#39 山形新聞村山販売所 所長 佐藤晴一さん

佐藤晴一さん#39 山形新聞村山販売所 所長 佐藤晴一さん

「とにかく、人には恵まれているんですよね」

Profile
1968年生。西川町間沢出身。21歳の時より、町の第3セクターである西川町総合開発株式会社(以降、NSK)の前身・水源地域管理公社で働き始める。23歳の時より、月山湖売店店長となり、売上げを大きく伸ばす。2009年、41歳でNSKを退職。同年4月より、山形新聞西川販売所所長として働き始める。2013年4月に異動。現在は、単身赴任で村山販売所所長として働いている。3人の子の父。

記事公開:2013-6-5

 

良き出逢い1
 思い返せば今から約四半世紀前――。当時20代そこそこだった私が、NSKの前身の会社にて働き始めたのが1989年のことでした。
 楽しすぎた中学時代が終わり、燃え尽き症候群のような状態で日々を過ごしていた高校時代に私が描いた卒業後のビジョンは、とりあえず東京に行くことでした。けれどいざ西川を離れる時にはさも東京で一旗揚げるかのような見送られ方をし、別れの際には感傷にひたってまでいてねぇ。内心ではいずれは地元に帰るんだろうなというふうに勝負もしないうちに逃げ腰になっている自分がいましたけど。だから特に目的もなく入った専門学校は2ヶ月ほどで辞め、その後数年間はアルバイトで生計を立てながら日々を過ごしていたんです。そんな自分と家を継ぐなり、会社に入るなり早々に道を定めていた同級生たちと対比しては芽生えてくる焦りにかられた私は今のままではマズイなと数年ぶりに地元の土を踏んだんですよね。まぁそんな状態だったにもかかわらず地元にいた親父が「息子はどうしてるんだ?」と問われた際に「社会勉強をしている」と答えていると耳にした時は救われましたけど。
 そうして社会人になったものの甘い考えを捨てきれないまま仕事をしていた中経験した佐藤さん(当時・大井沢特産組合長)や阿部さん(月山湖レストラン店長)との出逢いは私を変えてくれたんです――。そこで民間、要は商売の経験をしていたのは、その二人だけ。第3セクターという類の会社が持つ町からの出資ありきといった体質の中において、二人が当初よりいい意味での手厳しい指導で商売の何たるやを教えてくれたのは大きかった。おかげでそれまで何の目標もなかった男がサービス業に目覚めましたから。
 仕事は大変なんだけれども、面白くてねぇ。慣れていくにつれ、周りのパートさんによる紹介のおかげもあって、お得意様がたくさんできましたから、自分で言うのも何ですけど。(笑)そんな風に人と人とのつながりがどんどん波及していく過程で生まれてきた“○○の商品を買いに来る”というよりは“道のりは遠けれど佐藤さんから買いに来る”という流れはおもしろくて。そのうち自ずとこの仕事は自分に合っているんだろうなとの思いを抱くようになりましたから。とは言え、そういう風に考えられるようになったのも30を過ぎてからのこと。それまでは、盆休みなどに帰省し店に立ち寄った同級生や後輩に休みのないサービス業に従事している店員の私を見られることが恥ずかしくて。その恥ずかしさがやりがいや自信に変わってゆくまでにはそれなりの時間を要しましたよね。
 そうして見出した喜びを追いかけながら日々を過ごしていた私の中に、にわかに芽生えてきたのは40歳になったら自分の会社あるいは店を持ちたいという夢だったんです。それは他の人たちがやりたいことを見つけるであろう学生時代がとうに過ぎてからの出来事でした――。具体的に何を売るかまでは決めておらず漠然とした夢だったけれど、何を売るにせよ人から買うという形にはしたかったんです。それに伴って始めたのが、夢ノート。今考えると馬鹿馬鹿しいんだけれど、やりたいことや欲しいもの、好きな言葉などを逐一書き留めるようになったんですよね。

