#114 RegettaCanoe RinCチーム 松田 良平さん


偏愛時代

 中学2年のとき、先輩に連れられてはじめて大阪ミナミのアメリカ村に足を踏み入れたのが「偏愛時代」のはじまりだった。ときは90年代前半。音楽やファッションなどを通した若者文化の発信基地として機能するアメリカ村にまだ勢いがある時代だった。

「そこでカルチャーショックを受けたんでしょうね。服装などのビジュアルで個性を打ち出している人たちが、とてもカッコよく見えたんです」

 直接的なきっかけとなったのは、誰よりも流行を先取りしている先輩の存在だ。雑誌にも載っていない最新情報ややがて世に知れ渡る無名の音楽、海外カルチャーの話題……。それらをいち早く入手している彼の影響をもろに受けた松田は、気づけばどっぷりとその世界にハマっていた。

 開眼したかのように、オシャレを追求する日々だった。思春期まっさかりながらに、異性の目を意識したものではない。自己満足と直線的に結びついた、純度の高い「好き」の気持ちを注げる対象だった。

 アメカジ系を皮切りに、古着、モード系、ストリート系……。雑誌に載っているようなファッションジャンルはひととおり経験したと言っても過言ではない。その熱中ぶりは、稼いだバイト代をすべて洋服代へとつぎ込むほど。オシャレに傾倒するうちにいつしか思い描くようになったのが、デザイナーという漠然とした将来像だった。

「流行の服も好きだったけれど、雑誌に載っているコーディネートをそっくり真似するようなことは嫌いでした。自分が気に入ったもの以外は身につけないほど、学生時代はこだわりが強かったんです」

 専門学校在学中、服に取って代わるように、否、服を凌駕するほど血道を上げたスニーカーは、第二の偏愛対象だった。毎月万単位の金をつぎ込み、数百はゆうに越える数のスニーカーをコレクションしていた松田の部屋は、天井まで段ボール箱が積み上げられた倉庫状態に。物が見えるように陳列しなかったのは、空気に触れることで黄変したり、経年劣化によりソールとアッパーが剥がれてしまったりするのを防ぐためだった。

 それだけの数があれば、履きものという本分を果たさないものも出て然るべし。事実、自宅の“倉庫”に集められたスニーカーは、ヘビロテアイテムとして使用する1軍、ゆくゆくは履くであろう2軍、一生履くつもりはないが珍しいという理由で購入した5軍、ついぞ人肌のぬくもりを知らぬまま他人の手に渡る6軍などと、自身の熱量に応じたランク分けがなされていた。

 そんな環境では、待遇に差が生まれない方がおかしかった。10個以上平積みになった箱の最上段を獲得できたのは、1軍または2軍スニーカーのみ。密封したジップロックの中で保護される特権を与えられたのは3軍スニーカーまで……。一見無機質な“倉庫”内には、下剋上なき階級社会が広がっていたのである。

「当時は、四六時中スニーカーのことを考えていました。キレイに履きこなすことが良しとされていたこともあり、常に汚れがない状態を保ちたかった僕は、レストランとかで出されたおしぼりでスニーカーを拭いていたんです(笑)」

 その偏愛体質が功を奏したところも大いにあっただろう。A社を退職後にアルバイトとして勤めた、選りすぐりの商品を扱うアメリカ村のスニーカーショップ(B店)では、どうすれば売れるのかという類の悩みに苛まれたことは一度もない。スニーカーブームが訪れている世相に商品力の高さも後押しして、松田が声をかければ売れる、という方程式が確立されたのはいつからだろう。解の公式を持ち出すまでもなく、売上トップの座を明け渡したことがないという事実が、松田の盤石ぶりを証明していた。

「その店でも、お客さんと本音でしゃべるというスタンスは崩しませんでした。自分の引き出しを通して、お客さんの身につけているものから好みを推し量ることはできたし、話が合う靴好きのお客さんも多かったですから。

 だからもし、八百屋で販売員として働いたとしても、自分なりに模索はするでしょうけど、おそらくトップにはなれない。僕がA社でもB店でも結果を出せていたのは、セールストークがうまいとか、接客技術が高いとかいうより、扱っているものが好きだったからでしょうね」

