#112 RegettaCanoe RinCチーム 德重 総一朗さん

112- 德重総一朗さん 「この会社に入って、すべてに感謝できるようになったんです」

 

1983年生。鹿児島県生まれ、大阪府育ち。大阪芸術大学を卒業後、学生服販売会社、アパレル販売会社などにて、販売職を務めること5,6年。2013年、シューズミニッシュに入社後は生産管理部に配属されるも、約1週間でRegettaCanoeの店舗販売部門に異動し、販売職となる。その後、直営店舗の2代目店長を経て、現在はRinCチームの一員として、販売スタッフと会社をつなぐハブ的役割を担っている。子どもの頃より、何度となくゲイ疑惑をかけられてきたジェンダーレス男子の先駆けでもある。

※ 文中敬称略

記事公開:2016-11-8

 

卒業したかった販売職
 販売職はもう、卒業するつもりだった。

 そんな思いを秘めた德重がシューズミニッシュに入社してから2週間と経たない2013年4月。これがおまえのたどるべき運命だと告げられたかのように、德重は自社商品を販売する店舗に立ち、店頭接客にいそしむ日々を送っていた。

 2013年4月、大阪・ミナミ、心斎橋駅近くにオープンしたRegettaCanoe 南船場店は、同社にとって1号店となる直営店舗である。オープンに際して、生産管理部の德重が他のスタッフ数名とビラ配りに駆けつけたとき、すでに運命の歯車は回り始めていたのかもしれない。偶然にもその日、現場に足を運んでいた高本から、その場で異動の話を持ちかけられたからである。

「德重、カヌー好きか?」

「好きです。なのでここにいます」

 緊張もあったため、そんな会話から始まったやりとりのことを、仔細に記憶しているわけではない。唐突な話に戸惑わなかったといえば嘘になる。決断を翌日以降に持ち越した德重の胸にはしかし、「力を貸してほしい」「助けてほしい」という高本の言葉が舞い踊っていた。

「どこまで本気かはわからなかったのですが、それまで挨拶を交わしたことしかなかった高本が熱い想いをぶつけてくれたことに心を動かされました。

 加えて、僕の視座まで降りてきてくれただけではなく、僕の心情にも配慮しながら説得してくれたことも、トップダウンが当たり前の世界で生きてきた僕には新鮮でうれしかったんです。入社数日目の新入社員と経営者。その関係性からすれば「店舗に行ってくれ」という一言で済む話でしたから」

 販売の仕事をもう一度がんばってみよう―—。高本から伝わってきた熱は、種火すら消えかかっていた德重の心にふたたび火を熾した。

「前職となる3社すべてで5〜6年間、販売職にたずさわってきましたが、望んでそのポジションを得たことは一度もないですし、それだけ年数を重ねても(自己評価として)板についている感じがいっこうに出てこない。人見知りな自分としてはむしろ、一人で黙々とやれる作業のほうが好きで、人と接する販売職には適性がないと思っていたんです」

 とはいえ、「物腰がやわらかくてやさしい」「人と分け隔てなく接することができる」と親しい知人からも言われるように、德重の話し方なり人との接し方なり、何かしら思うところがあっての人事だったのだろう。

 事実、高本は店舗で德重を見かけたときのことをこう振り返る。「第一印象で決めました。店頭ではハリのある声でお客さんを呼びこむなど、見違えるような振る舞いを見せる彼の姿に、それまで持っていた引っ込み思案な印象はすっかり覆されたんです」

 德重は言う。「僕はもともと人見知りが激しくて、今でも人と話をするのはけっこう緊張します。接客の場面では、どういうふうに話しかければいいんだろう、数字につながらなかったらどうしよう……と、いろんな不安要素が湧いてきてしまうことが多かったんです。

 前職までは、一部を除いて、あまり愛着を持てない商品を販売していたことも苦手な理由のひとつだったのかもしれません。その商品を求めていない人に話しかけて売りつける(と感じる)仕事には、たえず「やらされている感」もつきまとっていましたしね。

 お客様から「ありがとう」と感謝されたり、お手紙をいただいたりして、うれしい気持ちになることはあったんですけど、拭い切れない仕事へのマイナスイメージは、心に棲みついたままだったんです」

