No.36 西山窯 桑原洋子さん

Story No.36 西山窯 桑原洋子さん

「作家・桑原西山(せいざん)
の生き様に、吸い込まれるような人生でした」


西山窯Profile
1949年生。山形県高畠町出身。西川町睦合在住。1975年、作家・桑原西山(常吉)と結婚。結婚後間もないうちに作家としての西山の生き様に魅せられてからは、妻という立場を越え、作家・西山の一ファンとして作品の良さを伝え続け、今に至る。

 

 

私が出逢った作家たち
 これは、私がまだ生まれていない頃のこと。新潟県で生まれ育った義理の父である春吉は、戦前、食うために窯元に入って修行をし始めたと聞きました。その後、陶器の命となる土を探し求めていた旅の最中で出逢った西山の土に惚れ込み、この場所に窯を作ったのが1951年のことだとか。何代も続いてきたという土台の上でやるのが一般的な陶芸の世界に身を投じたことに始まり、雪が多く冬は焼けない、つまりは冬の間じっと耐えねばならないという環境の不利なんぞものともせずにこの土地に根を下ろし、「ただ美しいものを残したい。自分が死んでも作品は残るわけだから」という思いを抱きながら淡々と生きて、淡々と亡くなった春吉はすごい人でしたね。
 夫である西山(常吉)は、父と同じく作家として、一方でまるっきり別分野の作家として作陶を続けてきました。―――10代の頃は、寝袋を背負って漆工芸作家など多様な分野の作家の所を回り、まだ東北芸工大のなかった時代、県で選ばれた研修生として陶芸を学んでいたそうです。そういったものに、それまでずっと描いていた油絵を総合して独自の表現の道を切り拓いてきたんです。実際、若い頃は今のように食器を作らず、オブジェばかり作っていましたから。2代目という形にはなるけれど、彼自身も言うように「何代目だからとかは関係ない」んですよ。彼はあくまでも桑原西山という一人の作家なんです。
 電話一本でいい塩梅に精製された土が真空パックに詰められて自宅へと送られてくる今。そして、色んな種類の土をブレンドして作陶することが当たり前となっている今。そんな今だけれども、西山はただ一つ西山の土だけにこだわり作陶を続けているんです。まずは土を求めて山野を彷徨い歩くことから始まり、焼成する段階では、マサカリで割ったアカマツの薪を暴れ窯という激しい窯に入れ、自分のまなこで温度を確認しながら三日三晩一睡もせずにつきっきりで窯の側で様子を見守る。そうして燃え続けた火が止まってから、張り詰めた糸が突然切れたかのようにしばらく茫然とした時を過ごしたのち、期待とそれ以上に大きな不安とを抱きながら窯を開けて作品を確かめる。ほんとにどんなものが出てくるかはその時になってみないとわからない…。だから、モノとしての便利性は全くないわけです。登り窯の特性上、絶対に同じものは作れない。全てが一品ものだから、いくらファンの方から「同じものを欲しい」と言われても断っているんですよ。大量生産もできないですしね。―――かつて、東京の大手デパートの本店で西山の作品を販売したことがありました。ここで売る値段の五倍、十倍で販売したにも関わらず、間もないうちに完売。当然向こうは商売だから「また出してくれ」と来たけれど、「そういうものではない」とお断りしたんです。こちらとしては登り窯で年に何回かしか焼けないわけだから、商売ベースでは到底考えられないんですよね。要は時代のニーズに全く合わない仕事をやっている。言い換えれば、時代にもお客さんにも一切迎合はしない仕事をやっているんですよ。
 とは言え、薪も調達しないといけないし、何より食べていかないといけない。―――「例えばガス釜を置くなどして大量に作品を出せるようにすれば、生活も楽になる」私の脳裏にそんな思いがよぎることもありました。実際、もっと楽なやり方は他にあるはずなんです。けれども、当の本人の頭の中にはそんなことはこれっぽっちもないわけですよ。楽しようとかお金を儲けようとかっていう考えは微塵もない。自分が納得のいくものを作りたい、美しいものを作りたい。ただそれだけ。
 ほんとに無欲なんです。人間って普通は欲があるじゃないですか。おいしいものを食べたいとか遊びに行きたいとか。そんな風に色んな場面で心がさらわれたり揺らいだりすることはあってもおかしくないと思うんです。けれど、ついぞそんな場面に出逢うことはなかった。それに、「こんな風に作っているんだ」というように世間に自分を売り出すようなことも全然ないですしね。西山の思いはただ一筋。「あくまでも西山の土を愛し、土にこだわり、土の美しさをどこまで表現できるかを追求していく」という一心のみ。そんな思いを心に秘めながら、山の中で冬の雪の厳しさに耐えながらも作陶に打ち込んできた西山。誰に褒められようと誰に貶されようとも構わず、淡々とそして黙々と自分の道に徹してきた、崩さなかった西山。「まだまだ途上なのだ。死ぬまで今からだ」と、本人も口にしていますしね。そんな彼の姿に対して抱いた凄いな、凄まじいなとの思いは、今でも変わらず私の中に湧き起こってきますから。

