大阪府豊中市の千里ニュータウンに移り住んだのは、大阪万博が終わった直後のこと。高度経済成長期のさなかにあった当時、ニュータウンの団地に住むことは一般庶民の憧れだった。抽選により入居を果たした松田家は、中流家庭の仲間入りをしたのである。

この「緑豊かな新しい街」で育った松田は、1学年400人以上、全校生徒1200人のマンモス公立中学校・高等学校で競争の波にもまれてゆく。「受験戦争」という言葉を生んだ社会潮流のなかで、 松田もいつしか「団塊から抜け出して豊かになりたい」という思いを抱くようになっていた。

松田の父・繁は1943年生まれ。奄美群島の徳之島をルーツとする父は、3人の妹をもつ4人兄妹の長男として鹿児島県で育っている。

不慮の事故により実母を亡くしたため、繁は小学生時代から、幼い妹たちの世話をしながら新聞配達などをして家計を助けることを強いられていた。中学卒業後には、集団就職で出てきた大阪の繊維工場に勤務。大阪で出逢った松田の母・操子と結婚した翌年に生まれたのが良博だった。

父には「花屋を開業する」という夢があったらしい。だが家族の生活を優先するため、タクシー運転手として生きる道を選んでいた。

幼い頃より経済面を理由とした幾多の不自由を味わってきたからだろう。「おまえの本業は学問や」と父は松田がアルバイトをすることを断じて認めなかった。一方、少年野球やスイミングスクールにはじまり、そろばん、習字、英会話など、松田がやりたいと望んだことは何でも叶えてくれるような人だった。しかしそんな境遇がかえって、松田に負い目をもたらした。
「結局私は、いわゆる中流家庭のボンボンだったんです」

府立高校に通う松田が卒業後の進路として定めたのが明治大学経営学部だった。早く豊かになりたい気持ちから、理論の経済学より経営学を実践的に学びたいと、当時の自分なりに考えて出した結論である。だが父からは「東京の私立大学に行かせてあげられるほど、うちは裕福じゃない。1年浪人してでも、関西の国公立大学に行け」と反対される。

それでも意志を曲げなかった松田は、高校の指定校推薦枠を獲得。大学授業料が全額免除される明治大学特別給費奨学生(以下、特別奨学生制度)試験にも合格した。もし叶わなければ、大学授業料を大手新聞社が全額負担してくれる新聞奨学生になろうと考えるほど、松田は本気だった。

松田は同時に、日本育英会の第一種(無利息)貸与奨学金(当時45,000円/月)も獲得している。東京の郊外に見つけたアパートの家賃(当時48,000円/月)もこれでまかなえる―—。

あとはみずから整えたステージで闘って“勇者”になるだけだった。「仕送りもいらない。自力で大学を4年のうちに卒業する」そう啖呵を切って家を出た18歳の松田の胸底では、親の庇護のもとで生きてきた自分を変えたいという言葉にならない思いが渦巻いていた。

明治大学が運営する特別奨学生制度は「厳しい」条件つきだ。履修科目の半分以上「優」の成績を修めなければ、授業料に相当する翌年の奨学金が打ち切られてしまうのだ。両親と喧嘩して家を出た以上、授業料が支払えずに中退して大阪に帰らざるを得なくなることだけは、どうしても避けたかった。

日本育英会から毎月支給される奨学金45,000円は、すべてアパート家賃へと消えていった。朝は食パン2枚、昼は学食で300円程度の定食、夜は表参道にあるバイト先の焼肉屋でのまかない飯が、日々の食事だった。

焼肉屋のほか、公文式の先生、東京競馬場の厩舎監視員、内装工事などのアルバイトを通して稼いだ金は平均して5〜6万円/ 月。光熱費や水道代、固定電話代(当時は携帯電話もポケベルもない)などを差し引けば、自由にできる金は月2~3万円程度しかない。

のちに妻となる彼女とのもっぱらのデートコースは、学食からの代々木公園。ディスコでのダンスパーティ、合宿や飲み会など、テニスサークル活動での交際費も捻出できるよう「出費は1日1000円以内に抑える」ことをルール化した。飲み会があれば幹事に立候補し、割り勘で生まれた数百円の余剰金を生活費に充てるなど、役得を存分に生かすことも忘れなかった。

