ライフストーリー

公開日 2019.1.17

Story

「日本の製造業のフロントランナーであり続けたい」

HILLTOP株式会社 副社長 山本 昌作さん

HILLTOP㈱ 副社長 山本昌作さん

Profile

1954年生。京都府出身。大学卒業後、母に泣きつかれ、両親が全聾の兄の将来を慮ってつくった㈲山本精工に入社。26歳の頃、「おれが会社を経営する」と父に宣言し、大手自動車メーカーの孫請工場だった鉄工所を「白衣を着て働く工場にする」ため、改革を実行。1980年代半ばには、24時間無人加工システムの雛形を完成させる。2014年には、余裕を持って、楽しみながら登れる丘の上(HILLTOP)を目指そうと「HILLTOP株式会社」に社名変更。モットーは「楽しくなければ仕事じゃない」。

見えた頂

目にした光景、耳にした言葉が現実だとは、にわかには信じがたかった。40年ほど前だったろうか。数年前ならばA社長とも気軽に会えた小さな「町工場」は、受付嬢がいる4階建ての立派な本社ビルに変わっていた。数年前、油まみれの作業着を着ていた町工場のオヤジは、ひと目で質がいいとわかる小綺麗な服装に身を包んでいた。A社長の雰囲気も話の内容もまるで変わっていたのはもちろん、何より驚かされたのは、社員から「先生」と呼ばれるようになっていたことだった。

大学の先生と同じように一生懸命仕事に取り組んでいるのに、町工場や鉄工所で働く人間が「先生」と呼ばれることは絶対にない。そうか、職業の社会的地位は知的労働と単純労働(ルーティン労働)の割合で決まるのか―—。そう気づいた山本の中で、目指すべき頂は明確になった。A社長がどうやってそこまで辿り着いたのか、詳しい経緯まではわからなくとも、モデルケースが実在するという事実だけで十分だった。社員が誇りを持って働ける夢工場にしたい。白衣を着て仕事ができる鉄工所にしたい。シャツからパンツまで油だらけになるのはもう懲り懲りだ―—。道なき道をゆく挑戦が始まった。

「A社長は、この人の考えていることを学ぼうと思えた唯一の教師かもしれません。それ以外の経営者は、ほとんどが反面教師ですから(笑)」

 

 閉ざされた未来

よりによって、もっとも忌み嫌う鉄工所の仕事に就くとは思いもしなかった。朝から晩まで全身油まみれになって働く両親の背中を見て育った身には、「あばらや」のような町工場など到底継ぐ気にはなれなかった。大学時代、ホワイトカラーの象徴たる大手商社を志望し、内定を得たのも、その反動だ。

運命のいたずらだろうか。1961年に父が創業し、大手自動車メーカーの下請・孫請工場として主に自動車部品の製造を請け負ってきた「山本精工所」の社員は5〜6名。会社を技術面で支えていた叔父が独立したために「手薄になった工場を兄弟3人で支えてほしい」と母から泣いて頼まれれば、無碍にできるはずもない。1977年春、情にほだされて入社を決めた山本は、自身の将来が閉ざされた現実に打ちひしがれていた。

もはや苦行でしかなかった。勤務3日目にしてすでに、山本は耐えがたいほどの精神的苦痛に苛まれていた。機械的に同じ作業を繰り返すだけの毎日にどうやって楽しみや張り合いを見出せというのか。人には人にしかできない仕事があるはずや。仕事の合間、

「時計の針が進むのが遅いですよね。壊れてるんじゃないですか?」

そう尋ねた先輩から、

「それは初期症状や。この仕事を始めたやつは、みんな通るとこや。作業中に仕事のことを考えるからあかんねん。何も考えんと、手だけ動かせ」
という答えが返ってきたときには、暗澹たる気持ちになった。

しかし、生来、自己解決するタイプである。ないものねだりをしても仕方がない。そう気持ちを切り替えた山本は、置かれた場所で花を咲かすことに意識を傾けていった。

 

