No.27 加藤仁司さん

Story No.27 加藤仁司さん

「まず、ここにいることが、すごく心地いいんです」

加藤仁司さん 3Profile
1964年生。宮城県多賀城市出身。西川町大井沢在住。応用物理を学んだ大学を卒業後、メーカーの開発部門に就職。と共に、単身、埼玉県で暮らし始める。1997年、11年のサラリーマン生活にピリオドを打ち、アジア学院(世界の貧しい地域で働く農村指導者を養成する栃木の学校)へ進学。その後、岐阜にある、自立支援活動を行う禅宗のお寺で7年、福島の「自然農自給生活学校」のスタッフとして4年半を過ごし、2010年の冬、解体予定だった古民家を買い、大井沢に移住。現在、主にスギ植林地の調査の仕事をする傍ら、畑で作物を栽培。他にも、マタギやつる細工などの大井沢の伝承文化も学んでいる。

僕が大井沢で暮らし始めた理由(わけ)
 あれは、2010年夏のこと―――。「ブナのあるところで暮らしたい」と、鳥海山近辺(山形県北部)から南下しながら移住先を探していたさなかに出逢ったここ大井沢。
 手に届きそうなところにブナが生えている。そして、荒れてきている植林されたスギのそばから、ブナとかミズナラが生えてきている。自然の力と呼べるようなものを感じたその光景に感動すら覚えた僕は、その後、住める家を探すため、ここの民宿に泊まりに来ました。
 その時紹介してもらったのが、解体される予定だったこの家。まず、家は僕が好きな古民家だし、畑もあるし、薪で生活もできる。それに加えて、大井沢には以前から興味のあったマタギ文化も根付いていると聞いて、ますます「ここに住みたい」との思いは増していったんですよ。
 それで、僕は持ち主に申し出たんです、「壊すなら売ってください。手続きは全部僕がやりますから」って。それから、寒河江市の法務局に何度も通い、全部一人で手続きを済ませた僕は、所々改修をしたり、車庫を建てたりしながらこの家で暮らし始めました。
 「このタイミングを逃せば、話がダメになってしまう」そんな思いは僕を焦らせ、話をどんどん進めさせました。周りにどういう人が住んでいるかなんて全然知らなかった当時、ここで生活していくための仕事が見つかっていなかった当時、僕を動かしていたのは「とにかくこの家に住みたい、大井沢で暮らしたい」との思いでしたね。

*  * *

学生時代の僕
 部活動でやっていたアーチェリーとパチンコと麻雀に日常が彩られていた、僕の大学時代。必修の授業に出る以外は、ほとんどアーチェリーかパチンコをしているという時期もありました。一日中パチンコ屋にいたこともあるし、パチプロになろうかなとさえ思ったこともある。(笑)要は、それだけのめり込んでいたんですよ。とは言え、昔のパチンコは今のデジパチとは違って、大勝ちも大負けもしにくく数千円で長時間楽しめるものだったから、大金をフイにするようなことはなかったですけど。それから、徹夜での麻雀もよくしていましたね。
 そんな学生時代、「とりあえず親元を離れて、安定した収入を得られるようなそれなりの会社に入りたい」との思いを抱いていた僕は、新卒で電気関係のメーカーに就職。と共に、それまでずっと暮らしていた宮城の実家を離れ、埼玉で一人暮らしを始めました。
 社会人1、2年目の頃も、学生時代ほどではないにせよ、けっこう遊んでいましたね。土曜日の午後は会社の同僚とボーリングに行き、夜はとんかつ以外はおかわりし放題のとんかつ屋で腹いっぱい食べ、帰ってきてからは徹夜で麻雀をするのが、僕らの恒例行事でしたから。

