#116 ナガオ考務店 代表取締役 / シューズミニッシュ エア社員 長尾彰さん

「自由な人を増やしたいんです」

 

1975年生。静岡県富士市出身。500円で20日間過ごすような極貧生活を送っていた大学2年(19歳)時に「30歳で日本で十指に入るファシリテーターとして独立すること」を決意。大学卒業後は、アドベンチャー教育専門施設、大手玩具メーカーでの勤務を経て、友人と立ち上げた会社でパッケージ化した社員研修を提供する。東日本大震災の復興支援に従事しながら、2012年1月、(株)ナガオ考務店設立後は、企業のみならず、官公庁、スポーツチームなど、組織のジャンルを問わず定期的、継続的な関わりを通したチームビルディングに力を注いでいる。

※ 文中敬称略

記事公開:2017-2-9

 

充実感を求めて
 2011年3月11日、東京・阿佐ケ谷。ビルの12階で企業研修をしていたそのとき、向かいのビルが激しく左右に揺れているように見えたのは錯覚だった。揺れているのは他でもない、自分が身を置いているビルだった。

 時間にして1分ほどだったろうか。地震の揺れがもたらした死を覚悟するほどの恐怖から逃れ、小一時間ほど前までの平穏を取り戻したとき、長尾の胸には、人はいつ死ぬかわからないのだから、やりたいことをやろう、という思いが宿っていた。

 ふたりの友人とともに長尾が株式会社「している」を立ち上げたのは、2006年のことだ。Web制作など採用関連の業務を担当する彼らと社員研修・教育を担当する長尾。他8名ほどのスタッフ間で「役割分担という名の依存関係」も垣間見られていたとはいえ、それが致命傷を呼ぶことはなかった。そこそこ仕事があって、生活するには困らない収入を得られるうえに、仲間とそこそこ楽しい毎日を送ることができる。そんな環境が、易きに流れる「そこそこ病」の温床だった。

 長尾自身、担当する研修の仕事にも、それほどやりがいを感じられていなかった。プログラム内容は、企業や目的に応じて使い分けられる9パターン(ABC×松竹梅)を設定。9:30〜17:00の1日コースが大半で、ごく稀に3日コースをこなすというビジネススタイルは、金を儲けることとは極めて親和性が高い一方で、欠乏感が付きまとうものだった。

「研修でチームを作ることができたとしても、それが会社の経済活動にどの程度インパクトを与えたかは極めて不明確。1日で人は変わるかもしれないし、組織が変わるきっかけになるかもしれない。でも、ほんとうは組織の成長や変化を実感として感じられるような仕事がしたかったんです。要は儲かるという理由で、自分がやりたいことに見て見ぬふりをしながら仕事をしていた期間だったんですよね、している時代の5年間は」

 震災後、足が度々被災地に向かったのは然るべき流れだったのかもしれない。教育や学校のことが頭の片隅から離れなかった長尾は、学校再開の目処が立っていない現状を踏まえて、子どもたちの場作りを目的とした「プロジェクト結コンソーシアム」を旗揚げする。

 4,5月に入っていた研修の予定が立て続けにキャンセルになるなど、震災の余波を受けて会社の仕事が激減したことも相まって、心の重心移動は加速していった。家庭をあまり顧みることなく、金が入ってくる当てもないのに、身銭を切って石巻へと通いつづけた半年間だった。

「役に立っていたかどうかは別にして、被災地で困っている人たちに対して、(この表現がしっくりくるかどうかはともかく)やるべきことをやっている方がやりがい、生きがいを感じられたんです」

 2011年11月に「している」を脱退後、単独で(株)ナガオ考務店を立ち上げたのは翌2012年1月のことだ。幸いなことに、これまで築いてきた縁に助けられ、仕事には困らなかった。「そこそこ病」に罹っている暇もなく、なりふり構わってはいられない状況はかえって充実感をもたらした。

