#114 RegettaCanoe RinCチーム 松田 良平さん

「この会社に入って、過去の点と点が線で結ばれたんです」

 

1978年生。大阪府出身。服飾専門学校を卒業後、靴屋の販売員、小売りチェーンでのマネージャー職、アパレルメーカーの企画営業職などを経て、2014年1月、RegettaCanoeに入社。現在はRinCチームの一員として、おもにPOPやカタログなどの印刷物を通した販促を担当している、会社の「ムードメーカー」。

※ 文中敬称略

記事公開:2017-1-30

 

手にした希望どおりの職
 自分は何がやりたいのだろう。このままアルバイトの身分で、30歳になってしまったらどうしよう。正社員として身を固めた方がいいのだろうか……。27歳の夏。先行きへの茫洋たる不安が、販売員として勤めるスニーカーショップと自宅を往復する日々をすっぽりと包んでいた。

 だがしばらく後、ひとつの出逢いをきっかけに、松田の視界は嘘のように晴れることとなる。

 手に職をつけるがごとく、Web関連のスキルを身につけるために、松田がハローワーク主催の職業訓練講座を受講しはじめたのは2011年の冬のことだ。その分野を選んだのは、スニーカーショップを開きたい、というどこか心許ないビジョンを具体化できそうな術でもあったからである。

 心底学びたいと思えた内容だったからだろう。IllustratorやPhotoshopなどデザインソフトの扱い方を学ぶ授業内容がスポンジのようにぐんぐん吸収されていくことに、松田自身がいちばん驚いていた。学ぶことがこれほど楽しいと思えたのは、生まれてはじめてだった。

 制作物の出来栄えへの自信も手伝って、すこぶる密度の濃い半年間を過ごした松田は、身につけたスキルを生かせる職にどうしても就きたいと、アパレルメーカーの企画営業部に就職。同社は、POINT(ポイント)やPAL(パル)など、大手アパレル企業のOEM商品を生産する会社だった。

 注文を受けた服の仕様書をデザインソフトで作成し、海外の工場にサンプルを発注。そしてそのサンプルをふたたび商談に持ち寄って、商品化されるものが決定する―—というのが大まかな仕事の流れだった。OEM商品とはいえ、注文の大半は「キャップがほしい」「ベルトがほしい」といったざっくりとしたもの。デザイン案の作成はほぼ自分たちの手に委ねられていたため、ものづくりをしている実感も味わえていた。

「自分が考えたものが商品化されて、いろんな店舗に並んでいるのを見たときはうれしかったというか、感動的でしたよね」

 だが、幸せな日々はそう長くは続かなかった。会社の組織改編により、急きょ、属している部署が廃止されたのだ。「事務的な仕事をする生産管理部ならポストは空いている」という話も持ちかけられたが、デザインスキルを発揮したいという思いに勝るものはなし。辞表を出したのは、入社後1年ほど経った2012年秋のことだった。

 自分が作ったものを店頭で見たときの喜びをもう一度味わいたい。そんな思いを胸に、転職活動を進めていたなかで出会ったのが、RegettaCanoeである。募集要項の「IllustratorやPhotoshopで加工できる方を求む」という文言に惹かれて応募した複数のうちの1社という位置づけは、やがて特別な存在へと変わってゆく。

「ポイントは、スニーカーのコレクションをしていた時期もあったりと、もともと靴が好きだったこと。面接に来たとき、わずかながらも会社のアットホームな雰囲気が伝わってきたこと。面接において、会話の受け答えや言葉選び、表情などから、こちらを気遣ってくださっているように感じられた高本社長の人柄も惹かれたところです」

 35歳で入社した2014年1月から半年間、企画部での研修期間を経て、RinCチームの一員となった松田はいま、POPやカタログなどの制作からディレクションまでをほぼ一任されている。

「僕はすごく運がいい。希望どおりの仕事をさせていただいているわけですから」

 


「ムードメーカー」の原点

 ある意味それは、数十年にわたり、胸の裡で伏流していた思いの結晶だったのかもしれない―—。

 漠然とながらにデザイナーになりたいという夢を描いて、服飾専門学校へと進学した松田は、入学早々、自身の認識の甘さを痛感させられていた。

 デザイナーは自分で服を縫えなければいけないし、型紙も作らなくちゃいけない。なにより一番服に詳しくなくちゃいけないのか―—。デザインや縫製、パターン(型紙制作)など、服づくりの基礎をあらかた学ぶなかで、「自分がカッコいいと思うものをデッサンして、それを誰かに起こしてもらう存在」というおぼろげなデザイナー像は跡形もなく消えていた。