2週間ほどの試験期間はアルバイトを休み、大学の図書館にこもって勉強に励んだ。この間は収入が途絶えるため、出費を抑えなければならないのは言うまでもない。毎日の主食は“マヨネーズごはん”と化すなど、さらに切り詰めた生活を余儀なくされた。そんな折、食料やDCブランドのトレーナー、セーターなど、たまに叔母から送られてくる差し入れは、涙が出るほど嬉しかった。

松田が大学に入学したのは1988年4月のことである。折しも時代はバブル期を迎えていた。乗客がタクシーチケットを手に自身の存在を強くアピールしなければ停車しないタクシー。銀座や六本木、新宿といった繁華街のあちこちで飛び交う1万円札……。「世の中が狂っている」時代に、家計簿をつけながら10円、100円単位で生活をやりくりしなければならない底辺層の自分。そこに感じた天と地ほどの隔たりが、「お金を儲けること」「(物質的に)豊かになること」という確固たる目標を松田のなかに築き上げていく。外資系製薬会社に入社後まもなく、社長を目指すことを宣言した松田の胸には、学生時代に味わった困窮状態から抜け出したいという思いが渦巻いていた。
「大学時代の友達からは『松田、気を遣わなくていいから金使え』といまだに言われます(笑)。でも、大学4年間、親からの仕送りに一切頼ることなく卒業、そして就職までこぎ着けられたことは大きな成功体験。当時どん底を経験したから、少々の危機や苦しいことがあっても、あの時に比べればへっちゃらだと思えたんです。

いまミニッシュで目指したいのは、いずれ分社化して独立採算で力をつけた子会社のなかで、年収1,000万円、2,000万円を稼ぐ小金持ちを100人、200人作ること。それなら懸命に働いているスタッフは豊かになるし、夢を持って働けるとも思うんです。1億円プレイヤーなんかいらない。いまの時代、年収3,000万円あれば余裕で生きていけますから。親しい人に心をこめて気兼ねなくプレゼントができて、笑顔があふれる職場が理想ですね。

いくらきれいごとを言っても、その人が満たされていなければ嘘。武士は食わねど高楊枝じゃない。お腹いっぱいになって、自然と溢れ出てくるものでまわりを豊かにしてあげるようじゃないと、長続きしないと思っています」

 

出世街道をひた走って

松田が新卒で入社したのは、ドイツ系の中堅製薬会社・ベーリンガーインゲルハイム(以下、ベーリンガー)である。薬学部、理系出身者が大半を占めるMRのなかに混ざった文系出身者として、亀の甲、いわゆる有機化学の基礎すらおぼつかないというビハインドを背負ったところからのスタートなのだ。これまで生活のやりくりに費やしてきた多大なエネルギーも注ぎこみながら、机にかじりつくように勉強する日々がはじまった。

医師と同じ土俵に立って話ができるよう、生体、病理、疾病など、看護師レベルの医学知識から、医療法や薬事法、独占禁止法など法律関係の知識、さらには会社が用意してくれた営業力・プレゼン力を高めるプログラムProfessional Selling Skills(PSS話法)まで。「いま持っている知識や営業力の基礎が、すべて形作られた」約半年間の頑張りは、松田を同期入社のなかで頭ひとつ、ふたつ抜け出す存在へと変えていった。

いまも色褪せぬ輝かしいひとときが訪れたのは、MRとして「脂の乗り切った」入社3年目の1994年だった。きっかけは、何十年に1度、出るか出ないかという画期的な大型新薬・アレジオン錠(抗アレルギー剤)が薬価収載されて日本市場に投入されたことである。

なお、安全性が確認された2016年現在、ベーリンガーの子会社であるエスエス製薬が提供するアレジオンは、一般の薬局で取り扱われる第一類医薬品となっている。

社運を賭けてアレジオンを売ろう。社内でそんな気運が高まっていたさなか、松田に用意された舞台は、埼玉県や山梨県に隣接する東京都の西多摩地域だった。多摩川の源流となる奥多摩ダムや鮎が釣れるほどの清流が流れる自然豊かな檜原村に象徴される「のんびりした都会の田舎」で、松田は「120kmぐらい営業車で走り回る(笑)」日々を送ることとなる。