良き出逢い 2
 そんな時に出逢ったのが、横山皓一さんでした。「自分の人生の羅針盤となるような人だろう」出逢ってまもないうちにそう感じた横山さんと並び、私の人生に大きな影響を与えてくれたのは売店のお客さんだった上山のクマさん(酒井さん)でした。大工さんでもあり庭師でもあり、何と言うか人生の楽しみを知っているように感じるクマさんは、ある時私にこう言ってくれたんです「あなたは今たぶん山形県で5番目に挨拶上手だから、一番になれるように努力しろ。それだけで十分だ」って。ほんとしゃべっているだけでもいいとすら感じさせてくれるクマさんは、その他にもいつも傍に置いておきたくなるような言葉をたくさんくれましたから。生きていく上での”心”の部分を教えてもらったと言うかなぁ。例えば「想像することって大切なんだよ。楽しくなるし、タダだしね」とか「あなたのことを大好きな人が50人いるとしたら、50人はあなたのことを大嫌いだと思った方がいい」とか。そんな二人を代表して仕事をする中で色んな人に出逢えたことはものすごく大きかった。何と言うか、自分がだんだん豊かになってきていることを実感できましたから。
 そんな折のこと――。私がその後働くことになる西川新聞店の店長が異動するに当たって後釜を探していたそうです。その時、偶然にも店長の知り合いで私のことを「感じがいい」と評価してくれていた常連さんが私を紹介してくれたんです。だけど決断を下すタイムリミットは1週間。迷わず私は相談を持ちかけるべく横山さんとクマさんの下を訪れました。横山さんの答えはこうでした。「絶対成功するから新聞屋になった方がいい。人間には商品が残ったらどうしようと考える人間と、まずやってみて残ったら残ったで考えようとする人間と2パターンある。後者の方が必ずうまくいくし、あなたはそのタイプだから」そしてクマさんの答えはこうでした。「もう少しゆっくり動いて、仕事だけじゃなく、家族との時間や趣味の時間を持った方がいい。何にせよ新聞屋は合うと思うよ」と。そんな二人に加えて、私史上最高の時間を過ごした中学時代の同級生たちや家族、さらには常連さんやお得意様からも反対の言葉がないどころか「絶対うまくいくから応援している」という声ばかり。思いもよらぬ強い追い風を味方につけた私は最高の状態で新たな世界へと飛び立つことができたんです。・・・実はその時41歳。1年ほど前に40歳の誕生日を迎え、10年前に掲げた夢を実現させようにもチャンスがやって来る気配はなく、どうやってチャンスを掴もうか悩んでいた矢先、新聞屋という予想だにしない形で夢は現実となったんですよね。夢ノートの存在は記憶の彼方に追いやられてしまっていましたが。(笑)
 まぁNSKでの仕事にジレンマを感じていたというのが会社を辞める一つのきっかけとなったことは事実なんです。――年齢も重ね、NSKの営業課長になるという事実上の昇進をしたのが2003年頃のこと。そこで働くようになると色々あってね。今思えば、体質を変えようとしても難しかったのかなと。だけど「嫌だから辞める」という選択だけは絶対にしたくなかった。なぜなら次どこに行ったとしても成功しないから。そんな中、自分なりに折り合いをつけて辞めましたね。ただやっぱり、NSKにいた20年強がなければ今の自分はないから本当に感謝しているんです。企画とかも自由にやらせてくれる会社だったからこそ、月山湖売店店長としていい経験をさせてもらえましたしね。