 そんな背景もあって卒業を望んでいた「販売職」に新たな解釈を与えたのが、リゲッタカヌーでの経験だった。

「靴が出来上がるプロセスや高本泰朗の想い、スタッフの想い、そして生野区で暮らす400人くらいの職人が町ぐるみで作っているという背景……。一連の流れが見えてくるにつれ、その価値をどんどん広めたい、伝えたいという思いがおのずと芽生えてきたんです」

 店舗で目にする来店客の反応もその思いに拍車をかけただろう。TVショッピングでよく見かける、オーバー気味のリアクションに負けず劣らず大きな反応を直に見られるのだ。「こういう靴を探していた!」という声にはじまり、来店客の喜びようや感激っぷりからは嘘がないことが伝わってくる。そんな場面に立ち会うたび、德重は自身がすばらしい商品に携わっていることを実感するのだった。

「もともとカヌーは好きなブランドだったのですが、そうやって商品やブランドに携われていること自体がうれしくて、誇らしかったんです。もちろん売上も上げなければなりませんが、目的は価値を共有したり伝えたりしてファンを増やすこと。商品や人の価値って、伝わらなければ存在していないのと同じだと思いますしね」

 2014年4月から1年間、RegettaCanoe南船場店・2代目店長を務めた德重は、現在RinC チームの一員として、販売スタッフと会社をつなぐハブ的存在、マネージャー職に近いような役割を担っている。現場に立つ機会が減り、現場との距離が離れたからといって、評論家っぽくはならずにいよう、という意識は常に心に留めている。

「現場で働く販売員は会社と物理的距離があるぶん、どうしても実態を把握されにくいところがあります。僕自身も、前職では、数字(売上)が低い日には「何をやっていたんだ」と咎められた嫌な思い出がある。そうして結果だけですべてを判断されてしまうことへの恐怖が接客中もまとわりつくようになったことも、販売の仕事に入り込めない一因だったのかもしれません」

 プレイングマネージャーという立ち位置を理想とする德重が今年の6月頃から取り組んでいるのは、スタッフひとりひとりと、食事がてらコミュニケーションを図るという試みだ。8月以降、進捗が滞っているために次のスタッフから催促されているという現状はあるが、取り止めるつもりはない。

「みんなにお付き合いいただいている感じです。構えるでもなく、お友達になりましょう、というくらいのスタンスで接しているのは、指示を出したり、想いを伝えたりする前に、まず関係性を作ろうと考えているからです。相手との関係性しだいで、言葉の重みとかも変わってきたりすると思いますから……といっても、高本の受け売りですけどね(笑)」

 

新たな自分と出会って
「この会社は、これといった目的や目標もなく生きていた僕をがらっと変えてくれたんです」

 遡ること10年以上前。特定の部活には所属せず、放課後は足早に自宅へと直帰するのが常だった高校時代を経て、德重は大阪芸術大学・芸術計画学科に進学した。

 高校時代、美術はいちばん好きな科目だった。高校の中で、絵はうまい方だという自覚もあった。絵を描きたい、写真を撮りたいという思いがなかったわけでもない。だが、志と呼ぶにはあまりにも脆弱だった。いわゆるふつうの勉強をしたくないという動機から生まれた逃げ道にすぎなかった。

 吹けば飛ぶような目的意識しか持たない身である。才能やセンス、技術が秀でているのはもちろんのこと、本気でそれを生業にしようとしている“本物”たちに敵うはずもない。大阪芸大に入学後、早々と負けを認めた德重の目前に続いていたのは、自宅と学校を往復するだけののっぺらぼうな毎日だった。

「デザインや工芸、写真、舞台芸術にイベント企画などなど。なにか専門分野に特化するのではなくて、いろんなことをやって可能性を広げるマルチ学科——という「芸術計画学科」の解釈が合っているのかいまだにわかりません。(笑)とにかく何かを深められることもないまま、かといって学生生活を謳歌するでもなく終えてしまった大学生活は、もったいない4年間だったなと思います」

 打ち込めるものを何も持たない身には、卑屈になるより道はなかった。

「芸術がなんぼのもんじゃい。人に伝わろうが伝わるまいが、作り手自身が芸術だと思えば芸術なんだ。そんな態度を取ることで、芸術という本分から逃げ、芸大にいながら芸術的なことが何もできていない自分を慰めようとしていたのかもしれません」

