#113 RegettaCanoe 営業 難波 拓人さん

「中学時代とは違う、今のチームでの成功体験を味わいたい」

 

1989年生。神奈川県出身。小学校から大学まで、バレーボール歴10年以上。中学時代には、レギュラーメンバーとして全国大会に出場。神奈川県の選抜チームにも選ばれる。大学在学中、18歳のときにアルバイトで始めた携帯電話販売の仕事に携わること約5年。2013年、RegettaCanoeに入社以来、営業を担当している。

※ 文中敬称略

記事公開:2017-1-5

 

思いとどまった選択
 すでに、かねてからの希望職種だった人材紹介会社からの内定も出ていた。三行半をつきつけるようにして、RegettaCanoeを辞める準備は整っていた――。

 そこから遡ること半年、24歳の難波がRegettaCanoe に就職したのは、2013年9月のことである。前職となる携帯販売会社での雇用形態に不満を抱いていた難波にとって、「正社員」は憧れだった。希望していた人材紹介会社での就職は叶わなかったが、フィールドは違えど、人と関われる営業職なら燃えられるような気がした。

 神奈川で暮らしていた難波が配属されたのは、大阪に本社を構えるRegettaCanoeの東京営業所だ。主体性を重んじ、失敗を推奨する社風も幸いし、仕事そのものは楽しかった。ネックとなったのは、直属の上司である営業所長・松田良博との関係性だった。

「松田は近道を提示してくれていたし、正論だとわかっていたんですけど、僕にとっては命令されているようにしか感じられなかった。今なら松田の思惑も理解できるし、対話もとれるようになってきたけど、当時は疎ましくて仕方なかったんです」

 磁石のN極どうしが反発しあうように、何度となく衝突を繰り返すなかで、大喧嘩にまで発展したのは入社後約半年が経った頃だったろうか。お互い頭に血がのぼっている状況では、冷静な対話など望むべくもなかった。昂ぶる感情のままに、売り言葉に買い言葉の応酬がひとしきり続いた後、難波はこう言い放った。

「わかりました。じゃあ僕はこの会社を辞めます。今から転職活動をはじめて、転職先が見つかり次第、すぐにでも辞めてやります」

 その捨て台詞とともに、転職活動を始めた難波が内定を取りつけたのが件の人材紹介会社だった。

 転職するにはちょうどいいきっかけだろう。(当時は)まるで恩義を感じていない松田になら、何とでも言える。親が倒れた、などと適当に作り話でもすればいい。でも――。

 血気にはやりながらも、向こう岸へと飛び立てずにいた難波の脳裏には、高本と日吉の顔が浮かんでいた。蘇っていたのは、チャンスを与えられる形で、ふたりとともに台湾へと出張した3ヶ月ほど前の記憶だった。

「まだ入社して3ヶ月しか経っていない状況で、会社の経営陣に同行して商談をやらせてもらえたのが2013年12月のこと。顔を見たことすらない経営陣は、いわば雲の上の存在。前職の携帯販売会社でそういう認識が生まれた僕にとっては、2泊3日の行程の間じゅうずっと、高本と日吉の傍にいられるだけで幸せだったんです」

 平常心など日本に置いてきたかのように、終始浮き足立つ難波にも、ふたりは「地上まで降りてきてくれるような感じで、話に耳を傾けてくれた」のだった。

 その記憶は難波の胸に、ふたりに嘘をつくことへの罪悪感を芽生えさせた。だいいち、ふたりに嘘を並べたところでやすやすと見破られるだろう。諭されるだろう。だからといって、「松田と揉めたから辞める」というのもなんか違う……。

 しばらくの間、どう釈明しようか思いを巡らせていたなかで対面したのが、「結局のところ、嫌なことから逃げたいだけの自分」だった。

 そこで思いとどまって以降、転職しようという考えがちらついたこともない。2016年8月、自らの希望で大阪の本社へと転勤した難波はいま、入社4年目の日々を大阪で過ごしている。

 

覚えた自由の味

 いわゆる体育会系の文化に育った難波には、小学校から大学まで10年以上のバレーボール歴がある。といっても、ガチでやったのは中学、高校の6年間だけだ。

 高校でのバレーボール生活が幕を閉じた高校3年の夏、すでに気持ちの糸は切れていた。中学時代、県選抜チームの一員として、自由に伸び伸びとプレーできる甘味を知ってしまったというのもあるだろう。誰かの指示に従ってやらされるバレーボールはもう、懲り懲りだった。

「もし今、僕がプロになることを志していて、それを実現させるための環境が整えられたとしても、その道を選ぶことはないと思います。体育会系の組織にはありがちなことでしょうけど、先輩しかり教師しかり、こちらがどう思っていようと「先輩(教師)が言ってるから」という一言で片付けられてしまうことに僕は納得できないんです」

 中学、高校時代、試合に負けたときには必ずうさぎ跳びが課せられた。ミスをすれば張り手や鉄拳が飛んでくるのは日常茶飯事。「怒鳴りたて、鉄拳食らわせ、罰を課し、苦しませねば、人は動かじ」そんな信念に貫かれているかのような指導方針が敷かれていた。

「僕がプレーしていた頃は、生徒の自主性を重んじるような学校で強いところはなかったんです。勝ち上がるのは、有無を言わさず練習をさせられたり、日常的に鉄拳制裁が下されたりしているチームばかり――という結果が、その指導方針の正しさを証明しているような感じでした」

 監視の目から解き放たれたことも手伝っただろう、大学で所属したサークルでやるバレーボールはひと味違うおもしろみを覚えさせた。自分で考えて動く大変さとは裏腹に、頑張りがそのまま結果に反映されるような環境は自身の性にも合っていた。