欲求が爆発した僕
 「はて?スポーツカーを買おうか、ジープを買おうか?」そんな迷いが生じていたのは、社会人2年目の頃。それまでほとんど旅をしたことがなかった僕の中に芽生えていたのは、「車を買って、色んな所に行ってやろう」との思いでした。それで、どんな車にしようかと思い巡らせていた時、とにかく普通が嫌だったんでしょうね、僕の中に浮かび上がってきた選択肢はスポーツカーとジープだったんです。
 結局、悩んだあげくジープを買った僕は、反動からか、それから2年くらいは休みの度に林道を走りまくるようになりました。基本的には道のそばで野宿をし、1泊2日で帰ってくるという行程だったんですけど、行くところ行くところ全てが未知の世界だったから、新鮮で面白くて。もう、地図を見ているだけで楽しかったですから。「この林道を通ると、面白そうだな」って想像してワクワクしていました。
 そのうち、そんな僕の様子を見ていた職場の先輩が、僕を登山に誘ってくれたんです。高校生の時の修学旅行で嫌々ながら登った山は抜きにして、生まれて初めて出逢う登山という新たな世界は僕を魅了しました。そうして夢中になるものが林道を走ることから登山へと徐々に変わっていった僕は、一人であちこちの山を(夏は足で、冬はバックカントリースキーで)登るようになりました。「行ったことない所に行ってみたい」との衰えぬ思いを携えながら。
金曜の夜に出発し、登山口に着いてから仮眠をとり、まだ薄暗いうちから登り始めて、頂上付近の避難小屋か持参したテントに泊まり、日曜の夜に疲れきって帰ってくる。そして、疲れがまだまだ体に残っている月曜日は、会社に行っても仕事にはならない。(笑)それが僕のお決まりの行動パターン。そんな僕の得意技は、パソコンの前でコクりともせず、体を硬直させたまま居眠りをすること。(笑)当然、周りにはバレていたんですけどね。(笑)比較的自由度の高い開発の仕事だったし、「やることさえちゃんとやれば大丈夫」という空気はあったから見逃してくれていたんですよ。
 ―――今や完全に仙台のベッドタウンと化している、僕の生まれ故郷。当時はまだ家の前にあった原っぱで草野球をしたり、近くの山で虫捕りをしたりするのが幼い頃の僕の日常でした。そんな当時の体験は、後に色んなところに足を踏み入れるようになる僕の一つの原点なのかもしれません。


不意に訪れた転機
 「会社を辞めた方がいいかな」自分にはあまり向いていないように感じていたからか、入社3年目の頃には、おぼろげながらそう思うようになってきた僕。だけど、「せっかく会社に入ったのに、中途半端で終わるのもどうなのか」「辞めてどうするのか」そんな心の声を聴きながら、ダラダラ会社にはいたんですよね。
 結局会社を辞めたのは11年目のこと。――というのも、少し遡って、10年目くらいに転機が訪れたんです。すごく忙しい時期だった当時、連日のように深夜残業が続き、疲れ果てていたんですよね。
 そんなある時のこと。作っている製品のうち、自分が関わっている部分しか今までは見えていなかったのに、フッと製品全体がわかったような気になったんですよ。心が解放されたような感じというか、楽になったというか。それはきっと、ずっとその仕事をやってきたからこそ得られた経験だったと思います。そして、それをきっかけに会議の場でも色々と発言できるようになったりもして。それで、僕の気持ちにも一区切りついたんですよね。「もう会社辞めてもいいかな」って。
 実際、「やっていけるのだろうか」という不安はありましたけどね。「何とかなるだろう」という思いが勝ったんですよ。