 大学卒業後、アルバイトをしていた学生服販売会社にそのまま勤めることになった德重は、在学中に得た教材販売会社からの内定を断っている。そもそも「とりあえずは就職しなければならない」という声なき声に催促されるようにして就活を進めた身である。決め手となったのは、企画部として入社するはずが営業部にまわされたり、転勤はないはずが関東での勤務を告げられたりと、約束を反故にするような会社のあり方だった。

 卒業を控えた2005年新春に内定を断った德重だが、同居する両親にその旨を報告したのは、大学生活の終わりを告げる3月31日のことだ。予想どおり、先に報告した母からはこっぴどく叱られた。情けないやら、怖いやら、恥ずかしいやら、面倒くさいやら……。その日、何とも言えない複雑な気持ちを胸に、德重は父の帰りを待っていた。

 いくら穏やかな気性の父だとはいっても、雷を落とされるだろう。鉄拳制裁を加えられても致し方ない。そう覚悟していた德重だが、父は一言、「おまえが決めた道だから」と言うだけだった。

 思えば、反抗期が遅れてきたのか、高校時代の3年間など、父に対して心を閉ざし、口を聞かなかった時期もある。それでも父は、ずっと長男である自分を信頼していてくれたのか―—。父の器の大きさに思い至った瞬間、德重の目からは涙が溢れてきた。

 そのときは泰然としているように見えた父も、内心は穏やかではなかったらしい。酔いが感情を昂ぶらせたことも手伝ってか、母の前では嗚咽を漏らしながら息子に宛てた手紙を書いていた、と母から聞いたのは翌日だったろうか。

 そのことは「春よ来い」と書かれた1,000円札と一緒に父から手渡された手紙の文字を見れば、一目瞭然だった。心の震えを抑えきれなかったのだろう、いつにも増して読みづらい達筆な字で書かれた父の手紙には、「おまえがそれほど思い悩むまで、何もしてあげられなかった自分が情けない」「おまえを信じているから自分の道を進みなさい」というような内容が記されていた。

 とはいえ、何かが大きく変わったわけでもない。以後も、人生を方向づけるような明確な目的意識とは縁のない生活が続くことになる。

 当時の德重のありようを如実に示しているのが、2社目となるアパレル販売会社で義務づけられていた業務日報である。たかだが3行程度、文字数にして100字程度の空白ですら埋めるのに難儀したあげく、同じような内容をコピペして使い回していたという記憶しか残っていないのだ。

「それだけ何かを感じよう、得ようという意欲や伝えようという情熱が希薄だったんでしょうね」

 対して、ミニッシュで販売職にたずさわるようになってからは、書く内容に事欠いたことはない。その日あった出来事や得た気づきなど、毎日30分から1時間ほどかけて、丹念に文章を綴ってゆく。德重に限らず、アルバイトスタッフも含めた店舗スタッフの日報は、想いの強さと比例するかのように、総じて具体的で密度も濃く、血が通っているのが特徴だ。

「文章を書くことが好きなのに加えて、『伝えたい』という想いが強いからか、どうしても長くなってしまうのですが、それが習慣化しているというか、ライフスタイルのひとつに組み込まれている感じはありますね。その日じゅうに仕上げられないせいで、受け取る側の臨場感が薄れてしまうのを反省することもありますが、どれだけ時間を使っても、質は落としたくないというのが本音です。

 これまでの人生で打ち込んだものもとりたててなく、こだわりや執着が薄いタイプだと思っていた自分にも、続けていきたい、続けていかなきゃいけないと思えるものがあること、元来そういう気持ちを持っていることも、この会社に入って得られた新たな発見のひとつですね」

 酒の席では上司や会社の愚痴がおのずと口の端に上ったようなこれまでとは違い、酒を飲んでいるときも含めて、「会社がよくなるためにはどうすればいいか」という前向きな話が日常的に交わされていること。フラットな関係性が築かれたチームで、時として決裁権や裁量を与えられるうち、みんなのために何をすればいいのか、常に考えるようになったこと……。

「この会社に入ったことで変わった部分はたくさんあるけど、一番大きな要因はやっぱり人との出会い。日吉や高本を筆頭に、核となる理念に共感できるメンバーが集まり、一体感あるチームとして機能している。そんなチームの一員になれたことがうれしいし、この会社に出会えてよかったなと思えるんです」

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