 24歳のとき、松田は半ば腐りかけた状態でA社を辞めている。組織が大きくなるにつれ、決まり事が増えてきたり、事細かいマニュアルが用意されたりするようになったというのもある。来店客を言葉巧みに誘導し、防水スプレーなど、さほど必要ないものまで買わせて客単価を上げるという方向性がどうしても受け入れられなかったというのもある。

「とにかく、納得感を持てていないままやらされる仕事を、すごく窮屈に感じていたんだと思います」

 

「アーティスト」から「デザイナー」へ

 販売員として結果を残し続けていた松田に挫折が訪れたのは、B店で働き始めて1年ほど経った頃のことだ。

 B店で副店長のような役割を任せられるようになっていた松田は、やがて店で扱うスニーカーの買い付け業務をあてがわれる。スニーカーの展示会へ出向き、過去の売れ行き傾向を踏まえながら、テッパンで売れるとふんだ商品を選んだ松田は、ひそかな自信を胸に客の来店を待っていた。

 だが蓋を開けてみれば、とんだ見込みはずれに終わる。自身が「絶対に売れる」と踏んで選んだ商品に限って売れなかったのだ。失意の中、松田が自覚したのは「好きなものしか見ていなかった自分」の存在だった。

「きっと視野が狭くなりすぎていたんでしょうね。僕が下した売れるかどうかの判断も、僕の好きなものに限定された世界での話でしたから。そのとき、一般的な靴の量販店にも足を運び、店頭で平積みしている商品などの売れ筋商品をチェックしたり、ディスプレイの意図を汲んだりしていかなきゃいけないことに気づいたんです」

 以後も、何度か買い付け業務を任せてもらった松田は、少しずつ打率を上げていく。目をつけたものが予想通り売れたときには、ひとり悦に浸ったりもした。

「流行り廃りはあるから難しいところはあるけど、勉強するに越したことはない。自分が好きなものだけ見ていても、仕事にはならない―—そんな意識が芽生えたという点では、僕にとっての大きなターニングポイントなんです」

 それから十余年。RegettaCanoeで販促を目的としたPOPやカタログを制作している松田の胸には、いまもその意識が宿っている。

「僕は、アーティスト的な仕事より、デザイナー的な仕事が好きなのかもしれません。どうすれば売れるのか考えながら販促物を作って、それが結果につながると気持ちいいんです。

 僕の作ったPOPがどの程度売上に貢献したのかが測れない、後方支援という立ち位置に物悲しさや歯がゆさはあるけど、まわりは「それがないと成り立たない」「松田がRinCチームに入ってくれたおかげで、仕事に広がりが出てきた」と言ってくれますしね。

 現状の課題は、部署間のコミュニケーションが不十分なこと。対話を通して汲み取った靴のデザイナーさんの想いを反映させつつ、売上にもつなげられる販促物を作っていきたいですね」

 制作物に関しては、人が気にならないようなところも気になってしまう。人によっては面倒と感じる作業でも厭わない、というよりそもそも苦にならない。休みの日に街をぶらついたときも、いいなと思ったものは写真に撮るなど、なんでも制作物に紐付けて考える癖がついている−−−。

 これまで「好きなことしかやってきてない人生(笑)」を歩んできた松田を支えているのは、たゆまぬ努力でもなく、何ものにも屈しない精神力でもない。好きなものはとことん追求できる性分であり、好きなことなら人には負けないという妙な自信なのだ。それを裏づけるかのように、ストレングスファインダーテストは「最上志向」という強みを示している。

「負けず嫌いなところもあるからか、販促物の一部を構成する画像の処理とかは人に委ねることがあっても、最後のレイアウトは絶対に人の手に委ねたくない。仕込みは人に任せても、盛り付けは絶対に自分でやる、というのかな。肝っ玉が小さくて、失敗を必要以上に恐れるために置きに行ってしまうところもあるし、自分のスキル不足を痛感する毎日だけど、そこはプライドを持っているんです」

 

線で結ばれた点と点

 これまで長い間携わってきた販売員という仕事は、ほんとうに僕がやりたいことなのだろうか……。そのとき繰り返した自問自答が、立ち往生する松田に進むべき道筋を照らし出したのかもしれない。

