No.28 山菜料理 出羽屋 4代目 佐藤治樹さん

Story No.28 山菜料理 出羽屋 4代目 佐藤治樹さん

「出羽屋を継ぐことは、僕が生まれてきた使命だと思っています」

佐藤治樹さんProfile
1988年生。西川町間沢出身。2014年で創業85周年を迎える「山菜料理 出羽屋」4代目。高校卒業後、大学進学のため東京へ。主に経営と観光を学んだ大学在学中、そして卒業後に通った1年間の料理専門学校在学中、学業の傍ら、ホテルや料亭、マネジメント会社、広告会社で働く。専門学校を卒業した2012年春、実家に戻ってくる。現在は、出羽屋の営業や調理、また自身も山に入って山菜を採ったりと、将来経営者となるための素養を高めている。   (写真:本人提供)

 ―――2012年春。大学卒業後に1年間通った料理の専門学校を卒業してすぐ、「手伝って欲しい」との要請があった実家へと戻ってきました。

僕にとっての出羽屋(ここ)の仕事
 今、月に1度くらいは東京へ営業に行くのを始めとして絶えず動き回っている僕には、出羽屋という会社の仕事と自分のプライベートが一緒になっているような感覚があるんです。例えば、会いたい人がいたら、仕事抜きで会いに行ったりというように。というのも、自分が会社をやっているつもりでいるし、「自分で何とかしなきゃ。そのためには、自分の足で稼がないと」という思いがありますから。
 だから、周りの人には言われたりするんです、「何でそこまでするの?無理しすぎじゃないの?」って。だけど、僕としては無理しているつもりなんて全然なくて。むしろ楽しくて仕方ないんですよ。
 仕事の性質上、一生現役でやらなきゃいけないと思っていますし、僕としても一生現役でいたいんです。僕にとって、出羽屋という会社は全てと言えば全てですから。

大学時代の僕
 ―――「大学を卒業し、しばらく働いてから、実家に戻ってこよう」そんな将来を描いていた高校時代。当時は小学校の頃からずっとやってきたバレーボールの部活に打ち込み、その合間を見つけて勉強するという毎日でした。そのおかげか、スポーツ推薦で大学に入れる話をもらったんです。だけど、自分が勉強したいこと(経営、観光)を優先したかった僕は、受験をして東京の大学(経営学部)へと進学しました。
 大学1年の終わり頃のある日のこと。「大学の授業では、学べることが少ないな」ふとそんなことを感じた僕は思い立ったんです。「ならば、学ぶところは自分で見つけよう」って。そうして、お客さんへのサービスなどといった自分にとって未知の分野を勉強しようと、大学に通う傍ら、ホテルにて働き始めました。
 時を同じくして芽生えてきていた、「このまま楽しいだけで大学4年間を過ごしてしまったら、自分は終わるんじゃないか」との思いは僕を焦らせましたね。それに加えて、僕が大学に通い始めた頃から体調が年々悪くなっていく祖父の姿を実家に帰る度に見るにつけて、焦りは深まるばかり。そんな焦りに駆り立てられていた僕は、それ以降も、マネジメントの会社で働く傍ら、料理についての実践的な部分を学ぼうと料亭で働いたりと、休みなしに動き回っていましたね。
そんな最中の2009年、僕が大学3年生の頃。祖父が亡くなりました。病気で体が衰弱していても、最後の最後までお客さんに対して笑顔で料理の説明をする。そんな姿を始めとして、「人としてかっこいい、直感的にすごい」との尊敬の念を抱いていた祖父の死は大きかったですね。両親は仕事で忙しかったし、一緒に過ごした時間は長かったですから。「もし、まだ祖父が生きていれば、また違った状況になっていたかもしれない。今のような気持ちにはならなかったかもしれない…」ふとそんなことを思ったりしますね。
 そんな風に、働きながら将来の出羽屋についてあれこれと思い巡らせていた頃、「とにかくトップに近い会社を見なさい。会社で選ぶな、仕事で選べ」というのが口グセだったとある社長さんは僕にこんな言葉をくれたんです。「君が何をしたいのかが一番重要だ。やりたいことをやれば、たとえ転職したとしても、どんな波でも越えていける」と。その言葉に祖父の死も相まって、「自分で答えを見つけ出さなくては。出羽屋で何をしたいのか、どういった会社にしていきたいのかを明確にしなければ」との思いは一層かき立てられましたね。
 それ以後も、日本のトップ企業の社長さんに会う機会があれば話を聞きに行ったりと、ひたすら動き回っていた僕。とにかく、出羽屋の後継であるという大前提がある中で、自分が出羽屋という会社をやる意義というか答えが欲しかったんです。後継だから帰るというような道の選び方だけはしたくなかったんですよね。
 会社を自分で作っていくためのスキルを磨くこと以外、頭にないくらいだった大学時代(専門学校の1年も含めて)、「どの部門に対しても指示が出せる」という自分の理想とする経営者像から逆算して、すべきだと思う行動をとっていた大学時代、新たな人生の舞台で出逢うものは僕を魅了し、成長させてくれましたね。

