#120 HILLTOP株式会社 副社長 山本 昌作さん


この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_7493-1.jpg です



「日本の製造業のフロントランナーであり続けたい」

Profile
1954年生。京都府出身。大学卒業後、母に泣きつかれ、両親が全聾の兄の将来を慮ってつくった㈲山本精工に入社。26歳の頃、「おれが会社を経営する」と父に宣言し、大手自動車メーカーの孫請工場だった鉄工所を「白衣を着て働く工場にする」ため、改革を実行。1980年代半ばには、24時間無人加工システムの雛形を完成させる。2014年には、余裕を持って、楽しみながら登れる丘の上(HILLTOP)を目指そうと「HILLTOP株式会社」に社名変更。モットーは「楽しくなければ仕事じゃない」。

※ 文中敬称略




見えた頂
 目にした光景、耳にした言葉が現実だとは、にわかには信じがたかった。40年ほど前だったろうか。数年前ならばA社長とも気軽に会えた小さな「町工場」は、受付嬢がいる4階建ての立派な本社ビルに変わっていた。数年前、油まみれの作業着を着ていた町工場のオヤジは、ひと目で質がいいとわかる小綺麗な服装に身を包んでいた。A社長の雰囲気も話の内容もまるで変わっていたのはもちろん、何より驚かされたのは、社員から「先生」と呼ばれるようになっていたことだった。
 大学の先生と同じように一生懸命仕事に取り組んでいるのに、町工場や鉄工所で働く人間が「先生」と呼ばれることは絶対にない。そうか、職業の社会的地位は知的労働と単純労働(ルーティン労働)の割合で決まるのか―—。そう気づいた山本の中で、目指すべき頂は明確になった。A社長がどうやってそこまで辿り着いたのか、詳しい経緯まではわからなくとも、モデルケースが実在するという事実だけで十分だった。社員が誇りを持って働ける夢工場にしたい。白衣を着て仕事ができる鉄工所にしたい。シャツからパンツまで油だらけになるのはもう懲り懲りだ―—。道なき道をゆく挑戦が始まった。
「A社長は、この人の考えていることを学ぼうと思えた唯一の教師かもしれません。それ以外の経営者は、ほとんどが反面教師ですから(笑)」


◆ 閉ざされた未来
 よりによって、もっとも忌み嫌う鉄工所の仕事に就くとは思いもしなかった。朝から晩まで全身油まみれになって働く両親の背中を見て育った身には、「あばらや」のような町工場など到底継ぐ気にはなれなかった。大学時代、ホワイトカラーの象徴たる大手商社を志望し、内定を得たのも、その反動だ。
 運命のいたずらだろうか。1961年に父が創業し、大手自動車メーカーの下請・孫請工場として主に自動車部品の製造を請け負ってきた「山本精工所」の社員は5〜6名。会社を技術面で支えていた叔父が独立したために「手薄になった工場を兄弟3人で支えてほしい」と母から泣いて頼まれれば、無碍にできるはずもない。1977年春、情にほだされて入社を決めた山本は、自身の将来が閉ざされた現実に打ちひしがれていた。
 もはや苦行でしかなかった。勤務3日目にしてすでに、山本は耐えがたいほどの精神的苦痛に苛まれていた。機械的に同じ作業を繰り返すだけの毎日にどうやって楽しみや張り合いを見出せというのか。人には人にしかできない仕事があるはずや。仕事の合間、
「時計の針が進むのが遅いですよね。壊れてるんじゃないですか?」
 そう尋ねた先輩から、
「それは初期症状や。この仕事を始めたやつは、みんな通るとこや。作業中に仕事のことを考えるからあかんねん。何も考えんと、手だけ動かせ」 
 という答えが返ってきたときには、暗澹たる気持ちになった。
 しかし、生来、自己解決するタイプである。ないものねだりをしても仕方がない。そう気持ちを切り替えた山本は、置かれた場所で花を咲かすことに意識を傾けていった。