 基礎として教わる生地のルーツや衣服の歴史には、からっきし興味が湧かなかった。数学的な思考や細かい作業を要するパターンへの苦手意識も拭いがたいものだった。結局、まわりの志高き学生たちに気後れしながらも、松田は自身の居所を求めて、店舗運営や販売のノウハウを学ぶ「ファッションビジネス学科」へと2年次に転向する。デザイナーへの扉は自らの手で閉ざすようにして。

 そのまま卒業を迎えた松田は、まだ今ほどメジャーではなかった大手の靴量販店(A社)に就職する。友人の影響でスニーカーにのめり込み、コラボ商品や海外でしか売られていないようなレア物を好んでいた松田にとっては、本意とは言いがたい就職先である。だが、昼夜を問わずスニーカーを含めた靴のそばにいられるなら、それはそれで満足だった。

 アルバイト経験もない販売職として、右も左もわからないながらに始まった社会人生活は想定外の連続だった。新人デビューからの3日間であげた売上成績は、古参スタッフを抜き去り、カリスマ店員ばりに他の追随を許さないNo.1スタッフに継いで堂々の2位。目を見張る結果に即戦力として期待を寄せられたのだろう。勤務3日目にして松田は、売れる販売員のみしか選ばれない他店舗への移籍が決まっていた。

「マニュアルひとつない中で、接客についたお客さんの趣味や嗜好などを外見や会話から読み取りつつ、「この人には何が一番似合うのか」ということだけを考えて接客していた記憶があります」

 現在、高本や日吉ら同じチームで働くスタッフは口をそろえて「ムードメーカー」だという松田だが、本来人見知りで人と話すのは苦手だという。

「コミュニケーションをとらざるを得ない販売員時代は、必要以上にテンションをあげてピエロになるというか、お客さんの笑いを引き出しつつ、なごませるようなことを意識的にやっていたけど、それが習慣化した感じはありますよね。

 遡れば、中学・高校時代も似たような感覚は持っていました。人見知りで臆病である一方、仲の良い友達の前でははっちゃけられた僕は、内弁慶のお調子者。(笑)負けず嫌いなところもあってか、みんながやっていないことを一番にやるのが好きで、小学校の頃は 13段くらいある学校の階段を一息に飛べるかといった度胸試しを真っ先にやるようなタイプでしたから。

 今もそうだけど、沈黙とか重苦しい空気がその場に漂っていることを感じると、無理矢理にでも割って入りたくなるんです。仲間はずれとか差別も嫌いです。その点、社長を筆頭に横のつながりをすごく大事にしているこの会社の雰囲気はすごくいい。これまで勤めてきた中で、会社そのものが好きだと思えたのは、はじめてなんですよね」

 そんな松田にも人間関係での失敗経験がある。まだ小学生にもなっていない4,5歳の頃のことだ。よく遊ぶ数人の友達のなかでは一番身体が大きくて、腕力がある。その優位性を濫用した松田は、気に入らなければ手を上げたり、欲しいおもちゃがあれば断りなく使ったりと、ジャイアンさながらに傍若無人ぶりを発揮。子どもの喧嘩が親どうしの揉め事にまで発展したこともあるなかで、友達が離れていくのは必至だった。

 そんなある日、遊び友達A君の家を訪ねたとき、あいにく本人は留守だという返事が返ってきた。次に訪ねたB君の家でも、結果は同じだった。真相がわかったのは、訝しみながらも訪ねた何軒目かでのこと。玄関先から友達の存在を確認できたのにもかかわらず、応対した母親からは「いない」という返事が返ってきた。胸を衝かれたその瞬間、松田は居留守という手段で自身が避けられていることを悟っていた。

「その日を境に友達への態度を一変させたことは、いまだに忘れられません。小学校に入り、自分より身体が大きくて、腕力も強い人から押さえつけられるような体験もして、子どもながらに自分の過ちに気づいたんだと思います」

 素養があったのかどうかはともかく、感性が鋭く、場の空気を読む力に長けていたというのもあるだろう、一部、一般には流通していない商品も扱うその店舗に移ってからも、上位クラスの売上を上げつづけた松田には、A社を退職するまで貫いていた姿勢がある。

「お客さんに対しても本音でしゃべるというか、似合うと感じたものは「似合う」、似合わないと感じたものは「似合わない」とはっきり伝えることを意識していました。特別なことは何もしていなかったのですが、まず身につけているものや髪型、女性であればメイクやネイルから好き嫌いや使用用途の見当をつけ、会話を通して確証に近づけながら「こちらがお似合いです」と自信を持ってオススメしていたことがよかったのかもしれません。だから、売ることに自信があったというより、似合うものと似合わないものを見極める力は、人より少しは優れているかもしれない、とは思っていましたね」

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