#111 RegettaCanoe RinCチーム 木村 花野子さん

最上を求めて
 上司の日吉慶三郎は木村についてこう証言する。「弱音を吐かない彼女は、人から「顔色悪いから病院行ったほうがいいですよ」と言われるまで頑張るようなところがある。僕の一回り以上年下やとは思えないほどしっかりしているから、つい敬語でしゃべってしまうこともあるんです(笑)」

 3人きょうだいの末っ子という育ちに小柄な体躯。まわりから「幼い」というレッテルを貼られがちなことも手伝っていたのだろう、子どもの頃から木村は旺盛な自立心を持ち合わせていた。

 専門学生時代にも、自立を求める気持ちは人一倍。地元で働いている兄に、地元で結婚した姉。学費や生活費など、親から経済的な援助を受けているのはきょうだいの中で自分だけ。親に迷惑をかけないように、早く自活できるようにならないと——。自身を苛む後ろめたさと一体化した自立心は、専門学校卒業後、正社員として働きはじめてもダーツバーの仕事を続けるという道を木村に選ばせた。

「当時は若さもあったというか、お金さえあったらなんとかなるやろ、一人で何とかできるやろ、と突っ張っていた感じですね」

 20歳のとき。アパレル販売員の仕事を辞める際、世話になった店長と交わしたやりとりを木村はいまでも覚えている。

「キムキム(木村の呼称)は怒られても泣かへんよな」

「泣きそうになるんですけど、泣いても何も変わらないと思うから泣かないんです」

 木村のまっとうな返答に頷きながらも店長は言った。

「でも泣いた方がかわいいと思うよ」

 木村は回想する。「意地っ張りなわたしに女性としてアドバイスしてくれたんだと思います。子どもの頃、よく遊んでいた兄と喧嘩するなかで芽生えた「泣いたら負け」みたいな感覚が染み付いていたのかもしれません。そのとき店長から言われたことには納得したというか、考えさせられるところはあったんです」

 そんな木村について、高本は「悩んでるかなと思って見守ってたら、自分の力でスッと立ち上がってたりと、気が弱いのか強いのかわからないところがある」という。

「いまだに人に弱みを見せたり、人に頼ったりするのは苦手。相手が忙しければ申し訳ないな、弱みを見せてもみんな困れへんかなという思いが先に立つから、つい抱え込んでしまうんです。実際、弱みを見せたりしたところで、事は運ばないように思いますしね」

 変化が訪れたのは、直営店で店長を務めているときのこと。人に頼らなければ何もできない、と実感させられたことがきっかけだった。ファシリテーターの長尾彰から聞いた話が知らぬ間に浸透してきたというのもあるだろう。いつしか木村は、自分は一番じゃなくていい、店のスタッフが働きやすい環境を作るのが店長の役割だと思えるようになっていた。

「以前は、自分に足りないパーツを自分で補おうとばかりしていたんでしょうね。そういうところは今でもたぶんあるし、挑戦したいという気持ちと裏腹なものだから、悪いものだとは思わない。とはいえ全部自分でやっていたら目指しているものからはほど遠くなってしまうから、物事の優先順位を考えたり、得意な人に委ねたりするようには心がけているんです」

 自身の強みを診断するストレングスファインダーが示す木村の強みは「最上志向」だ。木村自身、「性格的に、どれだけやっても満足いくことはないだろうし、満足してしまった時点で進化は止まると考えている」。

 他者の目にも「自分の納得感が大事やから、なんぼ褒めても喜ばない(笑)」(高本)、「まわりが80点、90点と合格点を与えたところで、本人の自己採点が50、60点から変動することはない」(日吉)と映っている。

 3年前、直営店の店長を務めるにあたり、木村には理想とする店長像があった。すぐれた観察力、判断力で人をうまく活かしながら、店の売上を増加させたマクドナルドの店長、話し上手で接客にも長けていて、男女問わずファンが多かったかわいいアパレルショップの店長……。これまでアルバイトを通して出会ってきた「尊敬できる店長」たちの存在である。

