#38 玉谷製麺所 代表取締役 玉谷貴子さん

玉谷貴子さん#38 玉谷製麺所 代表取締役 玉谷貴子さん

「人に喜ばれることをしたい。私の根底にあるその思いは揺るがないんですよね」

Profile
新潟県出身。西川町睦合在住。岩手大学農学部卒業後、新潟の菓子製造会社に就職。1年後結婚、西川町に嫁いでくる。今は子育ての傍ら、2代目の義父が社長を務める玉谷製麺所(1949年創業)にて品質管理・企画開発部門で働きながら、クラゲマイスターとして鶴岡市にある加茂水族館でボランティアガイドを務めるなど活発に動き回っている。フードアナリストなど多数の資格を持つ。双子の母。

記事公開:2013-5-15

 

私を変えたもの
 結婚すると同時に西川町で暮らし始めて11年――。双子の子供たちも小学校に入り、子育てが落ち着いたというのもあり、今では玉谷製麺所では新商品の開発や商品のパッケージングのデザインをしたり、クラゲマイスターとして加茂水族館でボランティアガイドをしたりとアクティブに活動しています。
 そんな風に私が変わった一番のきっかけは、2年前に起こった東日本大震災でした――。被災に遭った岩手や宮城、福島には大学時代の恩師や友達がたくさんいました。幸い亡くなった人はいなかったけれど、気仙沼の避難所で孤立した400人の中に友達がいたんです。その彼女とはなかなか連絡が繋がらず気を揉んでいた中でようやく連絡がとれたのは1週間後のこと。私の携帯を鳴らしたのは、彼女からの「生きてるだけで良かった」とのメールでした。きっと本心から出たのであろうその言葉は、私にとって大きかった。そういう彼女の立場や自分の立場を考えていた時に芽生えてきたのは「生きていること自体が素晴らしい。生きていることを楽しんでいかなきゃいけない。人を喜ばせることが楽しいんだったら、それをしていかなきゃ。動かなきゃ」との思いでした。それから約2年――。私の意識を外に向けて、アクティブに動かしてくれるようになったのは、良くも悪くも震災だったんですよね。
 私の仕事柄、私生活と仕事の区切りがすごく曖昧なんです。例えば、家で料理を作っていても美味しいものはないかと日々探しながら考えている。中学、高校の頃からむしろ休みがあると苦痛で、家でじっとしているのが嫌だったし、今でも家の中にいると落ち着かなくて、色んなところを掃除してみたりというように動いてしまうんですよ。そういう私の性分のようなものが私のアクティブさを後押ししているのかもしれません。

子供の頃から変わらないもの
 私が小学校4年生の時のこと―――。当時30代半ばだった父は主に食肉を取り扱う食品会社を立ち上げました。仕事は忙しそうで、連休や学校の休み期間になると仕事を手伝っていました。朝から晩まで働いていたし、例えばしっかり衛生管理した状態でお客さんの所に届く製品を作るというように社員のような形で仕事をしていましたね。
 そうやって何年も親の手伝いをしていて高校に入ってからやっと教えてもらったのが、難度の高い仕事である牛カルビ肉を二つに割って、スジの部位を削ぐ方法でした。それが嬉しかった私は、後年、就職活動をする時にも履歴書の特技欄に書きましたから「カルビ肉を~」って。(笑)大学に行って実家を離れても、実家に帰ってきた時は仕事を手伝うというスタンスは変わらなかったですしね。そういう関わりをずっと続けていたのは、やっぱりその仕事が楽しかったから。縛られているという感覚はなく、好きでやらせてもらっているという感覚でしたからね。私がやりたいという意志を尊重して、親が「手伝っていいよ」と言ってくれることがすごく嬉しくて。大人と一緒にできる、任されることの喜びがあったんでしょうね。
 そんな風に子供時代に味わってきた喜びを、きっと今でも追い求めているんです。今いるところでは切り拓いていくような仕事もあるけれど、人から頼まれてやる仕事の方が多いんですね。例えば、商品のパッケージのデザインとか。そういう仕事をやる中で、人の期待に応えることの喜びがある。いや、人が喜んでくれてやっと自分が満足できるんです。だから私としては「どんどん仕事ちょうだい」という感覚なんですよ。使ってもらってナンボですしね。
 その経験は、私が子育てする上でも生きています。つい先日小学校に入った二人の子も、最近みずから手伝いをすると言ってくれて、それができるようになっているんです。私としても、安心して任せたという風にできている。そこは放任というか遠くから見ているようにして、怪我したら怪我したでもいいから「まずやってみろ」という接し方はしているんですね。というのも、そもそも私自身諦めることが嫌いだから。そして経験則で止める、要するに親がやって駄目だから子がやって駄目だということはないと思うからなんですよ。私の親もそういう風に私に接してくれたし、さらに私が困っている時には「~はどうだ」というような提案を投げかけてくれましたからね。“何でもやってみないとわからない。失敗してもいい、次があるから。失敗したら考える”というのが、私の親としての教育方針であり、私の人生の中での重要なテーマでもあるんです。やっぱり可能性はゼロじゃないし、いくらでも自分の力で切り拓いていけると思いますから。可能性を見失わなければおそらく、チャンスをつかめる。なぜなら、チャンスをチャンスだと思った人だけがつかめると思う・・・というのは、「チャンスをチャンスとして見逃さないように。それがこれからの君たちの課題だよ」という大学の卒業式の時に学長が言った言葉であって、その言葉が響いた私はそれ以来心に留めているんです。