◆ 道なき道を
 入社後3年が経った頃には、我慢は限界に来ていた。
「おれに任せてくれ。おれが会社を経営する。おれがお客さんを獲ってくる」
 山本が父に宣言したのは、26歳のときのことだ。
「売上のためには下請けに徹すベし」と考える父からは当然のごとく反対されたが、「もっと人間らしい仕事がしたい」「取引先からのたび重なるコスト削減要求の先に未来はない」と説き伏せた山本は、売上高の8割ほどを占める自動車部品の仕事をすっぱり辞め、多品種少量生産へと一気に舵を切ったのである。
 相応の覚悟をしていたとはいえ、地獄のような3年間が待っていた。血眼になって新規顧客の獲得に奔走するも、売上の8割を失った痛手は大きすぎた。生活費の捻出すらままならず、「何度も何度も、ツケで醤油や味噌を買うのはやめてくれ」と酒屋の主人から怒られたこともある。
 このまま廃業にまで追い込まれてしまうのではないか――。そんな恐怖に怯えながらも、作ったことのない製品でも手当たり次第に受注。1980年に長男・勇輝(現・HILLTOP Technology Laboratory, Inc.(HILLTOPアメリカ現地法人CEO)が誕生したが、毎日、明け方近くまで仕事をしていた山本には、長男の起きている姿を見た記憶が残っていない。
 勝手がわからないため、多大なコストや時間を要したが、多品種少量生産で味わう仕事のワクワク感は、これまで経験したことがないものだった。しかし、リピート注文が入れば、同じ作業を繰り返す上、あいまいな記憶を掘り起こす作業に時間を奪われてしまう。そこで山本が取り組んだのが、情報の整理整頓を要とするコンピュータと機械のオンライン化だ。職人のカンや感覚を分析し、データベースに落とし込む作業を淡々と繰り返していったのである。HILLTOPの生命線となる「多品種単品・24時間無人加工システム」(通称ヒルトップ・システム)が産声を上げた瞬間だった。
「そのシステムを活用すれば、リピート注文の処理作業は完全に人の手から離れます。情報をコンプリートしている(欠落していない)ことが必須ですが、人間は常に新しいことに挑戦しながら、「知的労働」に集中することができるのです。今や、完璧に情報をコンプリートしたヒルトップ・システムのおかげで、当社のオペレーターやプログラマーは「過去」の仕事をひとつも持たず、「未来」の仕事に全力を注げます。
 かたや、一般の製造業で働いている人たちは、以前その注文を捌いた人が記憶やメモ、データを引っ張り出しながらリピート注文を処理するので、「過去」の仕事を抱えながら「未来」の仕事も進めなきゃいけない。その違いが生み出すパフォーマンスの差は、歴然たるものがありますよね」