「「している」を作ったときは、会社を作ればどうにかなると勘違いしていました。当時は、起業すること、いや、独立すること、誰にも指図されない生活を獲得することが目的になってしまっていたんです」

 30歳でファシリテーターとして独立する―。その目標が生まれたのは、プロジェクトアドベンチャー(体験学習のメソッドのひとつ)のファシリテーターと出逢った19歳の夏のことだ。

 初対面で、なおかつ年齢も背景も十人十色のメンバーと過ごした4泊5日の結末は衝撃だった。たったそれだけの日数にもかかわらず、高校のバスケ部で2年半かけて醸成されたものを越えるほどのチームワークが実現されたからだ。しかも、当時から20年以上経った今もメンバーとの付き合いは続いている。その事実が裏打ちする濃密な体験を終始そばでサポートしていたのが、耳慣れない「ファシリテーター」という職業の外国人講師だった。

 チームを作る人になりたい。そんな思いが芽生えて以来、20代の人生設計の基点となるほど心に根を張った目標を、30歳のときに友人と会社を立ち上げる形で実現させたという点では、申し分ない結果である。不足していたのは、「ファシリテーターになってどうするか」という視点だった。

「ファシリテーターになって何かを変えるために独立したほうがいいなら独立すればいいし、独立しなくても何かを変えることはできるはず。19歳のときに「独立する」という言葉で焼印を押してしまったことに、「している」時代は気づけなかったんです」

 目標を定めた1990年代中盤、ファシリテーターを職業としている人間は、自身の周りにはいなかった。サラリーマンや学校教師、塾講師など、何かしらの本業を持ち、その本業に生かすという目的でファシリテーションのスキルを学ぶ人ばかりだった。

 そんな現状にかき立てられたものもあったのだろう。「俺はファシリテーター界のカズのような存在になる。目指すは、30歳で年収1000万円。フェラーリに乗って、これで食っていけるということを若い衆に見せていかなきゃいけないんだ!」日本人選手のパイオニアとして海を渡り、自分の実力を試そうとするカズや野茂への憧れを胸に、19歳の青年は冗談めかした野望を語っていた。

「20代後半の5年ほど、経済的・物質的な成功に執着した期間を過ごしたのは学生時代に貧しい生活を送ったからでしょうね」

 


ひもじかった日々

 静岡県出身の長尾は、地元では有数の進学校を卒業後、愛知県知多半島にキャンパスを構える日本福祉大学に進学した。といっても、福祉を勉強しようという気持ちなどさらさらなかった。自然豊かで、かつ海の近くにキャンパスがあり、ひとり暮らしができて、得意科目の英語と国語だけで受験できるところ。近隣地域でそれらすべての条件を満たしてくれたのが同大学だった。

 大工として独立して働く父のもと、高校時代までは生活に困窮した覚えは一度もない。が、折しも3きょうだい(兄と自分と妹)の大学進学がほぼ同時期に重なってしまった状況では、さすがに台所事情も厳しかったのだろう。「家賃は出すが、学費や生活費は自分で捻出しろ」という条件で認められた進路選択だった。

 大学病院のカウンセラー補助、パチンコ屋……。それまでの何不自由ない生活から一転、アルバイトをいくつか掛け持ちしながら、汲々とした生活を送る日々が始まった。生活が楽になりつつあった大学3年の春までは、500円で2週間過ごすことも珍しくなかった。極限にまで食費を切り詰める中、コンビニで売っている1本100円のカニサラダの手巻き寿司は何よりのご馳走だった。

 といっても、つい1年ほど前までバスケットボールに青春を委ねた若者の胃袋が、500円の食費のみで日々を耐え忍べるわけもない。幸いしたのは、近くに山や海がある場所を選んだこと。狩猟採集民族の末裔がごとく、山でアケビやビワの実を採り、大学のまわりの溜め池で鯉などの魚を釣るなどして、「いかに空腹を満たすか」という至上命題と向き合っていた。