親の背中
 全国各地に支社を持つ食品会社で働いていた父は、転勤の内示をもらった時に決断したそうです。引越しが続き、学校を転々としなければならなくなると、子供たちは落ち着かなくなる。ならば自分が会社を辞めて地元で起業しようと。
 当時から約20年――。50人以上の社員を抱える会社へと成長させた父、自分のためにではなく家族を生かすために仕事をやってきたのであろう父には頭が上がらないんです。そういう父の背中を見ているから、お客さんに喜んでもらう一方で、社員に対しても責任があるという考え方は自分の中にもあるんですよ。「仕事をするなら、命を懸けて楽しくやれ」との言葉をくれた父は、自分の父親ながらにかっこいいと思います。実際、ほんとに命がかかっていますから。コケたらほんとに命が飛ぶくらいの勢いですからね。
 思い返せば、忙しく働く両親のもとで何不自由なく過ごすという子供時代でした。ただ親が仕事において苦労していることは感づいていた10歳の私の中に芽生えてきた「お父さんの力になりたい」との思いが原点なのかもしれません。「そういう状況で自分は何ができるのか?」そんな問いかけが今につながっているような気がします。
 やっぱり、親の影響は大きいですよね。父、母の立ち位置っていうのは、今でも私の中にありますから。

揺るがない根っこ
「生きているからには、自分を最大限生かせる仕事をしたい」――大学生の頃からそんな思いを抱くようになった私が当時描いた将来の夢は、研究者として身を立てていくことでした。なぜなら、名を残したいという思いがあったから。例えば論文ならば、たとえ一枚のペーパーでも名は残せるじゃないですか。それが他の論文に引用されれば、さらにその次の論文にも残るわけで。死んだ後も名が残りますしね。さらに、当時インターフェロンをテーマとする研究室には、手本となる偉大な先生もいましたから。それが当時の私が考える、生きた証であり存在意義だったんですよ。最近になって、たぶん存在意義っていうのは後からついてくるんだろう、考えるよりも目の前のことをまずやってみて結果や存在意義は後からついてくるんだろうと思い始めましたけれども。
 そんな私がなぜか、地元新潟の菓子メーカーに就職したんです。・・・まぁでも、社会に出て振り返ってみれば、大学の研究室という場所はすごく異質な世界だったと実感しましたね。実験データの取り合いをする激しい競争社会でしたから。恐ろしいですよね。(笑)例えば実験の結果、条件を見つけたとしても、誰かにそれを持っていかれてしまうこともある。まさに弱肉強食の世界で、しかも普通の社会とは違う世界。それを考えると、今、食に携わることができて、実際にお客さんが喜んでくれていることが見えているというのは自分に合っていると思いますね。やっぱり、当時は追い詰められていましたから、来る日も来る日も実験をし、結果がでないとどうしようもないというシビアな世界で。それはそれで楽しかったけれど、その世界でずっと生きていたら間違いなく今の自分はなかった。もっと厳しい顔をしていたかもしれません。准教授になっている先輩も言っていましたから「全て綱渡りの世界だ」って。努力以上に運が大きく左右する世界に身を置いて研究を追い求める中で、たまたま発見ができればそれが論文になるけれど、発見できなければただの実験屋さんでしかない。研究職にもなれず、ただ使って捨てられるだけという未来が待っている…。私はそこまでリスキーな選択をできませんでした。ちょうど親も止めてくれましたしね。(笑)