傍らにいた私
 あれは、昭和62年(1987年)のことでした。とある縁でドイツ人の早稲田大学の教授が、西山の作品を見にここへとやって来たんです。その時、作品の素晴らしさに感激した彼は「是非ドイツの人に見せたい。場所はこちらで準備するから」というオファーをしてきました。けれども、西山はその話には一切乗りませんでした。というのも、展示できるほどの作品の数がないから。それでも最終的には彼の誘いに乗り1991年から93年まで、ドイツの芸術アカデミーの招待により、現地で個展を開催しました。蓋を開けてみれば、びっくり。開催期間中には世界各国のギャラリーのオーナーも足を運んでいて、「イギリスでしてほしい」「ニューヨークでしてほしい」という申し出も頂いたんです。
 そんな矢先の1998年。西山は大事故に遭いました。その事故の直後は口も聞けず、やせ細り座っているのさえ困難な状態でした。作家活動をすることはおろか、もはや一生作家として生を送っていくことはできないくらいの状態にまで陥っていました。それに連なって家の中もガタガタになるなど、ショックは大きかったし試練の連続でした・・・。外国での個展開催の話も断らざるを得なくなりましたしね。
 その後しばらくして、声楽家の方がここを訪れたことがありました。そして西山の作品を一目見た彼はこう告げたんです「素晴らしい。何とか東京にある僕のギャラリーで展示させてほしい。一切、費用も何もいりませんから」と。けれど、西山の姿を見て察したんでしょう。天井やガラス窓が割れるようなものすごいバリトンの声で、彼は歌い始めたんです。頑張れ~という励ましの意味を込めて。私は胸が熱くなり、ただただ膨大な涙を流すだけでした。その後も再三説得においでになったけれど、車も運転できない状態だったから東京には行けない。その後ようやっとの思いで新幹線に乗って行ったものの、降りた東京駅のホームでは震えてしまって歩けなかった・・・。そんな時期を経た2009年、ついに東京で個展を行うことができたんです。まぁでも、不思議ですよね。その時にも、「毎年してほしい」「ニューヨーク、スペイン、イタリアで個展をするべきだ。みんな応援するから」というような声をもらえましたから。
 これまで間近でそういう光景を目にしてきたからこそつくづく感じるんですよ、自分がこの道で行くって決めてそれを貫いたならば、必ず守ってくれる人がいるんだな、出逢えるんだなって。少なくとも私はそう信じられる。・・・きっと彼が果たさねばならない使命がまだあったんでしょうね。事故以前にも何度か病気に苦しまされることもあったけれど、それありきの今がある。そういった時を過ごしてきて私は思うんですよ「悲しみとか苦しみとかがないと人は大きくなれないんじゃないか。むしろそういうことがないと人は駄目になるんじゃないか」って。実際、彼の作品はそれを証明していますから。例えば事故後再び作陶できるようになってからの作品は、事故以前の作品とは違うんですよね。生と死の境目を彷徨うほどの状況に身を置いたからこそ変わったものがあった。私は作り手じゃないから言うんですけど、やっぱり作り手の考えていることや心というのは全て作品に表れてしまうんですよね、恐ろしいことに。若い頃からずっと傍で見てきたからこそ、そう思いますね。