道なき道を

入社後3年が経った頃には、我慢は限界に来ていた。

「おれに任せてくれ。おれが会社を経営する。おれがお客さんを獲ってくる」

山本が父に宣言したのは、26歳のときのことだ。

「売上のためには下請けに徹すベし」と考える父からは当然のごとく反対されたが、「もっと人間らしい仕事がしたい」「取引先からのたび重なるコスト削減要求の先に未来はない」と説き伏せた山本は、売上高の8割ほどを占める自動車部品の仕事をすっぱり辞め、多品種少量生産へと一気に舵を切ったのである。

相応の覚悟をしていたとはいえ、地獄のような3年間が待っていた。血眼になって新規顧客の獲得に奔走するも、売上の8割を失った痛手は大きすぎた。生活費の捻出すらままならず、「何度も何度も、ツケで醤油や味噌を買うのはやめてくれ」と酒屋の主人から怒られたこともある。

このまま廃業にまで追い込まれてしまうのではないか――。そんな恐怖に怯えながらも、作ったことのない製品でも手当たり次第に受注。1980年に長男・勇輝(現・HILLTOP Technology Laboratory, Inc.(HILLTOPアメリカ現地法人CEO)が誕生したが、毎日、明け方近くまで仕事をしていた山本には、長男の起きている姿を見た記憶が残っていない。

勝手がわからないため、多大なコストや時間を要したが、多品種少量生産で味わう仕事のワクワク感は、これまで経験したことがないものだった。しかし、リピート注文が入れば、同じ作業を繰り返す上、あいまいな記憶を掘り起こす作業に時間を奪われてしまう。そこで山本が取り組んだのが、情報の整理整頓を要とするコンピュータと機械のオンライン化だ。職人のカンや感覚を分析し、データベースに落とし込む作業を淡々と繰り返していったのである。HILLTOPの生命線となる「多品種単品・24時間無人加工システム」(通称ヒルトップ・システム)が産声を上げた瞬間だった。

「そのシステムを活用すれば、リピート注文の処理作業は完全に人の手から離れます。情報をコンプリートしている(欠落していない)ことが必須ですが、人間は常に新しいことに挑戦しながら、「知的労働」に集中することができるのです。今や、完璧に情報をコンプリートしたヒルトップ・システムのおかげで、当社のオペレーターやプログラマーは「過去」の仕事をひとつも持たず、「未来」の仕事に全力を注げます。

かたや、一般の製造業で働いている人たちは、以前その注文を捌いた人が記憶やメモ、データを引っ張り出しながらリピート注文を処理するので、「過去」の仕事を抱えながら「未来」の仕事も進めなきゃいけない。その違いが生み出すパフォーマンスの差は、歴然たるものがありますよね」

 

座して半畳、寝て一畳

HILLTOPには、元ヤンキー・元暴走族の社員が3人いる。今では皆、経営の中核を担う欠かせない存在となっているが、1980 年代前半に入社してからしばらくの間は「猫の手にもならない」存在だった。そもそも山本には、「中小企業には人が来ない。いい人材がいない」と諦めていたところがあった。

「人がいないのだからこいつらを育てるしかない、と肚を決めたのがよかったのかもしれません」

価値観が180度違うような彼らと過ごす日々は、戸惑いの連続だった。上下関係や親子の契り、兄弟の契りを過剰なまでに重んじる彼らの掲げる正義は逸脱していた。「自分たちは搾取されている」と、まるで労働者側の意見を代表しているかのように経営者側の非を主張するのだ。

「こちらがのうのうとしていたり、遊び呆けたりしていたのならわかります。でも、こちらも油まみれになって一緒に働いて、彼らが嫌がることもやっている。にもかかわらず、そう主張されることには腹が立ちました。

今でも私は、権利と主張をする人や、それが組織化した労働組合が大嫌い。大企業は別として、人の顔が見える規模の企業で労働組合が結成されること自体おかしいと思っています。ふだんから社員の意見に耳を傾けて、お互いにいい方法を探っていけば、そんな組織は生まれないはず。もし当社で労働組合が結成されることがあったら、私はすぐに身を退きます。