#105 シューズミニッシュ 品質管理部 一木 晃一さん

105 一木晃一さん

「この会社で働くことを通じて、人間を磨いていきたい」

 

 

1975年生。大阪府出身。高校卒業後、教師になりたいという夢を抱いて信州大学繊維学部に入学。卒業後、不織布製造メーカーなどでの勤務を経て、2012年、36歳のとき、高校の同級生である高本泰朗が社長を務めるシューズミニッシュに入社。以来、品質管理部で働くパートの女性たちをまとめてきた「涙もろくて、やさしすぎる人」(高本談)。

※ 文中敬称略

記事公開:2016-8-15

 

幻のような日々
 高校3年の秋。きっかけは些細なことだった。
 体育祭か何かのイベントだったか、記憶は定かではない。ある日、好きな女子がいるクラスメイト・Oを囲んだ友人たちとの間で、「次の化学のテストでOが負けたら告白する」というノリが発生した。
 一木にとっては何のリスクもない勝負だったが、Oを負かして告白させたいと燃えていた。そうして化学の勉強と向き合いはじめた一木のなかで何かが目覚めていた。
 約2週間後。意中の相手に告白したOはあえなく撃沈したものの、一木にとってはある意味“幸運”な出来事となる。回転しはじめたエンジンがごとく、とっかかりさえつかめれば、あとは力を加える必要はなかった。参考書や教科書の内容へと理解が進むにつれ、まるで授業についていけなかったそれまでとは打って変わって、教師が語る言葉もすんなり頭に入ってくるようになったのである。
 短期間の取り組みで、それまでうろついていた40点近辺から80点へと急上昇したテストの成績は、夜な夜な勉強机に向かう日々へと一木を運んでいった。と同時に、それまで毛嫌いしていた化学は、もっとも好きな科目へと反転。やがて、みずから難易度の高い問題集に挑戦するようになるのも自然な流れだった。
 もとより器用に生きていけるタイプではないことは自覚していた。頭の回転が速いわけでもなく、人に強く言えない気の弱いところもある。公立中学の上位層が進学する高校に通っていたとはいえ、勉強はおしなべて苦手で、みな全体の3分の1以下。英語に至っては長文を読むことすらしなかった。人より秀でたものが見当たらないことに悩む一木のなかに、一連のできごとは明確なビジョンを育んでいく。
 人間的に固まっていない年頃の子どもたちに、できなかった自分の過去やある一件がきっかけで勉強を好きになったというエピソードを語ることで、何人かでもひっかかる子はいるんじゃないか。きっかけさえ与えられれば、あとは自分で学んでいけるんじゃないか――。そんな思いにピタリとはまったのが、化学を教える高校教師という職業だった。
 授業の冒頭では生徒に好きな異性の話を振ったりしながら、5分ほどたわいもない雑談をしたり、生徒と同じ目線に立って話を聞いたり……。確固たるビジョンとまでは言えないが、勉強を教えることに終始することだけは嫌、という意志が軸を成していることは確かだった。
 ロールモデルがいたわけではないが、予備校でなりたい教師像に重ねられる講師に出会ったりもした。おそらくその講師なりのテクニックだったのだろう。30分ほど余談をした後、人が変わったかのように生徒を授業へと引きずり込んでいく。授業内容そのものよりも、メリハリの効いた授業スタイルで生徒を引きつける講師の姿に、一木は興味をそそられていた。
 とりあえず一人暮らしをしたい、という思いも相まって、受験科目が化学だけの信州大学繊維学部に志望校を定めた一木は、センター試験で受けなければいけない他の科目の勉強にも意欲的に取り組んだ。