 実際、その会社で働けたことはすごく良かった。そもそも、その会社で始まった私の社会人生活は最高のスタートを切りましたから。というのも、新人研修の際に工場長から言われたんですよ「人間、一日二十四時間しかない。一日8時間働くというのは、人生の1/3の時間仕事に従事しているということなんだから、楽しまなきゃ損だよ」って。その時、この会社に来て良かったと思いましたもの。その言葉を受けて、苦しいことがあっても、それを楽しいと思えるようにならなきゃ駄目だな、楽しんだもの勝ちだろうと思えるようになったんですよね。
 その会社はほんと雰囲気が良く、先輩にも恵まれたし、いい時間を過ごせましたね。今でも先輩から「帰っておいでよ」と言われるくらいですから。そんな中、結婚すると同時に会社を辞めて西川町に暮らすようになったのが、社会人2年目のことでした。
 それから11年――。ここで日々を過ごす今の私の夢は、「玉谷製麺所」の名を世界に轟かせること。従業員は20人ほどの会社だけど、月山を味方につけて日本や世界を相手に勝負してみたい。ここに根を下ろす“樹”でありながら、“風”になりたいんです。そして、世界の人々にうちのそばを食べたことをきっかけとして、海を渡って日本であり西川町に足を運んでもらいたい。4代目、5代目へと襷をつないでいきたいんです。これはあくまでも私個人の野心ではあるけれど、夢を大きくもってやれることをやっていきたいですね。
 振り返ってみれば、苦しいこととか失敗したんじゃないかと後悔したこともたくさんありました。ここに来て失敗したんじゃないかと思ったことも多々ありました。でも、総括的に考えれば今いる自分というのは悪くない。きっと無駄なことはなかったはずだし、今ここにいて良かったんじゃないかと思っています。――まだ若い時分、西川町のことなんてほとんど知らないままここで暮らすようになった私は、もしかしたら自分の居場所を作るためにこれまで頑張ってきたのかもしれません。だから、ここで生まれ育った人たちが気づけないことに自分は気づけることが、意外と強みになるんじゃないかと気づいたときは嬉しかった。 やっぱり人の役に立てることが一番で、それでこそ私は存在意義を感じられますから。
 高校の頃の私は、医者を目指した時がありました。だけど、なんだかんだ研究職に就きたいと岩手大学の農学部に入ったものの、なぜか今、食に関する仕事やボランティアガイドという仕事をしているんです。夢や理想は時と共に変わってきたけれど、食という分野にはずっと携わってきているし、医者という職業を目指したのもやっぱり“人に喜ばれる職業”というキーワードが頭にあったから。当時の私も、喜ばれることに対してだったら力を注げるというような状態でしたからね。今は、食で言えば人が健康になってくれたらいいな、クラゲで言えばクラゲを見て心を癒してくれたらいいなという思いがある。要は、人を喜ばせられるような立ち位置に立てていると思うんですよ。だけどやっぱりそれが出来ているのは、社長であり上司の方が私を生かしてくれているから。ただの嫁ではなく、今みたいに働かせてもらったり、色んなことをさせてもらったりしていることは恵まれているなと思っています。
 10歳の私の心に芽生えた「お父さんの力になりたい」という思いを出発点に、20年以上の時を経た今「人を喜ばせたい」という思いを抱いている私がいるんです。やっぱり自分自身のコアとなるものというか、根底は揺るがないところです。

 

[編集後記]
今、僕の目には20年後も30年後も“変わらない”玉谷さんの姿が浮かんでいる。

 

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