大型新薬は、日本の大手製薬会社(以下、S社)も動かしていた。結果として両社は、パッケージが違うだけで中身はまったく同じ商品を併売するというガチンコバトルを展開することとなる。
「クロスマーケティングと言って、S社の降圧剤(ACE阻害剤)とアレジオンを交換して、どちらも一緒に売りましょうということ。まぁベーリンガーは自社のMRだけでは日本市場で勝てないと考えていたのでしょう。S社の販売ルートを活用したかったんだと思います」

最大のライバルは、10倍以上の営業経費予算を持ち合わせた、西多摩地域を担当するS社のMRたち(3名)である。接待として地域医師会ごとゴルフコンペに連れて行くほど懐が潤沢なS社との力の差は、俎上に載せるまでもなく明白だった。

そんな相手にまともに勝負したところで勝てるわけがない。あらかじめそう認識していた松田が編み出したのは、取引先の医薬品卸会社、看護師や薬剤師、放射線技師といったコメディカルスタッフ、受付、医師の妻や家族などまわりを味方につける作戦だった。

診療時間終了後、待合室を会場として、自社の薬の宣伝を織り交ぜながら、質疑応答をふくめた30分程度の勉強会を開催した。終了後はクーラーボックスに入れて持参したドイツワインにオードブル、バケットを披露。たちまち仕事の顔をくずす医院スタッフら参加者を前に、松田は待合室をワインパーティーを催す慰労会会場へと変貌させた。

ベーリンガーではこれをSmall Size Meeting(以下、SSM)と呼び、自社のMRにどんどん開催を奨励した。潤沢な予算を生かして高価な幕の内弁当を用意するS社に対抗すべく、ドイツの中堅外資系というハンデを逆手に取ってブランド化する作戦だった。

個人で使える接待経費には限度があったため、松田は東京支店経費の枠にあるSSM予算を有効活用、東京支店内の誰よりもSSMを開催したのである。
「毎日訪問しなければならない3件の地域中核病院に加えて、約20件の精神病院・老人病院と約100件の開業医。それだけ担当している身なので、ひとつの医院には月に一度行けたらいいほうです。でもそうやって医師のまわりにいるスタッフの方々を味方につけると、S社のMRが来ても「先生!浮気したらダメですよ!」とその人たちが医師を止めてくれる。薬の処方権を持っている医師さえ押さえたらいい、というものではないんです」

松田の頭脳プレーは開業医のみならず、勤務医が所属する地域中核病院などにも及んでいた。目をつけたのは、駐車場の係員を務めるおじちゃんや院内の掃除を担当するおばちゃんだった。

病院に出入りする折、つまり1日に2度顔を見る彼らの懐に入り親しくなるうち、ターゲットとする医師の車の車種や駐車位置、院内の通路を通る時間や曜日など、有益な情報を引き出すのに成功。無駄な動きを減らし、効率よく医師に会うための作戦を仕掛けたのである。
「MRって医師が疲れて休憩しているときに話してはじめて仕事になる職業なんですよね。よく病院内で見られるのは、大手から中小まで、外資系・日系を問わず、複数の製薬会社のMRが医局の傍でずらっと並んで待っている光景です。隅の方にひっそり立っているとはいえ、医師にとっては嫌だと思うんです。
そこから一歩抜け出すために必要なのは“よろず屋”でいること。東京競馬場の厩舎監視員だった経験を活かして、競馬好きの医師に話題を提供したり、勉強したドイツワインに関する知識をワイン好きの医師に教えてあげたり。医師としても、仕事とは直接関係のないお困りごとやニーズに対応してもらった相手の話ならすこしは耳を傾けようと思うでしょうから」