座して半畳、寝て一畳
 HILLTOPには、元ヤンキー・元暴走族の社員が3人いる。今では皆、経営の中核を担う欠かせない存在となっているが、1980 年代前半に入社してからしばらくの間は「猫の手にもならない」存在だった。そもそも山本には、「中小企業には人が来ない。いい人材がいない」と諦めていたところがあった。
「人がいないのだからこいつらを育てるしかない、と肚を決めたのがよかったのかもしれません」
 価値観が180度違うような彼らと過ごす日々は、戸惑いの連続だった。上下関係や親子の契り、兄弟の契りを過剰なまでに重んじる彼らの掲げる正義は逸脱していた。「自分たちは搾取されている」と、まるで労働者側の意見を代表しているかのように経営者側の非を主張するのだ。
「こちらがのうのうとしていたり、遊び呆けたりしていたのならわかります。でも、こちらも油まみれになって一緒に働いて、彼らが嫌がることもやっている。にもかかわらず、そう主張されることには腹が立ちました。
 今でも私は、権利と主張をする人や、それが組織化した労働組合が大嫌い。大企業は別として、人の顔が見える規模の企業で労働組合が結成されること自体おかしいと思っています。ふだんから社員の意見に耳を傾けて、お互いにいい方法を探っていけば、そんな組織は生まれないはず。もし当社で労働組合が結成されることがあったら、私はすぐに身を退きます。
 ギブ・アンド・テイクとよく言われますが、多くの人はギブをせずにテイクばかり得ようとするからうまくいかないんだと思います。実際、産休・育休制度を推進している女性社員に「おれにはわからんから、君が調べてくれ。マーケティングもやって、自分が“経営者”だったとしたらどこまでやれるのかを考えてくれ。任せるから」というふうに接すると、ものすごく一生懸命取り組むんですよね」
 テイクばかりを望み、毎日のように突っかかってくる彼らから、山本は逃げなかった。「礼儀」や「教養」、「知恵」といった項目はゼロに近いけれど、「行動力」や「主体性」という項目は突出している、偏ったレーダーチャートの持ち主なんだ。もし、彼らを納得させて、その突出した部分をよい方向に振り向けられたなら、会社の大きな推進力になるのではないか―—。いつしか、彼らと夢物語を語り合うのが山本の習慣になった。
「将来は白衣を着て仕事をしよう」
「将来は琵琶湖のほとりの別荘を買おう」
「将来はスキー場を買おう。ペンションを買おう」
 1990年頃、2〜3億円で信州エリアのスキー場が売りに出されていたときは、半ば本気で買うことを考えていた。本気で目指す目標と空想に近い夢が入り混じっていたが、未来を語るという点では同じだった。
「人は共感した人に対して仲間意識を覚えるもの。まわりの目には私が媚びているように映ったかもしれないけれど、彼らの持ち味を生かすためのベストな方策だと考えたんです。今の私があるのは、よくも悪くも彼らのおかげなんですよね」
 2000年代後半、山本が「理解と寛容を以て人を育てる」という経営理念を定めたのも、彼らとの出逢いと無関係ではない。こちらに忍耐力があれば、ヤンキーや暴走族であっても、正しい方向に導くことができるという確信に近い思いがあるのだ。
 自発能動を重んじ、「絶対に監視管理をしない。尻を叩かない」と心に決めている山本は、どんな状況でも自ら動き出すまで「待つ」姿勢を徹底してきた。
 25年ほど前(1995年頃)のことだ。夜通し遊んでいたからだろう、勤務時間中にもかかわらず、パソコンの前で毎日のように居眠りしている社員がいた。その状態が約半年続いたのだが、山本は叱責しないのはもちろん、注意、小言めいたことも一切口にしなかった。その社員は現在、営業部長として活躍している事実が、「いずれ覚醒する」と信じて待ち続けた「社員教育」の成果と言えるのかもしれない。
「寝る気はなくても、寝てしまうような状態だったんでしょう。結局、本人が一番恥ずかしいはずだから、グズグズと言わなくてもいいんです。人は、わかっていても言われなかったこと、容認してもらったことが一番つらいはず。そう思わなければ、人間じゃないですよ。
 自分も含めて、人間はみんな出来損ないです。大学を卒業してからイヤイヤ会社に入った私自身、勤務時間中に仕事もせず、飼っていた犬と遊んでいて、よく父に怒られていましたしね。弟(専務)にまで怒られたときは、さすがに堪えましたけど(笑)」
 山本の座右の銘は「座して半畳、寝て一畳」だ。
「いくら立派な肩書やたくさんのお金を持っていても、ひとりの人間ができることなんてたかが知れています。まわりの人たちの助けなくして、願望や夢を成就させられるわけがないんです。「裸の王様」とよく言われるように、勢いがあるときは周りがチヤホヤしてくれるけど、落ちぶれた途端、誰も寄って来なくなるのは人として寂しいですよね。
 経営者って、会社という器の中に備わった一機能でしかないんです。経営者も、社員と同じ組織の歯車。それを前提とした上で、組織として最高のパフォーマンスを発揮するために、個々の歯車が動力を持ち、相乗効果を生み出せるように調和を保つことが必要だと考えています」