「とはいえ、半ば奴隷のようにやらされた過去を否定するような気持ちはまったくありません。そんな環境でなければ、全国大会出場という結果は残せなかったでしょうから」

 自由度の高さがもたらす充実感は、大学1年の頃に始めたアルバイトでも味わった。学業が忙しく、働ける時間が限られているなかでより効率よく稼げる仕事をしたい。そう考えて選んだ携帯電話販売の仕事は、思いがけない当たりくじだった。

 クレームなく携帯電話を売ることが求められるなかで、ひとつでも多くのオプションをつけてもらうのが僕らの使命。のちにそう解釈した仕事では、最低限のルールさえ守れば、そこに向かう道筋は自らの手でいくらでも切り拓いてゆけるのだ。独壇場にも似た世界に、難波はいたく魅了されていた。

 マンネリを嫌う性分ゆえでもあっただろう、その仕事に携わった5年間、思いついたことはすべて実行に移した。否が応でも目に入るような手描きの特大ポスターを作ったり、商品の有用性をわかりやすく伝えるための紙芝居を作ったり……。勢いあまって、許可を得ずに公共空間にポスターを貼り、警察から注意を受けたこともある。

「逆に、オペレーションやマニュアルが組まれている作業を手順どおりにこなすことはものすごく苦手でした。たとえば居酒屋のキッチンで、レシピどおりに料理を作ることは苦痛で仕方なかった。自分なりにおもしろがれるようにトライしてみても、徒労に終わるだけでしたから」

 以後、学年が上がるとともに携帯電話販売のアルバイトに比重を移していった難波は、大学4年のときには、週5日ペースでの勤務など、契約社員のような働き方をするようになっていた。

「見ず知らずのお客さんと距離を縮めていって仲良くなり、常連さんになる。そのプロセスがすごくおもしろかったから、課されたノルマに追われるしんどさがある中でも、やりがいを感じられていたんです。

 なかでも一番楽しかったのは、お客さんの潜在ニーズに気づき、先回りして提案することで喜んでもらえること。のちに正社員の職を探す上で、求職者にとっての“ほんとにやりたい仕事”を見つけてあげたいと人材紹介会社に的を絞っていたのは、その経験があったからなんです」

 結局、大学卒業後も含めて、5年ほど販売職に携わった難波だが、その世界でずっと生きていくつもりはなかった。大学4年の頃、仕事ぶりや実績が評価され「現場を管理する営業部隊に上がってこないか?」と上司から声がかかったこともあるが、さほど心は動かなかった。

 というのも、親元は東京の一等地に自社ビルを所有する会社でありながら、自分が目に届く範囲はすべて契約社員か派遣社員なのだ。現場の人間はコケにされているとしか感じられないブラックな労働環境が蔓延する業界自体を敬遠するようになっていた難波には、その職場での明るい未来は描くことができなかった。

 

実現されつつあるビジョン

 そのとき、立ち止まったことがよかったのかもしれない。

 大学4年の春。半年間、最終面接まで勝ち抜いた会社もいくつかあったとはいえ、内定を得るには至らなかった就職活動を振り返りながら、難波は自身の内なる声に耳を傾けていた。

 仕事を選ばなければ、就職はできるだろう。いざとなれば、携帯電話販売の営業職になればいい。ただ、とりあえず就職しよう、というような気持ちで決めたくはない。そう考えた難波が下したのは、学生期間中に就職先を決めることはあきらめ、1年間中国に留学するという結論だった。

 中国語を専攻する難波がコミュニケーションのおもしろさを知ったのは、大学に付設された専門コースに通っていた1年のときだ。日本語をまったく話せないネイティブの中国語教師、朝から晩までみっちり詰まったカリキュラム、おなじ施設棟で授業を受けている中国人留学生との接点が生まれ、座学での学びを実践する機会に恵まれたこと……。国内留学とも呼べるような条件が整った環境で、中国語での意思疎通をトライアンドエラーできたことが難波の学習意欲をかき立てていた。

 だが、2年次に大学へと編入してからはその熱を保てなかった。お互いに切磋琢磨できるようなライバルもいなければ、逆算して必要性を導き出せるようなビジョンもない。それから就活まで、低成長時代を過ごした難波は就活時に愕然とする。

「中国語を話せるのはひとつのツールでしかない。(そのツールを装備する)ハードをまるで構築できていない――ということに気づいたんです」

 ふたたび就活をはじめるのか、あるいは勉強を続けるのか、自分の進路を留学期間中に見定めよう。焦燥感を心の片隅に抱いた難波が、半ばノープランで中国へと発ったのは、卒業を控えた大学4年の秋だった。

 それから1年。ビジネスレベルの中国語を修得して帰国した難波が、身につける武器として目星をつけたのが営業職だった。将来のことは、3年ないしは5年、日本国内で営業職をやってみてから考えよう。そう思い描いていたなかで出会ったのが、RegettaCanoeだったのである。

「やりたいと思ったことは大概やらせてもらえるし、毎年色んな商品が生まれたりと、変化に富んだこの会社では、マンネリを感じたことはないんです」

 加速する海外展開はその一例だ。海外との取引がごくわずかだった入社当時から3年で、自社製品のみを扱う専門店は東南アジアの数ヶ国に広がった。2015年7月には、台湾では名の知れた靴メーカー・Ccilu(チル)社と、世界の国々に対して、生産から販売まで自社の権限でおこなえる生産販売権を同社に提供するという契約を結んだことで、さらに裾野が広がっていくなか、難波も海外関連の案件を任せられるようになってきた。

「入社してから突っ走ってきただけだし、まったく想定もしていませんでした。でも改めて自分の置かれている状況を整理すると、大学生の頃に描いていた「ゆくゆくは日本の会社に籍を置きながら、海外で仕事をしたい」というビジョンが実現されつつあることに気づくんです」

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