「わたしが今まで出会った店長には、「仕事面の能力はどれをとっても一番」という人しかいなかった。だから自分も、スタッフのなかで一番仕事ができなきゃいけないという思い込みはあったんです」

 さらにルーツを辿れば、母の残像にも行き当たる。

 アレルギー体質により卵と牛乳を食べられない3きょうだいのため、給食に卵が入っている献立の日には、代わりとなる手料理を学校に届けてくれていたのは、幼稚園、小学校時代のこと。料理の味も抜群で、味見した友達から羨ましがられたことも何度かある。

「家事に子育て、仕事。いろんなことをパーフェクトにこなす母は尊敬できる人。わたしが今まで出会ってきた人のなかで、仕事に対して一番ストイックだったんじゃないかと思うくらいです。どんなに辛くても私たちの前で涙を見せなかった母の影響を受けているところはあるでしょうね」

 10月3日に生まれた木村は「花野子」という名前を母からもらっている。出産を間近に控えた頃、病室の窓から眺めた、今を盛りと川沿いの野原で自生する秋桜の群れ。その景色が運んできた名前には、「かわいらしく、たくましく育ってほしい」という母の願いが込められている。

誰かのためではなく、自分のために
 幼い頃、木村の胸に「強い」母親像を刻みつけたのは、夜中2時、3時頃になっても、こたつ机の上で仕事をつづける母の姿だった。仕事道具で散らかった机の上に突っ伏すように眠っていたことも一度や二度ではない。物陰からそっと覗きながら、「無理をしている」母の辛さをわが事のように感じる木村の胸にはいつも、母をいたわる気持ちが息づいていた。

 しかしそれが自身の思い過ごしだったとわかったのは最近のこと。いまも愛媛で暮らす母から、「仕事は苦しいものじゃなくて、楽しいものだったんよ」と聞いたのである。

「寝不足で辛かったわけではないとわかって、うれしかったんです。おそらく仕事に熱中しているうちに止まらなくなっていたんでしょうね」

 母のよろこぶ顔が見たくて、悲しむ顔が見たくなくて勉強を頑張った中学生時代。アルバイト先の店長やスタッフ、そしてお客さんのよろこぶ顔が見たくて、どちらを優先すべきか、時に悩んだ高校生時代。親に心配や迷惑をかけたくないからと、自立を急いだ10代〜20代前半。全国の店舗スタッフの人たちの笑顔を増やしたいと心が浮き立つここ最近――。一足飛びでアウトカムを思い描く木村が力を発揮するときはいつも、顔を思い浮かべられる誰かがいた。

 高本に連れて行ってもらったり、自主的に店舗をまわってみたりと、なるべくパートナーショップのスタッフと接する機会を持つよう心がけてきたここ1年、木村にとっての“大事な人リスト”は増える一方だ。

「結局、わたしを動かしているのは、仕事を通じたいろんな出会いなんだろうなと。全国各地のいろんな人に会うおかげで、どういう情報を伝えればいいか、その人の顔と一緒に具体案が自然と思い浮かんでくる。いまはやりたいことが多すぎて、収拾がつかない状態になっているんです。

 その人の人となりが何となくわかると好きになるというのかな。(笑)いつも警戒心は持っている一方で、けっこう信じやすいところがわたしにはあるんです。実際、うちの商品を褒めてもらえるとすごくうれしくなって、帰り際になぜかわたしが「みんなでがんばって売上とりましょう!」と言うこともありますから(笑)」

 10数年前。「もう勉強やらんけん」という宣言が意味していたのは、「私」を置き去りにして誰かのために生きる自分との決別だったのかもしれない。

「人が喜んでくれることがうれしいのは昔から変わっていません。でもよくよく考えるなかでわかってきたのは、人のよろこぶ顔を見て、わたしがうれしくなるということ。最近では、「誰かのため」で完結しているのではなくて、すべて自分につながっていると思うようになりました。関わる人たちの笑顔をもっと増やしていかなきゃいけないと思うのも、きっとそういうことなんでしょうね」

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