#104 シューズミニッシュ 東京営業所 所長(取締役) 松田 良博さん


忘れ得ぬ出会い
 そんな天狗の鼻をへし折ったのは、松田の直属の上司として転勤してきたK係長とN課長(多摩営業所長)だった。
「いや、松田くん、違うよ。そうじゃないよ。君はよくできる。実際、結果も出している。でもね、これまで会社の歴史を作ってくれた先輩たちがいるから君は勝負できているんだよ」
 K係長からしつこいほど繰り返し語られるうち、松田のなかに新たな視点が育っていく。
 松田に恥をかかせたのも、そのふたりの上司である。東京支店の営業会議のなかで半期に一度の支店長表彰者は約20分間の成果報告をおこなう、という定例会的イベントは、いつも登壇者となる松田にとってはスポットライトを浴びられる心地よい場所だった。しかしふたりは松田に提案する。
「松田くん、君が優秀なのはわかったから。もう、やった結果を自慢しなくていい。こんどは逆にいこう。君にも売れなかったものあるな? 君ができなかったこと、失敗したことを発表しよう」
 みんなに成果を自慢できる場ではないのか? みんなに賞賛してもらえる場ではないのか? なんで未達成の事柄を発表しなければならないんだ?
 浮かんでは消える疑問符を胸に抱えつつ、担当地域から多摩営業所に戻り、20時、21時頃から2時間ほど、上司の指導を受けながらプレゼンの練習をすること約2週間。営業職として自身の担当地域の仕事も抱えているにもかかわらず、根気強く付き合ってくれたK係長から頭ごなしに叱られたことは一度もない。
 「松田くん、違うよ」「そうじゃないよ」嫌になるほどそばを離れなかったK係長が耳元でささやくように語る声は、いつも決まって優しげだった。
 そうはいっても大勢の人前で失敗談を語ることへの抵抗感は払拭できないもの。もし非難されたり追及されたりしたらどうしよう……。松田は恥を忍んでプレゼンに臨んだのである。
 会場に集まった千葉・埼玉・東京を拠点とする約100人のMRたちは完全に虚をつかれたのだろう。プレゼン終了後、シーンとした静けさが会場を包んでいた。質疑応答でも、どうでもいいような内容の質問が1つあった程度。東京支店長もただ驚いているだけだった。
 一方、松田自身は、全体会議終了後に居酒屋で開かれた飲み会の場で驚くこととなる。「松田はできない人間に対して攻撃的で嫌なやつ」そんな認識を改める必要性を感じたのだろう。不本意な発表をさせられたことに気落ちする松田のもとに生ビールジョッキを持って近寄ってきたのは、MR同期メンバーのひとりだった。
「おまえかっこよかったで。また、おまえの力こぶを見せられると思ったら、いきなりパンツ脱いで、ケツの穴を開いて俺らに見せてきたもんやから、びっくりした。すげぇぞ、おまえ!」
「え?! めっちゃ恥ずかしかった……。思い出したくもない発表だった……」
「おまえができへんかったってことは全員できてへんねん。おまえのプレゼンを聞いて、あの時に会場にいたみんなが反省したはずや」
 松田は回想する。「どうもふたりの上司の狙いはそこにあったみたいですね。来期にその失敗をカバーして、全体のレベルアップを図ろうと考えていたのだと思います。
 K係長は私を再教育するためだけにあてがわれた上司だったのでしょう。K係長はそれまで私が冷めた目で見ていた“できない営業マン”のひとりで、出世も平均よりずっと遅かったし、際立った存在として評価されたこともない。でも人の痛みがわかる人だったのでしょう。とにかく、天狗の鼻をへし折ってくれた人と出会えたことはありがたかったですね」
 松田がそのK係長と関わりを持ったのは3ヶ月だけだ。だがその3ヶ月なくして、のちの進化を語ることはできない。
 ふたりの上司のアドバイスにしたがい、一時的に自分の担当地域を離れて、先輩や同僚MRの担当地域を手伝ったりするようになるなど、ひとりでゴールを量産するのではなく、チームで連携しながらゴールを重ねていくプレースタイルへ。
 かくして松田は、トップの成績を維持しつつも、多摩出張所の売上増加に貢献した。翌年、多摩営業所に格上げされた後の先輩や同僚MRとの飲み会は楽しかった。さぁ、これからこのチームでもっと売上を伸ばしていこう! そう胸を高鳴らせていた松田は突然、MR部第一課、慶應義塾大学病院担当への異動を告げられたのである。