私を変えたひと
 「おれは世界に行くんだ」私がこの家に嫁いでから2、3日後くらいだったでしょうか。夫から告げられたのはそんな衝撃的な一言でした。その時は「え?こんな山の中から世界へ?」と全く理解が追いつかなかったものの、その後自分なりに彼の思いを消化した私は、彼が世界に行けるように、そして彼の作品が世界に広まるように出来る限りのことをしようと心に決めましたね。その時すでに、姑にあたる彼の母はこの世を去っていたから、その役を担えるのは私しかいなかった。以来約40年。ずっと西山、春吉のファンの方々の接待を仕事として生きてきました。
 それにしても西山や春吉のような作家が抱く思いや生き様というものとは無縁な世界を生きてきた私にとって、彼らはまさに別世界の住人でした。あ、こういう人って実在するんだ、って思わされましたから。
 実際、美を追求する西山の思いは作品へ向かうだけにはとどまらなかった。例えば、紙にデッサンをしている時、その出来が気に入らないものであれば、その紙を周囲に放り投げる。それを私が片付けようとすると、「待て。投げて落ちたさまが美しいのだからそのままにしておいてくれ」と制する。またある時は、花入れに飾った花の花びらが畳の上に散り、それを拾おうとした私に「ちょっと待て。そのままの姿が美しいのだ」と制する。そしてまたある時は、秋も深まった時期に、家の近くに植わっている50本のもみじが地に落とした紅に染めた葉を竹箒で掃こうとした私に「ちょっと待て」と…。おかげで私はこの場所で大自然の美しさを心の中、生命の中に刻むことができた。―――小さい頃から絵が好きで、画家というあだ名をつけられていた常吉の将来の夢は画家になることだったそうです。そしてすごく繊細な心を持っている彼は、眺めた月や星、愛でた大自然の美しさを詩で表現したりしていたとか。きっと、彼の役目としてあるんでしょうね。生命ある限り美を表現していくというものが。
 そんな彼の世界観や生き様は私の真っ白な心にすんなりと入ってきました。それからここで過ごす中で、自分自身に少しずつ色を塗ってきたんだと思います。―――小さい頃の私は、みんなと遊ぶことよりもひとりで静かに過ごすことが好き。例えば習っていた書をやる時にも、なぜか墨をすってその香りを楽しむことが好きな少女でした。書と並行して日本舞踊もやっていたから、結婚以前は日本舞踊の世界で生きていこうと思っていたんです。ここにずっといられたのは恐らく、元来そういう分野において自分なりに思う美しさを表現していくことに興味があったから、要は創造の世界に足を踏み入れていたから。そして私が何かの色を持たずに真っ白なままでいたからこそだと思うんです。逆にそうじゃなければ、きっと今ここにはいなかった。
 若い頃は、いわゆる一般的な感覚で「コーヒーでも行かない?」と誘ったこともありました。だけど夫は「いや、いい」と返してくる。そんな夫が夜中の3時とか4時ころに強さと激しさを醸し出しながらろくろを回している姿や、子どもたちをも近づけさせなかった鬼気迫るような作陶に取り掛かる姿を目にしているうちに、「望むからどうのこうの思うんだ。望まなければいいんだ」と自然に思えるようになったんですよ。実際、作陶に取り掛かる時の夫はすごいんです。何度、特別な世界に来てしまった、と思わされたかわからないですから。

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