変わらない思い
 「自然の中で暮らしたい」サラリーマン時代、登山にのめり込んでいるうちに、僕の中で徐々に膨らんできていたのはそんな思い。そうして、8年目頃から、週末の度に埼玉の有機農家の下へ足を運ぶようになった僕が「ならば自分で食べ物を作れるようになろう」と退職後に選んだ道は、アジア学院(栃木にある、世界の貧しい地域で働く農村指導者を養成する専門学校。研修期間は約1年間)への進学。
 農業を学べるのに加えて、「知らない世界を見られる。外国人と暮らせる。英語で授業が行われる、つまり英語を学ばざるを得ない環境で英語を学べる。」とは、僕にとって好条件ぞろい。でも、キリスト教系の学校だったそこの研修生の中には神父さんや牧師さんがいたり、礼拝の時間もあったり。それには馴染めなかったけれど、その経験は僕の中に眠っていた仏教(禅)への興味を呼び覚ましてくれたんです。
 ―――そもそも、僕が仏教に興味を持ち始めたのは高校生の頃。人生について色々悩んだり、考え始めた時期に出逢ったのが仏教でした。サラリーマン時代から、主に仏教圏の国(タイ・ネパール・ブータンetc)の田舎を旅したりというように、その後は普通に生活しながらも心のどこかにはずっとあったんですよね.
 そうして、その専門学校を卒業した1998年。長期で禅を学ぶ修行者を受け入れているお寺を本で探していた中で出逢ったのが、岐阜にあるお寺(在家僧侶の養成や、不登校や引きこもりなどの青少年を受け入れ、自立支援活動なども行うお寺)でした。「食べるものは極力自給しよう」という、そこのお寺の住職の考えも肌が合った僕は、3ヶ月の予定で修行を始めました。
    だけど、いざ畑を耕し始めると、3ヶ月とかそこらの短い期間では何もできない。もう少し長くいてみようと思いながら続けているうちに、月日はどんどん過ぎていきました。
 そうそう、禅の修行中に得た感覚は、会社を辞めるきっかけになった感覚と一致するものだったんですよ。
 それはさておき、長くそこにいると、次第に僕が住職の後継ぎになるだろうという空気が生まれてきたんです。住職はそうさせたかったらしく、そこで一緒に暮らす他の人たちもそう思っていたみたいで。だけど、「このままずっとここにいて住職になりたい」というつもりはなかった僕は、お寺を去りました。2005年、41歳の時でした。
 そして、福島にある「自然農自給生活学校」(参加者が1年間ほぼ自給自足の生活を行う中で、生活力を養い、自然農のやり方と心を学ぶことを狙いとした学校)のスタッフとして雇ってもらいました。
 古民家で暮らしながら、薪を作ったり、炭焼きをしたり…。そんな風に、お金をほとんど使わないそこでの生活スタイルは、僕にとって理想的なもので。それに、農法は耕さない自然農。最初の段階はどうしても作物は雑草や虫に負けてしまうから手でとったりするんだけれど、作物が自力で育つようになれば雑草も虫も放っておくという農法だったんです。「雑草にせよ、虫にせよ、何物も敵にしない」根本にあったその考えは自分にもすごく合ったんです。それから、そこのオーナーは、農家をやりながら自分で家を建てたりするような人で。
 そういうところに身を置きながら思っていたんですよね、「自分もこういう生活したいな」って。
 だけど、そこでも同じことが起こったんです。3、4年の時を経る中で主要メンバーになっていた僕がそこを継いでいくだろうという雰囲気になっていたんですよね。僕は、そのつもりはなかったんだけれど。
  それに加えて、そこはブナがある環境ではなかったんですよ。だけど、同時に、ブナのないそこの環境は、僕の中でしばらくひっそりと生きていた「ブナがある所で暮らしたい」との思いを蘇らせてくれたんです。
 ―――20代半ばの頃だったかな。林道を走り回る中で目のあたりにした荒れた山々。そのうちに「自分にできることはないか」との思いが芽生えてきた僕は、自然保護団体に入っていたことがありました。その活動の一環であるカモシカ調査のために、5年ほどにわたって年に2回朝日鉱泉を訪れていたんですね。そこで僕が出逢ったのは、人の手が入っていない天然のブナ林。その中に身を置いていると、すごく心地良かったんですよ。
 そして、働き始めてから約4年半が経った2010年の冬。大井沢で住む家を確保していた僕は、そこを去り、ここにやって来ました。
 ―――アジア学院にせよ、お寺にせよ、自然農自給学校にせよ、どこにいても何かしら違和感を感じていた僕がいました。「いいんだけど、自分が求めているものとはどこか違う。そこにいて描ける将来は、少し方向性が違う」というように。だけど、ここに来た時からその違和感は跡形もなく消え去ってしまったんですよね。

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