#115 RegettaCanoe 専務取締役 塙阪 貴司さん

「人は人によって磨かれていくと思うんです」

1975年生。大阪市出身。夜間の短期大学を卒業後、父が営む会社に就職。2007年9月、アルバイトとしてシューズミニッシュに入社し、自社ならびに楽天のネットショップを利用する顧客対応などを担当。2010年末、食事会の場で「3年後は営業所長をしている」という青写真を語ったことを機に、営業部に異動。2012年末、サプライズ人事で常務取締役に抜擢される。現在は、RegettaCanoe専務取締役として、在庫管理や受注処理、知的財産管理などを担当している。

※ 文中敬称略

記事公開:2017-2-5

 

考えていなかった「正社員」
 30歳でアルバイトを希望する人間に、世間はそう優しくないだろう。受かる見込みは薄いと踏んでいたシューズミニッシュから採用連絡が来たのは2007年秋のことである。

「30歳でバイトはあかんで」先輩社員がそう言っていたと聞かされたのは、しばらく経ってからだが、塙阪(はねさか)にはそんな自分を後ろめたく思うような気持ちは微塵もなかった。情報発信手段としての将来性に惹かれていたインターネット関連のスキルを身につけたい。そう思って選んだ仕事だった。

 ミニッシュでまず塙阪が担当したのは、電話やメールでの顧客対応やパソコンを使っての伝票発行、商品の出荷など。自分用のパソコンを所有していたとはいえ、WordやExcelの使い方は知らなかった。事務的な仕事をするのも初めてだった。

 すべてが未知の領域だったことに不器用な性質も相まったのだろう、入社1ヶ月後、塙阪は先輩から真顔でこう告げられた。

「1ヶ月働いて、これだけしか仕事ができなかったら困る」

 やっつけ仕事をしてきたつもりはない。君がおってくれて助かるわ。雇ってよかったわ。そんなふうに存在を認めてもらおうと自分なりに頑張ってきたのだ。頭に血がのぼった塙阪は、その直後、高本泰朗(当時は専務)のもとへと足を向ける。「今後1ヶ月、自分の仕事を見てもらってダメと判断したときはクビにしてください」喉元では己の覚悟を示す言葉が出番を待っていた。

 だが結局、その言葉が高本に伝わることはなかった。たった1ヶ月で何がわかるのか。いまの自分の力でどこまで会社に貢献できるのか……。冷静になった塙阪は、関係者に評価を求めて進退を決めるのではなく、自分ができることを最大限やろう、と考えを改めていた。

 折しも、ネットショップの売上が右肩上がりに増加していた時期のこと。次から次へとかかってくる電話に対応しながらエンドユーザーへのメール対応や受注処理、出荷処理をするなど、追い立てられるようにして夜中2時頃まで働く毎日だった。

 といっても、やらされた仕事ではない。アルバイトの身ながら正社員以上の働きぶりを見せていたのは、「仕事を途中で投げ出したり、音を上げたりすることが嫌だったから」。それは世間一般の価値尺度ではなく己の物差しを大切にして生きる人間の強みだった。

 塙阪にとって正社員は、安定を確保する手段ではなかった。引き続き楽天ショップの運営を任された塙阪は、売れ筋商品やマーケティングの分析結果など、先輩から与えられた武器を頼みにしている状況からの脱却に努めていた。

 正社員になってから約1年半。その状況を打破する機会を自らの手で引き寄せたのは、2010年12月末、高本ら会社のスタッフと行った串カツ屋でのことだ。

「3年後の自分は何をしていると思う?」

 スタッフに投げかけた高本の質問に塙阪は答えた。

「東京営業所を作って、営業所長を務めています。その後は、僕がテレビ出演をして、リゲッタを紹介しています」

 塙阪は本気だった。他のスタッフが口ごもる中、明快にビジョンを伝えた塙阪の姿は「挑戦したい人間」として高本の胸に刻まれていた。

「リゲッタがテレビで取り上げられた後、取引先の方々が電話をかけてこられたときの声のテンションや、来社されたときの笑顔に触れているうちに、もっとお客さんとの対話をとりたいという気持ちが湧いてきたんです」

 そこからの展開は早かった。翌2011年の年始より営業部に異動となった塙阪は、さっそく大手通販会社との商談に同席するなど、高本の専属カバン持ちのようにして営業のいろはを学んでいく。指定席やグリーン車の何たるかも知らず、35歳ではじめて新幹線に乗ったときには、異国の地に降り立ったような感覚を味わっていた。