製造業のフロントランナーとして
 小学校時代、山本には「(鉄腕アトムに出てくる)お茶の水博士のような科学者になりたい」という夢があった。モデルを機械に投げ込んだら、自動でカッターパスが出来て、自動でモノが削られていく。こんな機械があればいいな―—。幼心に抱いたたわいもない夢をふと思い出したのは、両親が営む鉄工所で働き始めてからのことだ。
「そういう記憶って、ずっと心に残っているものなんでしょうか。ファーストロット(初めての注文)でも無人化加工を実現させるなど、その夢にだんだん近づいている今があるのは確かですから」
 機械の前で行う作業:デスク作業=8:2という従来の比率を逆転させるべく、無人化加工に着手した1980年代前半、社員からは「なんでこんな邪魔くさいことやらなあかんねん」と批判の矢を浴びた。思い描いたようには自動化が進まず、「いいかげんこんなことを辞めたらどうか」と非難されることもあった。だが、このやり方の価値を実感できる日は必ず来ると、初志を貫徹。社員を徹底監視し、鬼のように命令し続けた1年半が過ぎると、異を唱える者は誰もいなくなった。
「情報の整理整頓をするだけで、いかに人間が人間らしく仕事をできるか、実感してもらえると思います」
 バブル全盛期の1980年代後半には、同業者から「山本さんは頭がおかしい。量産の仕事をすれば放っておいても儲かるのに、どうして七面倒くさい単品の仕事ばかりするのか」と言われたこともある。だが、大手企業がIoT化を進め、多様な顧客ニーズに応じたフレキシブルな生産体制に移行している今、大量生産体制は前時代の遺物となりつつある。
「私の永遠のモチベーションは、HILLTOPが日本の製造業のフロントランナーでありつづけること。日本の製造業が大量生産から離れて、多品種少量生産に移行していく。その流れを作っていきたいと思っています。仕事という餌を与えてもらう代わりに、不条理な要求でも呑むことを求められる下請企業から抜け出すことなくして、人間が人間らしい仕事をすることはできない。下請企業は親会社に飼われる家畜になっていることに早く気づき、野生にならなきゃいけないんです」
 HILLTOPには2018年現在、年間2,000人以上の見学者が訪れている。ある就活生が「この食堂を見て、入社したくなった」と言ったカフェテリア風の社員食堂。最上階(5階)に設けられた和室や筋トレルーム、浴室。部署と部署を隔てる壁を完全に取り払ったデスク配置……。対話と創造性やイノベーションを重視したつくりはすべて、「人間が人間らしく働ける環境づくり」に根ざした産物である。
「非常にうれしいのは、私たちの取り組みを真似ようとがんばって、成果を出している会社があること。情報交換が活発になる社員食堂を作った結果、女性社員がどんどん増えている上に、うな重まで提供している会社なんかを見ると、こちらがジェラシーを感じるほど。仮に私たちがやっている事の本質までわからなくても、まずは現象を真似るだけでもいいと思っています。人を大事にしていたら、会社の主役は誰か、おのずとわかるはずですから」
 ヒルトップ・システムの雛形をつくった30歳の頃から講演者として呼ばれるようになった山本には、別の顔もある。約15年来、招かれ続けている名古屋工業大学を筆頭に、大阪大学、神戸大学、立命館大学と4つの大学で非常勤講師を務めている。山本はよく、大学の教授から驚かれるという。
「ほんとうは一番正しいことだけど、理想でしかないと思っていた。それを実現させていることが信じられない」
 山本を衝き動かしてきたのは、何が何でも理想を叶えたい、いち人間として正しいと思うことをまっとうしたいという熱烈な想いであり、それを具現化するために徹底し、一途に貫いてきた行動力だ。
「放っておいたら、ルーティン労働に支配されてしまうのが製造業の宿命です。だからこそ、それに抗わなければならない。その労働を捨てるにせよ、圧縮するにせよ、真っ向から闘わなければならないんです。さもなくば、自分が常々口にしている「利益を落としてでも、人を大事にする」「お金が残らなくても、人が残ればいい」「採算が合うかどうかより、楽しいかどうか、やってみたいかどうかで仕事を選ぶ」……という理想はただのお題目で、きれいごとしか言わない甘ちゃんになってしまいますから」
 かくいう山本にも、現状に甘んじている時期があった。磨き上げてきたヒルトップ・システムが功を奏し、堅調に業績を伸ばしていたHILLTOPは、20年以上前から20〜25%の利益率を計上。2002年度には「関西IT百撰」最優秀企業に選定された。順風満帆な状況に慢心していたのだろう。あれほど強く願っていたはずの夢もいつしか霞み、こんなに儲かってるんやからそんな面倒くさいことせんでええやん、という心境に陥っていたのだ。
 そんな折に遭ったのが、2003年に起こった工場火災である。消火活動にあたった際に全身やけどを負い、死線をさまよった経験は、自分の人生を見つめ直し、自分に残せるものは何かを模索する時間を山本にもたらした。鉄工所・町工場のイメージを払拭する「夢工場」(新しい本社)を京都府宇治市に竣工したのは、その事故があったからだ。
『現状否定の中からしか、新しいものは生まれません。当社で頻繁にジョブローテーションを実施(最短で1年)しているのも、「現状否定」する状況を意図的に作り出すためでもあるんです』
 山本がこれまで出会ってきた数多の反面教師は、現状否定を促す最良の教師でもあった。
「人からは「山本さん変わりませんね。20年前に言うてはることとまったく同じですね」と言われたりしますけど、確かにそうだなと。いかにして人間を単純労働、ルーティン労働から解放させるか。押さえているのはその一点だけ。人間から人間らしさを奪い去る“鉄工所”が死ぬほど嫌い、という思念に端を発した私のライフワークは、40年来、揺らぐことのない信念に支えられているんです」

Pocket