 松田が人生ではじめて描いた夢は「漫画家」である。漫画の登場人物を模写したりしていた小学校時代、好きこのんで書く友達や先生の似顔絵が好評を博していたこと。低学年の頃、児童絵画コンクールのようなもので入賞したこと。自信になっていたそれらの経験は、胸の奥深くに楔を打ち込んでいた。中学、高校時代と、絵からは遠のいていた松田だが、専門学生時代もデッサンの授業は好きで、クラスでも常に上位の成績を修めていた。

 そんな松田がしばらくの時を経て、ペンをマウスに持ち替えて画面上に“絵”を描くデザインソフトにハマるのは、ある意味必然だったのかもしれない。現在、RinCチームの一員として、いわば企業デザイナーのような立ち位置で働くなど、願ったり叶ったりの環境が手中に収まっているのは、どう説明がつくのだろう。

「僕はすごく運がいい。大きな目標もなく、一言で言えば、のらりくらり生きてきたけれど、この会社に入って、点と点が線で結ばれたというか、過去の経験ひとつひとつが無駄じゃなかったと思えるようになったんです。服やスニーカーにのめり込んでいた頃に磨かれた感性なり、買い付け業務で味わった挫折なり、過去に学んできたことの延長線上に今がある感覚はありますしね」

 スニーカーやサンダルといった種類を問わず、履物は松田にとって特別な存在だという。

「新品の靴が入っている箱を開けたときの高揚感は、子どもの頃、買ってもらったおもちゃの箱を開けたときのワクワクする気持ちを思い出させてくれます。外出前、おろしたての靴に紐を通し、履き心地を確認しながら玄関のドアを開けるときは、何か新しい一歩を踏み出せるような気持ちになるんです」

 記憶をたぐれば、スニーカーにのめり込むよりずっと前から、未来は暗示されていたのかもしれない。TVゲームやまわりの子どもも持っているようなおもちゃも好きだった子どもの頃、初めて母親にねだったのがアキレスの「光るフラッシュパル」。当時としては珍しい、反射板を採用したスニーカーだったのだ。

「だからこうして今、靴と関われていることに、何か縁のようなものを感じているんです」

 現在、松田はRinCチームの一員として、モデルオーディションから撮影、制作まで、ほぼ一手に担うシーズンカタログをはじめとした販促関係全般のデザインやWebサイトの管理運営などの仕事に携わっている。

「苦労もありますが、とても楽しんで仕事をさせていただいています。

 直接お客さんの目に触れる販促物などは特に、自分自身が楽しんで作ることが大事だと思っています。制作時の感情がもろに反映されている気がするし、カタログやPOPをご覧になったお客さんには「足を通してみたい」と思っていただきたいのと同時に、ポジティブな気持ちになっていただきたいんです」

 スニーカーへの熱が冷め、偏愛体質が変容してゆくにしたがって、デザイナー的思考が身についてきたのか。あるいは、デザイナー的思考が注入されてきたから、スニーカーへの熱が冷め、偏愛体質が変容していったのか……。その順序はどうあれ、松田は自己完結できる世界から、自己のみでは完結し得ない世界へと足場を広げてきた。

「今の仕事に対するこだわりは、服やスニーカーのように人には理解されない(されることを望んでいない)独りよがりなものじゃない。誰も履いていない最先端のものを俺は履いているんだぜ、という自己満足の世界からだんだん、こだわりは目的に近づいたり意図を反映させたりするためのものにシフトしてきたんです」

 といっても、当時の自分を否定するような気持ちは微塵もない。好きなもののことしか頭になかった日々は、「若さ」という魔法が解けるまでは浸っていられた夢うつつの世界だったのだろうか。それから10年近く。倉庫のようになっている自宅の部屋だけがいま、過ぎた年月以上に遠く隔たった当時の名残をとどめている。

「自分でも理解しがたいくらい夢中になれた感覚を、また味わいたい気持ちはあるんです。何もかもを忘れて、好きなものに打ち込めるってすごく幸せじゃないですか。やりたいことをさせていただいている今の仕事で、それが叶えられたら言うことはないですよね」

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