 生死に関わる状況では、恥や外聞など気にかける余裕すらなかった。同級生の女子に「なんか食わしてくれ」と懇願したり、潮干狩りシーズンの早朝、漁協の人たちが撒きに来た貝をバケツに山ほど積んで持ち帰ったり。形の悪い野菜や半分腐った野菜が畑の隅に捨てられているかどうかを昼の間にリサーチし、夜にこっそり拾いに行ったことも一度や二度ではない。生存本能の叫びに応じながらも、人としての良心と尊厳が、一線を超えそうになる自身をかろうじて留めていた。

 大学1年の春から2年の冬まで働いた、昼と夜、2食分の賄いを食べられるイタリアンレストランは、食糧難にあえぐ身には楽園だった。勤務は平均週2,3日。厨房で皿洗いを担当する役得を生かし、カルボナーラやペスカトーレなど、客が残した料理を直接スーパーのビニール袋に放り込み、こっそり持ち帰るのが常だった。

 その出来事が起こったのは、大学2年の11月頃だったろうか。締め作業と翌日の仕込みを終えたその日、まだほんのり温かいカルボナーラを懐にしのばせて店を出たのは深夜0:30頃のこと。夏は海水浴や潮干狩りに来る客で賑わう海浜地域の冬は、めったに人も車も通らない、寒々しい場所に変貌する。8時間ほど働いた後、正面から吹きつける海風をクタクタになった身体に浴びながら漕ぐ自転車のペダルはいつも、出勤時よりはるかに重かった。

 強い海風に煽られた長尾が転倒したのは、その道すがらだった。起き上がって周囲を見ると、自転車の前カゴに入れた「2,3日分の食糧」が地面に投げ出されていた。運の悪いことに、袋には穴が空き、パスタは砂まみれになった。そこは街灯すらないような暗い夜道である。発光しないポケベルにライトの役割は務まらない。地面に這いつくばりながら、汚れていない部分をかき集め、夜中の1時半頃、下宿のベッドの上で食べたときのみじめな気持ちを、長尾は忘れることができない。

 それから1年と経たないうち、それなりに稼げるようになると、生活は楽になった。パチンコ屋でバイトリーダー的立場になり、時給が1600円にまで上がった大学生活5年目には、15万 / 月程度の稼ぎを得て余裕すら感じていたほどだ。極限的にひもじかった2年間は時とともに遠ざかる一方だが、その記憶は40歳を過ぎたいまでも夢に見るほど強烈に刻まれている。

「世が世なら自殺してもおかしくない状況だったと思います。(奨学金は別として)返せる当てもないから、金を借りようとも思わなかった。ただだからこそ、強い動機づけになったんです」

 学生らしい安直さの顕れとも言える「年収1000万」という目標は、極地から這い上がるためには欠かせない希望の光だった。

「当時活用していた日本育英会と大学の奨学金。残債はいずれも、一括で返せない金額ではないけれど、あのときのひもじさを忘れちゃいかんと、いまだに返済しつづけているんです」

 

ファシリテーターの原点

 何不自由なく育った身ながら、ひもじい生活に耐えられたのは、小学校4年のときから参加していた自然学校の影響が大きかったのかもしれない。長尾にファシリテーターとしての原点を授けたその自然学校の主宰者が、ふた回りほど年上の元小学校教師・牧野である。

 ひとことで言えば、「野外活動を通して、子どもに生きる力をつける」自然学校の主たる活動は毎週末おこなう短期キャンプ、そして長期休暇におこなう中長期キャンプだった。それらの計画を練るために、メンバーは毎週火曜日、「基地」と呼ばれている場所に顔をそろえた。