仕事のやりがい
 それから約4年――。自分で大きな借金をして建物を借りて、商売をするようになって自営業の辛さがわかってきましたよね。全て自己責任で失敗すれば我が身にもろに降りかかってくるという状況において、会社で働いていた頃に抱いていた誰かがどこかでお金を払ってくれているんだろうなという感覚はぬぐい去らざるを得なかった。だけど逆に言えばそれはわかりやすい仕事。新聞一紙の単価はたかだか150円、月極でも3000円強ではあっても、やった分だけ結果として跳ね返ってくる。そこがこの仕事の面白みでしょうかね。決して商売として成功していたわけじゃないけれど月山湖での店長として得た成功体験は、今の仕事をやる上での土台になっているような気がします。新聞を売るというよりは、人と長く交流していくことに重きを置き、結果として新聞をとってもらう・・・という考えは変わらず私の中に息づいていますから。
 とは言えここに異動してくる前には、この仕事もやってあと20年くらいだろうから何か別の道に進んでまたチャレンジしてみたいとの思いが胸に去来したこともある。現状として、午前1時起床で1時半くらいから6時くらいまで仕事をし、一旦家に帰って仮眠をとって9時10時から仕事をするのが私の大体のスケジュールで、完全な休みや趣味に費やす時間もないから、もう少し時間に余裕があれば…との思いが頭をよぎることもある。でもやっぱりこの仕事は面白いんですよ。そもそも仕事場にいるのが好きだし、結局はこうやって忙しなく日々を過ごしているのが自分にとってはちょうどいいのかもしれませんね。
 西川から通うか村山に住むか悩み抜いたあげく単身村山で暮らすようになって2ヶ月――。地域に根ざすには格好の商売である新聞屋という仕事でよりよい成果を出すべくやって来た知らない土地で過ごす日々は楽しくて。当初は見知らぬサラリーマン風の男が道を歩いていると不審に感じていたでしょうけど、今ではしゃべってくれるようになった地域の人たちから話を聞いていると色々と発見がありますから。

今、実感していること
 ここに来るまでは村山市のことや村山市に住む人のことは全然知らなかったけれど、同級生や以前の常連さんなどが間に入って私を紹介してくれるおかげで良いスタートを切れている。だから何と言うか、人との巡り合わせがいいっていうかなぁ。どちらかというと自分自身の前向きなところも手伝って、人との出逢いを続けていくとプラスなことがたくさんあるということを身をもって実感しているんです。そして一つの人間関係が上手くいっていれば、人からとても良くしてもらえる。人のことを自分のことのようにすれば、必ず返ってくる。それらはイコールで結ばれているというか、法則らしきものがあるということを経験上つくづく感じているんですよね。
 そうそう、村山に異動になり店を引き継いだ時にほっとしたのは元々いた従業員の人たちが皆残ってくれたこと。当初一人ひとりに面談したらものすごく良い人たちだったし、かつていた西川店でも思いもよらぬ力を出してくれる人もいたんです。――私が西川販売所所長となり一緒に働き始めた当初は、挨拶どころか一言も喋らない人もいました。だけど挨拶をするかしないかで人を判断することはできないという考えが私にはあったから、自分から挨拶をしたり話しかけたりしていたんです。実際それを続けて1年もすると皆しゃべるようになりましたから。さらには自ら営業でお客さんをとってくるという想像だにしなかったことが起きたんです。やっぱり挨拶の力ってすごいと実感しましたね。かつてクマさんからもらった「挨拶が5番目に~」という言葉は、単純な私をその気にするには十分でした。(笑)ある作家の「あいさつは身を守る鎧である」という言葉も、私にぴったりの言葉だと思って心に留めているんです。そういうところでは挨拶にうるさかった両親に感謝しなければと思っていますね。
 振り返ってみれば、佐藤さんと阿部さんに始まり、横山さんやクマさん、月山湖売店店長をしていた時のパートのおばちゃんたちや常連さん、お得意さん、新聞屋となってからの従業員の人たち…。どこでどうめぐり逢うかわからない中で、いい人たちにうまいタイミングで出逢えてきてその結果としてうまくいっているからこそ人間関係の重要性は身にしみているんです。だからもし私が人に自慢できることは何かと問われたならば、こう答えるでしょうね。とにかく人には恵まれていることだって。―――20歳頃、当時暮らしていた東京で色んなアルバイト(例えば左官屋、花屋、喫茶店)をやっていた時も、色んな人と逢うことが面白くて。その時私の心に思いがけず芽吹いた喜びの種は数年の時を経てサービス業に目覚めるという形で花開き、さらに20年以上の時を経た今でも枯れることなく咲き続けているようです。

 

[編集後記]
なぜだろう。なぜこんなにも新聞屋という仕事に魅力を感じてしまうのだろう。

 

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