僕の原動力1  
 同学年内で唯一、無遅刻、無欠席だった大学4年間。(笑)平日は、朝から大学の授業に出て、前の席で授業を聞き、夕方は仕事に行って、家に帰ってからは、もやもやを抱きつつ「会社とは?」との問いに対するヒントのようなものをくれる『ハーバード・ビジネス・レビュー』などの本を読んで。そして土日は、1日仕事をして…。そんな繰り返しの中、焦る僕を尻目に日々は慌ただしく過ぎていきました――。スケジュールに空白を作りたくないがゆえに、時間の空いたところには必ずと言っていいほど仕事の予定を入れていましたから。というのも、何もしていない自分が不安で仕方なくなるんですよね。だけど、その不安や焦りは僕にとっての大きな原動力。そういう点でも、今の仕事は合っていると思うし、一生現役でいたいと思うんですよね。
 学生時代は(今も)、ほとんど休んだ覚えなんてないですから。厳密に言えば、学生時代は週1回“休み”を設け、食べ歩きをしていましたけどね。でもその時も「出羽屋」という存在が頭から消えることはなくて。何をしていても「出羽屋」と結びつけて考えてしまう自分がいましたね。
正直、休み方がわからないんです。(笑)だから、たとえフリーな時間があったとしても全然ゆっくりできない。生まれながらに休みのある環境を知らないからなんでしょうか(笑)。商売をやっている家だから土日は忙しいし、高校時代、土日もバレーをやって、かつ家のことをやったりしていましたしね。

僕の原動力
 僕が行っていた大学は育ちのいい人が多い大学だったから、お昼休みに外食へ出かける人たちが多かったんですね。そんな中、彼らを横目に、近くのパン屋で買ったフランスパンをかじりながらベンチに座って本を読んだりすることが多かった僕は、仲の良い友達と「いずれは、絶対ここにいるやつらよりも稼いでやる!」と、よく意気込んでいました。今でも、彼と会うとそのことは話題に上がりますから。(笑)とにかく、反骨心みたいなものは半端なく強かったんですよ。そういうのも原動力になっていたから、僕にとってはいい環境だったんですよね。
 やっぱり、僕には学歴とか学業成績という面で誇れるものがない以上、受け入れられたいのであれば結果で出すしかないんですよね。―――マネジメント会社で研修生として働いていた時。生まれて初めて身を置いた頭脳一本で勝負する世界で出逢ったのは、大学名を聞いて「なるほど」と納得させられる同僚たち。例えば、プレゼン資料を作るにしても、彼らが発揮するパフォーマンスは負けを認めざるを得ないもので。そこで負けじと対抗心を燃やしもがいていた中で、磨かれたものは大きいですね。例えば、それまではさほど積極的に自分を表現するタイプではなかった僕が、そこでの経験を通じて「一つの商品として自分を売っていこう」という割り切った考えを持てるようになりましたから。そこの会社での経験と祖父の死は、まだ短い人生の中でも最大の分岐点だと感じています。