 富士の樹海での1泊キャンプに20mほどの崖下り。長期のものでは、14泊15日で富士五湖のまわりを歩いて一周したり、伊豆七島のひとつ、式根島の砂浜で20泊したり……。“野外活動”を通り越した“野生活動”が揃い踏みするなかで、とりわけ記憶に深く刻まれているのが、小学校4年のときに参加した「20泊21日の期間で、琵琶湖のまわりを歩いて一周する」というイベントだ。参加したのは、小学校4〜6年の男女約20名。キャンプ場の在り処などを図書館や本屋で調べたり、人に尋ねたりしながら調査学習をするのは、すべて自分たち。いわば純然たるセルフラーニングの場が設けられていた。

 行程には3名の大人が同伴した。代表者の牧野とアシスタントを務めるふたりの大学生である。列をなす小学生の前後を歩く2人と、その集団からは1kmほどの距離を保ったまま、食糧や水分など、緊急物資を積み込んだ車でついていく1人。牧野は「一切、手も口も出さない」という方針を徹底させていたのだろう。大人は「ケガや命に関わる緊急事態が起きたときに対処するためだけの存在」だった。

 いくら事前に計画を立てたところで、想定通りにいかないことは往々にしてあるものだ。行程の序盤には、キャンプ場までたどり着けず、野宿を余儀なくされたこともある。

 だいいち、食糧やキャンプ道具など、ありとあらゆる荷物を背負って、毎日20km程度の道のりを歩くことは並大抵のことではなかった。身体に蓄積していく疲れにゆとりを奪われた状況では、「6年生だから重い荷物を持つ」という道徳で学ぶような思いやりなど絵空事でしかない。6年生は4年生の長尾らに重い荷物を持つことを強要。成り行きに任せられた“社会”の中では、力の弱い年少者はただ割を食うだけだった。

 ファシリテーターとしてのあり方を方向づけるような原体験を得たのは、行程も終盤に差し掛かった頃だったろうか。上級生からの理不尽な仕打ちにも歯を食いしばっていた長尾だが、ある瞬間、気持ちが切れてしまったのだろう。意味わかんない、もう歩きたくない。僕はここから一歩たりとも動かない―—。そう心に決めるやいなや、道端の縁石の上に頭を抱えて座り込んでいた。

 持ち前の「こうと決めたらてこでも動かない」気質が、顔をのぞかせていた。ほかの子どもから口々に「行こうよ」と言われたところで気持ちを翻すつもりは毛頭なかった。いくら声をかけたところで、返事をすることも、顔をあげることもしない長尾に、さすがにしびれを切らしたのだろう。「ほっとこうぜ。先行ってたら、来るだろ」という言葉を残して、足音は遠ざかっていった。

 隣に人の気配を感じたのは、しばらく経ってからだった。顔を上げずに、横目で確認すると、車で後からついてきた牧野が縁石の上に座っていた。かといって、自分を励ますでもなく、慰めるでもない。ただそこにいるだけである。

 朝の9 時頃に座り込んで以来、変わったことと言えば、肌を灼くように照りつける陽射しの強さくらい。沈黙が支配する場はやがて、頑なな長尾の心に甘えを育んでいく。朝から水も飲まなければ、排便もしていないのだ。ずっとこうしていたら、いつか手を差し伸べてくれるだろう。だが、そんな胸の内を見透かしているかのように、牧野はいっこうに何もしないままだった。

 この人は本気だ。僕が動かなければ何も変わらないんだ―—。そう悟るとともに黙って立ち上がり、とぼとぼと歩き始めたのは、出番の長い真夏の太陽が傾いてきた時間帯だった。そこから歩くこと6,7時間近く。目的地のキャンプ場に着いたときにはすでに、ほかの子どもらは寝静まっていた。

「そのとき、ありありと得た体感としてあったのは、一歩前に進むとゴールのほうが一歩自分に近づいてくるということ。行程中には、雨が3日連続降りつづけた時もあったけれど、天気のように変えられないことへの対処方法は、工夫するか、我慢するかのどちらかしかないことを体験として悟れたんです」

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