 好きこそものの上手なれ。心の引力に身を任せるように勉強した一木は、1年間の浪人生活を経て志望校に合格。教師という夢を実現するための第一関門を突破したのである。
「当時から授業で勉強を教えなくていいとは思っていました。人間教育というと大げさやけど、勉強のさわりだけ伝えて、本人が好きになったら勝手にするやろうと。カギとなるのは、教え方の上手下手じゃなくて、おもしろい授業をするかどうか。大人にもこんな人がいるんや、教師にもこういう形があるんやと生徒から思われるような教師になりたかったんです」
 ところがどうして、一木はその後、教師という職業からは縁遠い人生を送ることとなる。
 熱が一瞬にして冷めたのは大学1年の夏だった。教員免許をとるために履修しなければならない教職課程の授業がすべて、2ヶ月ほどの夏休み期間中に組まれていると知ったからである。
 とりあえず夏休みは地元に帰りたい。そんな思いが芽生えるとともに、己の意志と分かちがたく結びついていたはずのビジョンはどこへやら、胸の内で煌めいていた教師という夢も朝露のように消えていた。
 やがて一木は、徹夜で勉強できるほど好きだった化学も嫌いになってゆく。学ぶ内容がより専門的になったとき、苦手な数学の要素も混ざっていることも手伝って、ついていけなくなったのだ。と同時に、研究には欠かせない実証実験などの地道な作業にも気が乗らなくなってゆく。数年前に引き戻されるかのようにして行き当たった現実を前に、一木は大学を辞めたいという思いを抱かずにはいられなかった。
「今にして思えば、先生になるために必要な勉強としか思っていなかったからでしょうね。そこで得たものを深めて新しいものを生み出すことは考えてなかったんだと思います。たまたま自分にヒットしたのが化学やっただけで、科目は何でもよかったんです。ただ、なんであんなに夢中になって夜な夜な勉強してたんやろう、なんですごく嫌いになったんやろう、とは今も不思議に思います(笑)。
 飽き性なのかもしれないし、メンタルがめっちゃ弱いのかもしれない。(笑)運動神経が悪いのになぜか入った少年野球チームをすぐ辞めたりと、乗ってるときはいいけど、つまらなくなった途端、すぐに投げ出したことはけっこう多いですから」
 高校受験を控えた中学3年の冬休み、独学での勉強に頼ることに不安を感じて塾に行ったときもそうだった。
 「塾に行かなくても勉強はできる」という親の教育方針もあり、一木は塾に縁のない子ども時代を送っていた。とくべつ負けず嫌いというわけでもなかったが、学校社会では頭ひとつ抜け出せる塾に通う連中に特権めいたものを感じていた。
 毎回のようにそれを感じさせられたのが数学のテストだった。制限時間ぎりぎりまで頭を絞って考えたところで、結果はいつも80点前後。ひらめきを不得手とすることもあり、応用力を試すような最後の問題を解けためしはない。ひるがえって、それ以上の点数を叩き出してくるのは、目新しい解法を身につけた塾に通っている連中ばかり。どうにもこうにも埋められない彼らとの点差。おなじ塾に通う友達の輪――。未知の世界を知る彼らへの羨望や自身への歯がゆさまじりの憧れを胸に、一木はひそかに塾に通う機会をうかがっていたのである。
 そうして訪れた中学3年の冬。どんな楽しい世界が待っているのだろう。冬期講習の初日、期待に胸を踊らせて行った塾では、誰ひとりとして顔見知りのいない環境に失望を禁じ得なかった。これだったら一人で勉強しているほうがいい―—。ほどなくして塾への憧れは跡形もなく消え、一日限定の冬期講習は幕を閉じたのである。