 大学病院を担当するMR部第一課は、全国の強者MRが集う精鋭部隊だ。なかでも私立医科大学の雄・慶應義塾大学病院担当とくれば、東京大学病院担当と並ぶ、花形中の花形である。
 当時のベーリンガーにおいて、過去30年のうち同病院を担当したのはわずか3名のMRのみ。そのうちの初代担当MRは当時の監査役、前任者となる3代目担当MRは管理職となり、札幌営業所の課長として栄転。その後釜として白羽の矢が立ったのが松田だった。
 30歳代半ばの有望なエース級MRが担当するのが通例とされている重要ポストである。そこに最先端の医療機関でもあり医師教育機関でもある大学病院のイロハを知らず、医薬品治験開発にもたずさわったことがない入社4年目、20歳代半ばの若手が抜擢されたのだ。少なくはない社内からの反対意見を押し切ったのは、当時の東京支店長とMR部長(松田の元上司で前多摩営業所長)だった。
「アレジオンを1年で約1億5000万円も売って、担当地域の販売目標を約2倍の3億円超えにした成功報酬は2万円の図書券だけで特別ボーナスもなし。その代わりに与えてもらったのが大きな舞台とチャンスだったんでしょうね」

ロールプレイングゲームとして
 ベーリンガーにて出世街道をひた走る松田は、入社以来、先輩から口々に「お前、本当によく働くなぁ」と言われてきた。かといって、そこに至るまでの道のりは、努力というモノトーンに統一されていたわけでもない。
 「あの作業をよく忍耐強くやったね」「よく1週間で約100件もまわったね」まわりからそう驚きまじりに褒められても、嬉しくなかったわけではないが、またがんばろうという気持ちにはならなかった。
「たとえば、人に決められた義務やノルマではなく“ほんとうに悔しい”という感情を燃料として、「月曜から金曜までの限られた時間の中で、いかに効率よく100件訪問するか?」という課題に正面から向き合うこと。できないという思考を排除して、自分の限界に挑戦してみる。そんな心構えで目標設定することができたなら、奇跡は起こるんですよね。
 そうやって、仕事にやりがいやおもしろみを見出してやると、時間も忘れて夢中になれる。やりきった達成感や成果をあげられた満足感に加えて、報酬をもらったり、人から賞賛されたり、公の場で表彰されたりといった副産物も後からついてきますしね」
 松田の前に新たな扉が開けたのは大学時代だった。アルバイト先となる焼肉屋でただお金を稼ぐためだけに時間をやり過ごすことは苦痛でしかなかった。しきりに時計を見やりながら残り時間を計算するような働き方では、おもしろみなど味わえるはずもない。
 そこで考えたのが、目の前にある仕事を工夫したり、改善したりして、お客さんが喜ぶ接客サービスを提供すること。すると、お客さんやバイト仲間から感謝されたり、店長から褒められるうえに、場合によっては時給も上がるのだ。創意工夫が好循環を生むということを体験した松田はやがて、「仕事、ひいては人生自体がロールプレイングゲーム」という基本姿勢を身につけていった。
「いつでも仕事の中に楽しみを見出して、ゲーム感覚で取り組むほうが私は苦にならない。そうでなければ、ベーリンガーでNo.1MRにはなれなかった。どんな厳しい状況、環境であっても、どんな商品を扱っていても、真剣に課題に向き合えば、小さなイノベーションは絶対に起こるはず。仕事を楽しく思うのか、つまらないと思うのかは、その人の工夫しだいだと思っています。
 きっと超ポジティブシンキングなんでしょうね。ストレングスファインダーテストが示す私の強みは「活発性」「最上志向」「社交性」「個別化」「達成欲」。やると決めたら集中して自己着火するのが得意なんだと思います(笑)」

営業は技術職
 26歳のとき、ベーリンガーで慶應義塾大学病院を担当するようになった松田は、アカデミックベースの営業ノウハウを身につけてゆく。きっかけとなったのは、コンサルティング会社のM社が提案するさまざまな理論にもとづいた「科学する営業」が会社に導入されたことだった。
 N先輩の提案により、MR部の面々と実践の場で積んだ経験をもとにマーケティングの基礎から再勉強に取り組んだ時期もある。M社の新人コンサルにディベートで完敗したことが、松田をふくめた精鋭集団の心に火をつけたのだ。
 バーバラ・ミント、齋藤嘉則、大前研一など、今まで気にも留めなかった人たちの著作を読みあさる日々だった。孫正義、稲盛和夫、柳井正……。バブル崩壊後の長期低迷時代であれ「成功者」と呼ばれる実業家の本をたくさん読んだのもこの頃のことだ。
