#113 RegettaCanoe 営業 難波 拓人さん


ぶつかり合える関係を求めて

 中国語しかり、販売職しかり、営業職しかり。何らかのツールを通して人と関係を結んでいくことは、難波にとっての生きるテーマである。だが販売員時代、「販売員」という領分を越えて客と付き合うことは頑なに拒む自分がいた。

 たとえば、子連れの女性客やバツイチの女性客との身の上話も聞きながら会話を交わすなかで、「お兄さん、今度飲みに行きましょうよ」と言われたとたん、まるで悪魔の囁きでも耳にしたかのように興ざめしてしまうのだった。

 相手にすれば、その場の軽いノリだったのかもしれない。だが難波にとっては、「すみませんが担当を変わらせてもらいます」と言いたくなるほど我慢ならないことだった。

「そこに立っているのは、携帯電話の販売員という役割を演じている難波拓人でしかない。いわば販売職という鎧を着て接客にのぞんでいる自分は、いいかげんなところとか変わったところは隠しているわけです。

 当時はきっと、殻を破った自分を見られることがすごく恥ずかしかったんでしょう。いっさい自分を取り繕えない状況で幻滅されるくらいなら、その先へは進まないほうがいいと考えていたように思います。

 販売実績は残していたから「販売員・難波拓人」としての自信はありました。でも「人間・難波拓人」に目を向けたとたん、欠片すら見当たらなくなるほどに自信は欠落していたんです」

 自分をさらけ出せなくなったルーツは、転勤族の家庭に育ったことにあるのかもしれない。生まれ育った三重から名古屋を経て、小学校5年のときに神奈川へ。小学校6年間で在籍した小学校は3校。縁もゆかりもない土地の学校で馴染むのに必死だった難波は、自分を殺して周囲に溶け込んでいかざるを得ない日々を送っていた。

「いまも基本的には自分に自信がなくてすごく臆病だから、否定されるのが怖くてぶつかりにいけないことは多々あります。だから、どうしても探り探りいく感じにはなってしまう。経験上、僕はまわりにとっては受け入れがたい人間なんだ、集団にはなかなか馴染めない人間なんだ、という考えが染みついてしまっているからよけいに、慎重を期して人との距離を測るんでしょうね。

 でも、営業メンバーでのミーティングのように、ひとたびこの人(たち)にはぶつかっても大丈夫、という確信が得られれば、居ても立ってもいられないというか、自分の考えを主張せずにはいられなくなる。もちろん思いつきではなく、自分なりに考えを練って正当性があると判断した上で発言していますが、経験が浅いこともあって、後々になって間違いに気づくことは少なくありません。場がざわついているのを見て、またやらかしてしまった……と、後悔することしきりですが、そう振る舞えるのはみんなで同じ目標に向かっているとわかっているからこそ。生半可な気持ちでは取り組んでいませんしね。

 そんな僕は、まわりからは我が儘を言っているだけに見えているのかもしれないけれど、決して我を通したいわけじゃないし、手柄を立てたいわけでもない。もし自分が納得いく逆説があるのならば聞きたいし、文句があるなら直接言ってほしいんです。おそらく僕は、本気度というか、ぶつかり合えるようなコミュニケーションを求めているんでしょう」

 

至高の3年間

 怖いのに、挑んでいく。不安なのに、ぶつかっていく――。一見、相反する行動をとる難波には思い当たる節がある。

「プレーするときに限らず、ふざけるときも全力。だからこそ何度もケンカをしたけど、しんどい練習にも耐えながら神奈川県大会、関東大会を勝ち上がり、全国大会にまで行けたのは、仲間と一緒だったからなんです」

 中学時代、バレーボール部のレギュラーメンバーとして全国大会出場に貢献した難波は、チームのムードメーカーとしても存在感を発揮していた。得点を決めたときの他チームのパフォーマンスがかっこいいと思えば、自チームでも取り入れようと提案したり、どうしたら自分たちが楽しくプレーできるか色々考えて実践したり。場を賑やかそうとする難波を見て冷笑する素振りもなく、一緒になって楽しんでくれる仲間の前では、惜しげもなく自分をさらけ出すことができていた。

 もとより「臆病」を自覚する身である。にもかかわらず、キモいと思われていないだろうか、という不安が胸をかすめたことすらないほど、彼らの存在は絶対的な安心感をもたらしていた。自分が楽しいこと、わくわくすることが、そのままチーム内での自分の役割に直結する。そんな成功体験を得られた“至高の3年間”だった。

「今、まわりに対して「なんか違う」という違和感を感じているのは、心のどこかで当時のチームや自分のありようと比較しているからなんでしょう。そういうチームを作ろうとしているからもがくというか、高い山の頂上から見える景色を一度味わったがために、違う山の頂上では物足りなく感じてしまうというか……。きっと僕は、中学時代、チームのみんなと過ごせた日々に執着してしまっているんだと思います」