今、僕に求められていること
 大学卒業後、料理の専門学校に通う傍ら、料亭で働くという1年間を過ごした僕が実家へと帰ってきてから、もうすぐで2年――。
 「山菜料理に特化して売っていこう」経営の多角化も一案として考えていた学生時代に、行きつ戻りつしながらも見出したそんなビジョンを持ち帰って来て、調理場に入り、山にも入り、それから山菜のプロである地元のおじいちゃんおばあちゃん宅にお邪魔をして話を聞き…。そうやって山菜に触れる中で、ようやく自分なりの答えというか方向性が少しずつ見えてきた気がするんです。
 今、両親(父親は経営者、母親は専務)からフォローしてもらいながらも、出羽屋という組織を統括していく役目をある程度委ねられています。出来るだけ早いうちに、いくらかは全体に指示を通せるレベルまで成長していかないといけないと思っていますね。――帰ってきてすぐの頃、ベテランの従業員の方に言われたんですよ。「指示してくれていいんだけど、「こうだ」という軸が欲しい。それがあれば、私たちは頑張るから」って。それを踏まえた今後の目標の一つは、独自の色を持つ会社を作り上げていくことですね。
 まだこの歳なのにも関わらず、そういうものを作っていかなければならないのは大変と言えば大変です。――例えば、新商品を作る場合。今はまだ、言葉や紙を通して社員さんたちに自分の意図を伝えないといけないんですね。だけど、いずれは言葉で発しなくとも伝わり、自ずと商品が出来上がっていくような関係性や確固たるコンセプトを築いていきたいんですよ。かつて、祖父がやっていたように――。
 だけど、大変さよりも楽しさの方がはるかに大きいんです。シーズンの時なんかは寝る暇もないくらい忙しいんだけど、やっぱり楽しい。だから、最近はたらればを考えなくなりましたね。昔は、「もし生まれ変わったら~」とかって考えることもありました。だけど今は、先が見たいというワクワクでいつも心が踊っているから、過去を気にしている暇なんてないんですよね。今やっていることの結果、つまり未来が見たくてしょうがなくて。今(1月時点)だと、もうすでに来年のことも考え始めていますから。
 正解なんてわからないけど、人生においてすごくいい経験をさせてもらっていると感じる今日この頃です。

出羽屋としてのプライド
 「山菜料理の発祥の店であり、山菜料理は日本一。他に類を見ない山菜が持つ素材の力(えぐみや香り、きどさ)をフルコースで味わえる」そこは譲れないというかプライドがあります、勝ち負けではないでしょうけど。だからこそ、北海道や沖縄といったところからお客様が足を運んでくれるんでしょうし。それに、ここでずっと受け継がれてきた食文化であるという点で、月山の山菜は伝統野菜に近いものがあるんじゃないでしょうか。いずれにしても、ここの山菜は一流だと思っています。
 そういうことをこれから山形県内の人々にとどまらず、日本の人々、そして海外の人々にも伝えていきたい。日本人だけが山菜を食べるわけじゃないはず。外国人も山菜を食べる時代は必ず訪れると、僕は思っていますから。端的に言えば、山菜という分野で最先端を走り続けるのが目標です。

僕の使命
 ―――「もし、お兄ちゃんがやらないなら、私が出羽屋を継ぐ」大学時代、妹からそう言われたことがありました。だけどやっぱり、長男としては妹に任せられないし、任せちゃいけないですよね。それに、自分一人だけ、家族だけの問題じゃないですからね。そういう責任感のようなものはあります。やっぱり、出羽屋を継ぐことは、僕が生まれてきた使命だと思っていますから。

 

[編集後記]
僕自身のことを省みても、不安や焦りに突き動かされているところは少なくない。
思いを語る若者(かれ)()の光が予感させる未来に、僕はワクワクしている。

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