 

調和を求めて
「僕はもともと個で何かをするのは弱いタイプの人間です。一方で、いいか悪いかは別として、チームメンバーをフォローしたい気持ちはめっちゃ強いんです。
 自我みたいなものはほんまにない、といったら嘘になるだろうけど、その人が好きなことにフォローできることに僕は喜びを感じてしまうんです。あとは、わがままを言ってはいけない、という信条みたいなものもあるのかなと」
 一木には忘れられないできごとがある。中学3年のときのことだ。おそらく自分に好意を寄せていたのだろう。学校の同級生だった女子から、一木は「一緒に写真を撮らせてください」と頼まれたことがある。
 しかし、一木はその申し出をすげなく断っている。一木自身、彼女に好意は抱いていなかったからである。そもそも一木には、断らなければならないのが嫌だから、自分に告白したり、手紙を渡したりしないでほしいと思うようなところがあった。さらに言えば、異性と接することじたいそれほど好きではなかった。
 中学を卒業するときにも、一木は「第2ボタンをほしい」という彼女の頼みに応えていない。というより、渡したい特定の相手がいなかった一木は、仮に声をかけられた場合、さいしょに言われた子に渡すと決めていたため、彼女が来たときにはもう、第2ボタンは誰かの手に渡っていたのだ。「なんで渡すのよ」不服げにそう漏らす彼女にも、特別な感情が湧くことはなかった。
 別の高校に行った彼女が交通事故で亡くなったという風の便りが耳に届いたのは、それからしばらく経った高校時代のことだった。
 記憶が走馬灯のようによみがえってきた。なんであのとき、一緒に写真を撮ってあげられなかったのだろう。亡くなってしまえば、何もしてあげられないじゃないか。たとえ彼女は忘れていたとしても、自分のちょっとしたわがままで彼女の夢を叶えてあげられなかった自分はなんてちっぽけな人間なんだ……。その日、自責の念に苛まれながら、一木は「人の気持ちを無碍にするようなことはしたらあかん。これからはわがままを言わないようにしよう」と肝に銘じていた。
 もとより他人の意向を優先するタイプではあったが、一木はその日から20歳すぎ頃まで、その思いを肌身離さず持ち歩くような生き方を実践することとなる。
「年齢を重ねるとともに、だんだん記憶が薄れてきた自分への嫌悪感が湧いてくることはたまにあります。ただ自分のベースには残っているから、わがままを言わないというスタンスは基本的に変わってはいません。中学のとき、彼女と写真を撮らないと決めたのは僕ですから。
 やっと欲しいものが見つかった、と人が喜んでいる姿を見られるのなら、自分が折れたり、欲しいものを我慢したりするのは、僕は全然苦にならない。べつに美化してるわけでもなくて、そういう性格の人間なんでしょうね」
 大学時代、年下の人間からおちょくられたり、からかわれたりしても、怒るようなそぶりを一切見せなかったからでもあるのだろう。一木はまわりから「(あなたには)プライドがないよね」と言われたことが何度かある。
「プライドがないことが僕にとってのプライドなのかもしれません。何にも固執していないようでいて、その実、プライドを持たないことに固執しているというのかな。天然でやってきたわけではなく、「自分」というものを持たずに生きようと決めて生きてきたわけですから」
 そんな一木にも執着するものはある。
「教師をしてみたいという夢は、今も心のどこかにあります。夏休みに地元に帰れなくなるという程度の理由で諦めておきながら、大学時代も、社会人になってからも、教師になりたい、教師をやってみたいという思いが潰えたことはないんです」
 現在、一木は品質管理部で計40名程度の女性スタッフをまとめる、いわゆるリーダー役を担っている。メンバーは、20代から自身よりも年上の40代、50代の主婦までと、幅広い世代で構成されている。
「教師の立場でいうと、自己主張の強い子なら見えやすい一方で、おとなしい子が実は内心で怒っていたりするのはわかりにくいのと同じで、相手は大人であっても、外目にはわかりにくいところまでちゃんと目配りはしなきゃいけない。といっても、実際には目が届いていなくて叱られることは多々あるんですけどね(笑)」
 職業や立場は違えど、心を通い合わせる相手を欲する気持ちは一木の胸底で脈々と流れつづけている。
「人に何かを伝えるのは苦手やし、「言葉足らずや」とはよく言われるけど、やっぱり自分の意思が伝わったときはうれしいんです。だから、たまにしかないことだけど、職人さんがめっちゃ怒ってるから謝りに行かなあかんとなっても、そんなに嫌じゃない。話すことで問題が解決して、今後もうまくやっていくことはできるんじゃないか、と期待しているところは大いにあります。
 職人さんたちは個性が強いから、早く帰りたいと思う時もあれば、トラブルが起こることもある。そういうのもひっくるめて人と接しているなかで、意思が通じたときは、めっちゃ生きてる感じがするんです」
 思えば、新卒で就職した会社でも現場は好きだった。大卒の一木が研修期間として1年間限定で配属された工場は、辞める人も多く、社内でもっともきついと言われている場所だった。
 80kg程度の製品を持ち運びしなければならなかったり、汚れることは免れないという理由で唯一作業着を支給される部署だったり。苛酷と言われる所以に心当たりはあったが、一木はむしろその仕事を楽しんでいた。現場の同僚と仲良くやれたこともあり、現場でずっと仕事をしたいと思うようにすらなっていた。
「パチンコ屋でアルバイトした時もそうですけど、肉体的にしんどいとか、ヨゴレとか言われるようなことに抵抗感はなかったんです。むしろできる人が限られている仕事を自分がやれていることに誇りを感じているようなところはありましたね」
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