医療機関と価格交渉をする医薬品卸会社の営業マン(以下、MS)という存在も松田は忘れてはいなかった。薬剤について医療機関と価格交渉したり実際に納品したりする彼らを、日本の大手MRが顎で使うような場面が散見されるという現状にも着目。優秀なMSにのみ的を絞って対等な関係性を構築する根回しにもいそしんだ結果、松田はS社に、ほぼ10 – 1 のスコアで大勝したのである。

事前におこなわれたコ・マーケティング会議の場で、S社の連中は「君は適当にやってていいよ」と歯牙にもかけない様子だった。本気で勝ちにいくつもりだった松田は、ただひとつ、S社のMRにこう約束させた。
「どちらかが先に採用されたら潔く負けを認めること。価格を下げてひっくり返すことはお互いにしないという紳士協定を結びましょう」

S社のリーダーMRの反応はまさに快諾だった。
「そこでバカにされて悔しかったぶん、大差での勝利は痛快でしたよね。途中からは、弱小チームを贔屓するような気持ちになったんでしょう、医師や薬剤師たちも「がんばれよ」「S社に負けるな」と応援してくれたりと追い風も吹いてきたんです。私たちの勝負の行方を観客目線で楽しむ、抗アレルギー剤には関係のないライバルメーカーMRや医療スタッフもいましたから。

今でも、当時のことを思い出すと吐きそうになるんです(笑)たった1週間で約100件を訪問、医師に商品説明をして、納得してもらってサンプルを配置。本当に苦しかったけれど、今となってはいい思い出です。若くなければできないことでした」

もし関係者に両者の勝敗予想をベットさせていれば、松田の属するベーリンガーは100倍以上のオッズを叩きだしていたことだろう。

S社のMRに「あいつはスーパーマンか?!」と言わしめる大番狂わせを演じた松田に神風が吹いたのは、翌1995年の春だった。例年にない大量のスギ花粉が日本中に飛散したのである。

結果、西多摩地域のベーリンガーのアレジオンの販売実績は約1億5000万円/年という爆発的ヒットを記録。たったひとりの販売実績が、ある地方営業所の販売実績を超えてしまったのだ。同期はおろか、新人からエース級MRまで約600人のMR営業マンをあっという間に抜き去った松田は、ぶっちぎりのトップに躍り出していた。

以後もハイレベルな成果をあげつづけた松田は、半期に一度おこなわれる東京支店長表彰ではベスト3に名を連ねる常連となる。

アレジオンの爆発的ヒットには、イカサマや裏事情があったのではないか。ベーリンガー社内の営業管理職連中が松田の毎日の販売実績をモニタリングしていた時期もある。だが、医師の実処方に基づく本物の販売実績だとわかると、「あいつは売ってきて当たり前」という認識がしだいに社内に浸透していった。

猛勉強にいそしんだ入社後の半年間にはじまり、社会人になって早々に結婚した妻が長男を身ごもっているさなかも、朝7時に家を出て夜の23時に帰宅するような日々だった。朝、営業所を出て行ったきり、夜まで戻ってこない松田に先輩がつけたあだ名は「出たきり雀」に「鉄砲玉」。S社に馬鹿にされた悔しさをエネルギーに変えて、がむしゃらに人の2倍、3倍働いてきたという自負もある。とはいえ、この程度がんばっただけでNo.1になれるのか? 天狗を生んだのは、努力に見合わない大きすぎる成果だった。
「当時、数字(販売実績)をあげられない先輩や同僚に対して「なんであなたはできないのか?」「みんなで決めた個々の販売目標は達成しましょうよ」と責めるように接していた私は、きっと嫌なMR営業マンだったでしょう。

実際、30歳、40歳くらいになってくると、ほとんどの営業はフットワークが鈍るんですよね。適当に手を抜くことを覚えるから、そこそこの成績でよしとして、アイドリング状態で営業にまわるわけです。それが私には我慢ならなかった。

確かに、アレジオンの爆発的ヒットは会社にとってはヒーロー誕生。とても喜ばしいことだったのかもしれないけど、人間的には最低でしたよね。切れ味鋭いジャックナイフのようだった当時の自分と重なる若い子を見ると、かわいそうに思うんです。もっと周りを見てごらんよと言いたくなりますから」