No.34 わら細工職人 佐藤正冨さん

Story No.34 わら細工職人 佐藤正冨さん

「今は、幸せですね」

佐藤正冨さんbProfile
1935年生。大井沢出身、在住。中学卒業後、地元の製炭組合にて働き始める。その後、ゼンマイ採り、森林組合の作業員、冬期間の都市部への出稼ぎといった仕事を経験。現在は、中学時代にマスターしたわら細工の技術を活かし、わらじ、注連縄を始めとしたわら細工作りに励んでいる。他の得意技としては、草笛とユーモアに富んだジョーク。

 

私が子供だった頃
  ―――振り返れば、約70年前。戦争をまたいだ時代を私は小学生として過ごしました。あの当時、学校の先生はとにかく怖かったですね。授業中しゃべったり騒いだりしていると、急に振り返って手に持っていたチョークを投げられたり、廊下に立たされたりなんかはしょっちゅう。先生の手から放たれたチョークが喋っていた張本人に当たらずに、真面目に授業を受けている生徒に当たることもありました。いい迷惑ですよね。(笑)それから、送りビンタといって、先生からビンタを受けた生徒が別の生徒にビンタをし、その生徒がまた別の生徒にビンタをして…という叱り方なんかもありましたね。一度、一学級全員(約50人)の頬を叩いた女の先生が、「手が痛くなった」とこぼしていた時もありましたよ。当時はもちろんPTAなんてなかったし、皆先生に悪いことすると怒られて(殴られて)当たり前という考えでしたよね。
  とにかくおっかなかったですよね、先生という存在は。今は先生と生徒が友達のような関係を築いたりしているけれど、当時はそんなことありえなかったですから。むしろ話すことすら考えられなかったくらいで。たとえ女の先生であれ、先生である限りその人は私たち子どもにとって絶対的な存在でした。「先生様」と言われたように、先生=偉い人だという刷り込みはありましたよね。
  そんな当時、学校の先生や教科書が小学生の私(たち)に教えてくれたのは、戦争に行く、行って死ぬのは名誉なことだということ。「天皇陛下、万歳。名誉の戦死だ」と言われていましたからね。だから、出征する兵士が村を発つ前に残してゆく「必ず勝って参ります!」との言葉なんかは格好良く聞こえて、学校では一時期流行語になっていたんです。そんな風に「帰ってきてはダメだ。死んでこい」と送り出されたくらいだから、体が弱いという理由で戦地に赴けなかった人は恥ずかしくて村に戻って来られないくらいだったんじゃないでしょうか。
   戦争では日本が勝ったという話ばかり聞かされていた中、その日はやって来たんです。1945年8月15日。日本が戦争に負けたことを耳にするやいなや「何?負けたのか?」と家の戸につかまってガタガタ震え始めた婆ちゃんの姿は、今でも私の脳裏から消え去ることのない光景の一つ。「日本は神の国だから絶対負けねぇ」と信じきっていた皆にとって、日本が戦争に負けたという事実はまさに青天の霹靂だったんでしょうね。