「入社してからレベルの高いものにずっと触れつづけた8年間は、これまでの人生でもっとも内容が濃かった時代。アメリカ系製薬会社に転職する30歳のときには、営業スタイルはほぼ完成していましたね。
 きちんと理論立てて勉強してトレーニングすると違う世界が見えてくる営業は技術職だと思っています。それでいて多趣味かつ好奇心旺盛じゃないと、どんな業界にいてもたぶん上には行けない。広い知識や雑学、相手のニーズを読み取る力や奉仕精神、お酒を飲んでも相手を楽しませる技術……。そういうものを備えてはじめうまくいくのだと思います。だから“とりあえず営業をやろう”“営業は誰でもできる”と思われるとものすごく腹が立つんです」
 MR時代、松田は仕事のかたわら約半年間、自由ヶ丘ワインスクールに通い、日本ソムリエ協会の呼称資格“ワインエキスパート”を取得している。合格率は約30%。専門職ではない一般にはハードルが非常に高いと言われている資格である。
 アマチュア無線技士の資格を取得したのは社会人2年目となる1993年のことだ。書店で購入した虎の巻の内容を2週間で丸暗記し、資格試験に合格した。まだ携帯電話が世に誕生して間もない時代のこと。ひとえに、ワインやアマチュア無線を趣味とする医師との距離を縮めるためだった。
「プライベートの時間を使ってでも、手間暇を惜しまずに、相手と同じ世界を見てみる。すると、それまでの自分には見えなかった新しい世界が広がっていくんです」
 MR時代、松田は親しくなった開業医から誘われたBBQパーティーに妻と幼い長男を連れて参加、医師の妻に長男を抱っこしてもらったことがある。その医師の息子に東京競馬場厩舎監視員のアルバイトを紹介したこともある。
「仕事につなげられれば、という思いがないわけではないけど、アメリカ式というか、パーティーそのものを純粋に楽しもうという気持ちで参加していました。だからこそ、そうやってプライベートな時間を共有した人たちとは、MRの仕事から離れた今でも親しい関係を保てているのだと思います」
 苦学生だった大学時代、生きていくために活用できるものはすべて活用した。人付き合いもないがしろにしなかった松田は、クラスの優秀な友人からテスト前にノートを借りられるよう、楽しみながら麻雀にも時間を費やした。
「特別奨学生だったが、お世辞にも特にまじめな学生ではなかった。しかし、要所要所では勉強して成績を上げられる集中力を持っていたのだろう。お金がなくても彼女とのデートを楽しくする工夫をする。学食で彼女との食事を済ませるのは確かにセコイが、むしろ微笑ましいと私は思いました」とは、結婚式で仲人を頼んだ大学時代の恩師の言である。
「いろんな引き出しを持っていることで、この人と繋がっていたらおもしろいと思ってもらえたり、困ったときに頼んだらいいアイディアや企画が出てくるんじゃないかと期待してもらえたりする。正面突破するより、外堀を埋めたほうが早いというか、遠回りしているようでいて、それが結果的に交渉事をスムーズに進めさせてくれるのです。
 だから、まず“商品の良さありき”ですが、私は何を扱っても営業の世界でやっていける自信はあります。ベーリンガー時代に習得したPSS話法の訓練では、ロールプレイングでブルドーザーを売る練習をしたり、高齢者に2シーターのスポーツカーを勧める場面を想定した課題もあったり(笑)。要するに、どんな分野のどんな商品でもプレゼンテーションの基本は変わらないのです」
 いまも松田の大動脈となっている営業マンの血を騒がせるのは、昼休みなど、職場にやってくる保険のセールスレディだ。視線を逸らされたり、無視されたり。アウェイ感に満ちあふれた雰囲気の中、どうやって間合いを詰めてくるのだろう。無関心を装いつつも、松田の視線は彼女らセールスレディの一挙手一投足に集中している。
「誰が扱っても、まったく同じ保険という商品で、優秀な成績をあげる人もいれば、そうでない人もいる。その大きな違いは「思考と技術」「構想力と分析力」なのです。
 営業と経理が存在しない会社はほぼないですから。これまでの営業経験で高めた経験値や自分なりに会得したノウハウは強みであり、会社に貢献できる私の役割だと思っています」
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