 中学3年の夏。引退が決まった公式戦の後、難波を襲ったのは、一人でも欠けていたら同じ結果には至らなかっただろうと思える仲間と離れ離れになる悲しみだった。永遠に続いてほしいと心の底から願っていた日々が終わりを告げたことへの切なさだった。そこに試合に負けた悔しさも相まったのだろう、体じゅうの水分が枯れてしまうかのように、とめどなく溢れてくる涙が難波のユニフォームを濡らしていた。

 難波が在学していたのは、毎年、関東大会には必ず出場し、数名が県選抜チームに選出されるような全国屈指の強豪校だ。引退後、高校進学を控えた部員には、100ほどの学校名が記された「推薦校リスト」が顧問教師から手渡された。迷わずにはいられないほど引く手あまたのなか、難波が真っ先に決めたのは、神奈川県内の高校には進学しないこと。敵になった仲間と闘ったり、味方としてポジションを奪い合ったりするのは避けたいからだった。

「彼らと過ごした日々の思い出を壊したくなかったんでしょう。現実には手に入らないだろうからせめて、思い出の中で浸っていたかったんだと思います」

 思えば、中学のバレー部を引退してからずっと、記憶の中で燦然と輝く「中学時代の仲間」を求めつづけてきたのかもしれない。事実、ゼロから人間関係を築いていく必要があった高校でも大学でも、隙間風が吹く心はおのずと“彼ら”の面影を探していた。

 だが、周囲に寄せる過大な期待は、みずから「友達」の境界線を設定し、その外側にいる人間とは一切の関わりを持たないというスタンスを作り上げていく。挨拶を交わすだけの友達なんかいらねぇよ。こっちは中学時代の仲間のもとへ、いつだって戻れるんだから――。大学時代の難波にとって、中学時代の仲間はいつも、心地よい場所から足を踏み出そうとしない自分に対する口実だった。

「友達だと思っていない人から「今から飲みに行こうや」と誘われたとき、当時の僕なら、たとえ居酒屋の前にいたとしても断っていたでしょうね(笑)」

 少年は大人になった。巣ごもりするかのように自分を閉じこめていた「友達」の境界線が霞んでいくにつれ、多少なりとも柔軟に人と付き合えるようになったのはいつからだろう。それでも変わらないのは、“至高の3年間”が母子を結びつけていた臍の緒のように、確固たる人生の基盤になっているということだ。

「殴り合いのケンカも厭わず、裸になってぶつかり合えるような、マブダチと呼べる仲間が欲しいんです。だから思ったことを率直に言い合える関係でいたいし、「Tシャツを着た状態なら大丈夫やで」という関係ならいらない――そんな気持ちはまだ、僕の中に色濃く残っているんですよね」

 難波には忘れられない思い出がある。RegettaCanoeに入社後間もない頃のことだ。

 商談のために大阪へと出張した帰りしな、東京営業所で働くひとりの事務員とLINEで何気ないやりとりをしていたさなか、彼女からこんな文章が送られてきた。

「いい感じに染まってきたね」

 日頃、彼女が会社の陰口を叩いているのは知っていた。外野から嘲笑うような棘のあるような語調に、むしょうに腹が立った。

「何が言いたいんですか?」そう難波が返信してからは、なだれ込むようにして諍いへと発展。やりとりが一段落してからもほとぼりが冷めない難波は、知らず知らずのうちに日吉の携帯を鳴らしていた。

 事の顛末や自身の感情をひととおり話したあと、日吉から返ってきたのは意外な反応だった。

「誰や、そんなん言うてるやつ。言うてみぃ、名前を」

 電話口から聞こえる凄みのある声は、すでに怒りの色に染まっていた。

 彼女の名前を告げた難波に、日吉は言葉を継いだ。

「そんなもん、おまえが言わんでもわかっとんねん。

 おまえ、そんなこと言われて、気持ち揺らいどんのかい。悔しかったら、見返したらんかい!」

 とうにRegettaCanoeを去った彼女を思い起こしながら、難波は言う。

「非はすべて自分にあるのかなと思うほど日吉からは怒られたけれど、そんなことは全然気にならなかった。我が事のように感情をむき出しにしてくれる人がいる。その喜びで胸がいっぱいでしたから。

 スタッフ数が急激に減っていったりと、屋台骨が崩れかけていた当時の東京営業所。自身も上司とのギクシャクした関係が続いているうえに、大阪を中心としたメンバーの輪にもいまひとつ入り込めていない……。そんなふうに負の要素が重なっていた状況で、一緒に腹を立ててくれる人がまわりにいることに気づかせてもらったおかげで、この会社でもっとがんばろうと思えたんです」

 まさしくそれは、自身が希求する「裸のぶつかり合い」が叶えられた瞬間だったのかもしれない。“至高の3年間”と現在とを隔てる10数年が、地下水脈を通して結びついている。そう知覚した難波は、中学時代とは違う、今のチームでの成功体験を味わいたいという思いを胸に、“今”を生きている。

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