 営業マンとして過ごす日常は新鮮だった。ほどなくしてテレビ局にて通販番組の収録に立ち会ったとき、塙阪の胸には万感の思いがこみ上げていた。まさか自分がこんな場所に立っているなんて……。過去と現在を切り分けて生きる男が、来し方を思い返しながら、めずらしく感傷的な気分に浸っていた。

 

望んでいた存在承認

 厳しさゆえに会社のスタッフから「ストイック」と評され、近寄りがたさを感じさせることもある塙阪は、元「かまってちゃん」だ。

 社会のテストで「徳川家7代目の将軍はマイケル・ジャクソン」と解答したのは小学生のときのこと。高学年のときには休み時間に教師から理不尽な怒られ方をして腹が立ったせいか、授業をひとりでボイコットしたこともある。

「当時の先生は絶対的な存在で、暴力も肯定されていた時代。なぜ怒られているのかを伝えずに怒るような教育に全然納得できなかったんだと思います」

 当時の夢は漫画家だった。『聖闘士星矢』や『ドラゴンボール』が連載されている週刊少年ジャンプの影響で、ゼロからストーリーを構築して作品を作っていたのは、「絵が上手に描けたら、みんなに認められると思ったから」。

 だが結局、それらの作品が弟以外の目に触れたことはない。もとより自信がなかったこともあり、塙阪は1年と経たずして筆を置いた。アニメイトにて気負い込んで揃えたペンやスクリーントーンといった道具一式も、いつしか部屋の片隅へと追いやられていた。

「この頃も今と一緒で、形から入るタイプだったんです。(笑)成績が悪かった中学時代に作った「勉強ノート」も同じでした。発車時の勢いはいいけど、いずれは停止するチョロQみたいなもんですよね(笑)」

 現在も関係が続いている友人はひとりもいないが、記憶に陰がさしているわけでもない。そんな中学時代には、学校の机に白チョークで「死ね」と書かれていたことがある。なんで面と向かって言わないんだろう……。不可解に思いながらも、塙阪はそのことを教師に報告した。すると教師は問いかけた。

「おまえ、書かれたことに対して何か言いたいことはあるか?」

「ありません」

 そう答えるやいなや、避ける間もなく、手加減のない教師の張り手に頬を打たれていた。

「ついカッとなって手が出たんだと思います。でも、そのときはほんまに、悔しいとか腹立たしい、悲しいというような感情は一切覚えなかったんです」

 同級生からイチャモンをつけられたときも、売られた喧嘩を買うわけでもなければ、怖がる様子もない。挑発するつもりはなかったが、冷めた目で彼らを見ていると、暴力を振るわれることもあった。

「友達と一緒になってはしゃいだり、笑い合ったりすることもあったけれど、感情を露わにすることはあまりなかったんです。いや、内心動揺していたとしても、外目にはそう映らなかったんでしょう。まわりからすれば、当時の僕は何を考えているのかわからない、気持ち悪い人間やったと思います(笑)」

 ひとりで過ごす時間も長かった中学時代、塙阪は周囲から「孤独」と囁かれていた。

「『死ね』と書かれる、要は存在を否定されるのと同然のことをされても平気でいられたのは、僕は僕だからと思っていたからかもしれません。とはいえ、内心では声をかけられることを望んでいた“かまってちゃん”だったのかなと思うんです。友達の輪に入れないことを寂しく感じる気持ちは絶対にあったと思いますから」

 塙阪には忘れられない出来事がある。小学校5,6年頃のことだ。親しい友達を自宅に招いて誕生日会を開くのが恒例となっていた当時のこと。自分も仲間に入れてもらえるだろう。そう思っていた友達から誘いがかからず、勇気を振り絞って「僕も行ってええかな?」と尋ねたところ、「ごめん」と断られてしまったのだ。

「自分だったら誘われるかなと期待していたぶん、ショックは大きかったんです。もしかしたら、それ以来、仲間に入れてほしい気持ちを封じ込めるようになったのかもしれません」

 その事実を裏付けるかのように塙阪は、高校入学後、単車を乗り回すやんちゃな友人たちと毎日のようにつるむようになる。笑顔が絶えない青春時代が訪れたことに幸せを感じる一方で、彼らの間違いを指摘することができない「弱い」自分を自覚していた。自分のまわりから人が離れていくことが怖かったのだろう、「仲間」として認めてもらうためなら悪さをすることも、自身を傷つけることも厭わなかった。見当違いの存在承認を求めて、周囲に迎合しながら生きる日々だった。

 塙阪がグループから抜けるきっかけとなったのは、仲間の裏切りだった。

「彼らにしてみれば、裏切りではなかったんでしょう。僕が勝手に仲間だと思い込んでいただけで、単に都合のいい存在だったんだと思います」

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