私を動かしていたもの
 「もう勉強をしなくて済むんだ」中学校を卒業する時、私の心の中に広がっていたのはそんな思いでした。学校で教わる内容を理解できなかった私には、正直授業はつまらなかったんです。だから、卒業後に訪れるであろう勉強をしなくていい日々が待ち遠しくて仕方なかったんですよね。
   そんな思いを抱きながら大人に混じって炭焼き仕事を始めた私でしたが…。勉強から解放されたは良いものの、大人の中に混じって仕事をするのも大変でしたよね。仕事のやり方とか順序とかを身につけるまでは特に。だけどそうやって苦労してこそ、仕事がきちんと身について一人前になれた。だから、炭焼き仕事に関しては自信がありますね。
   私が中学生だった頃は、学校で過ごす時間以外は当たり前のように親の仕事の手伝いをしたり、自分で履くわらじ作りをしていました。わらじは決して頑丈ではないから、概ね3日ほど履くと鼻緒がちぎれるなりして使い物にならなくなってしまう。だから、一年分のわらじを作り置きするのは重要な冬仕事だったんですよね。
   わらじ作りの世界では、一日あたり15足作れるかどうかは一つの登竜門だったんです。要するに、それができないと一人前だとは認められなかった。私の場合、それができるようになったのは作り始めて2年目くらいのこと。その時、父親が「よくやったな」と褒めてくれたことは未だに覚えているんですよ。というのも、早く「15足作ったぞ」と言えるようになりたいとの一心でそれまでずっと頑張っていましたから。「褒められるだけのことを自分はやってきたんだ」というような自負はありましたよね。実際、1日に15足作るというのはほんとに大変なんです。まずは材料となる藁をそろえて、縄をなうといった下ごしらえをしないといけない。そして、冬の寒い中をストーブなんて無い当時、素足でだいたい8時間、ほぼ休みなしでやり続けるわけですから。
そんな風にわらじを作っていたのは、結局5年ほどだったでしょうか。終戦後間もなく、ゴム靴や地下足袋といったものが出回ってくると共にわらじを作らなくなった(作る必要がなくなった)んですよね。それから数十年のブランクをおいて、久方ぶりに作ったのが3年前のこと。それでもきっと、手が覚えていたんでしょう。大して苦もなく作れたんですよね。・・・やっぱり、それだけ数をこなしたんですよ。
   そんなわらじ作りを始めとして、全ての仕事において“一丁前の条件”というのがあったんです。例えば柴刈りなら1日25束以上、稲刈りなら1日100束以上作れないといけないというように。そんな中、「早く一人前になりたい」という思いを大きな原動力とし、他の人と競い合いながら仕事をしていましたね。
   そういうのは、これと決めればそれをマスターするまで頑張るというところが私にはあるからなのかもしれません。―――約60年前。16の時に、山師をしていたある人から教えてもらった草笛にしてもそうですから。一度やり方を教わってからは、山道を歩く時には必ず葉っぱをとって吹いてみたりというように、時間を見つけては草笛の練習をしているという私がいたんですよね。

今、思うこと
 今のようにバスで学校に通学するなんて考えられなかったですよね、私が小学生だった頃は。夏にせよ冬にせよ、毎日学校まで約2キロの道を歩いて通っていましたから。冬は毎朝、夜のうちに降り積もった新雪の上を、道踏みをしながら先導してくれる大人の後をついてかんじきで漕ぎながら学校まで通っていたんです。それから、1軒あたり裸電球1個しかつけてはいけないことになっていた当時、盗み電気といってこっそり2つ以上使っているのを電気屋に見つかって怒られたり。戦争が佳境に入っていた時期には、畑へと変貌した学校の校庭で作った作物はみな兵隊さんにとられてしまったり…。
  ほんとは子どもの頃、もっと親と色んなところに行きたかった。そういう意味では、今の人たちが羨ましいというか。まぁ、時代が時代だったんでしょうけどね。思い出すのは・・・、真夏の暑い中、サウナなんて目じゃないほどに熱い炭焼き小屋にて、尋常ではない量の汗を流しながら仕事をしていた親父。そして、着ていた白と黒のボーダーシャツに、吹いた塩でオーストラリアの地図を描き出していた親父の背中。降った雨がそのシャツを濡らすと、何とも言えない汗の臭いがプーンと漂ってきてねぇ。その汗の臭いが親父の匂いだと思っていましたから。
  そんな風に、昔は苦労しましたよ。だけど、そういった苦労を知らないと、幸せってこともわからないんじゃないかな。例えば美味しいご飯を食べたとしても、もっと美味いご飯あるんじゃないかって思うから満たされないんじゃないかなって思うんです。私(たち)の場合、そんな風に苦労した昔があるから、素直に「あ~、うまいな~」と思える。
  今は昔と違って、年金は貰えるし、道路に関してはどれだけ雪が降っても除雪してくれる。そして15時になると江戸の旋風が見られて、16時になると水戸黄門、18時になると遠山の金さんが見られる。ほんと、殿様暮らしですよね。今、ここで過ごしているだけで幸せですから。

 

[編集後記]
同じ時を生きる今に正冨さんが感じる幸せの深みに、僕は到底たどり着けないだろう。

 

記事公開:2013-03-27

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