No.40 月山ポレポレファーム&宮城蔵王すみかわスノーパーク スタッフ 大木茂さん

Story No.40 月山ポレポレファーム&宮城蔵王すみかわスノーパーク スタッフ  大木茂さん

「山に出逢うまでは、胸を張って「頑張っている」と言えるものがなかったんですよね」
大木茂さん
Profile
1978年生まれ。山形市出身。2012年11月に結婚した妻と山辺町で暮らす。高校2年の夏に高校を中退。その後約2年仙台で、約5年東京で暮らす。2002年、友達に誘われて登った富士山をきっかけに登山にはまる。翌年、ネパールを中心に行った約5ヶ月の旅から帰国後、北アルプス槍ヶ岳の山小屋で働き始める。そこでの約5年間の勤めを経て、実家に戻ってくる。2009年冬より、冬場は宮城蔵王すみかわスノーパーク、夏場は月山ポレポレファームのスタッフとして働いている。現在は、登山ガイドの資格を取得すべく勉強中。

記事公開:2013-6-15

 

 2009年の冬から、冬場は宮城蔵王すみかわスノーパーク(以下、すみかわ)、夏場は月山ポレポレファーム(以下、ポレポレ)で働き始めて4年の月日が経ちました。
 今はすみかわに来たお客さんへのスノーシュー・スキーガイドや、ポレポレに来たお客さんへの登山ガイドをしながら登山ガイドの資格を取るべく目下勉強中です。

僕を変えたもの
 ―――あれは23歳の時。僕が東京で一人暮らしをしていた時のこと。それまで登山とはほぼ無縁とも言える生活を送っていた中、友達の誘いに乗って気軽に登った富士山で見たもの・感じたものは僕を変えました。
 まず日帰りでの行程の中、お昼頃到着した頂上から臨む景色は圧巻でしたよね。天気が良かったその日、頂上で見た果てしなく広がる雲海の美しさに見とれてしまった僕の中に刻み込まれたその光景は今でも色鮮やかに蘇ってきますから。
 頂上にてそんな感動に包まれながらも、例えばヘリコプターにでも乗って楽に着いた頂上と苦労してやっとこさたどり着いた頂上とでは全く感動が違うだろうな…と思い巡らせていた僕の中を不意に走り抜けたのは、“山登りって、人生と同じだな。それぞれ努力したからこその喜びがあるんじゃないか”との直観でした。非日常の中で得たそんな経験は、僕の日常すなわち仕事に向かう姿勢を変えました。それまでは何となくやっていた仕事に対して“コツコツとした努力なしに、成功は生まれない”との意識を持ちながら臨むようになったんですよね。
 その翌年には同じメンバーでネパールにも行き、エベレストが近くで臨める通称エベレスト街道(標高の最高地点5545m)を歩きました。その道を登山というよりはトレッキングという感覚で上りは9日、下りは3日かけて歩いた中で目にしたさすがヒマラヤだと思わされた景色や、世界中から人が集まることに納得がいった景色は僕の山への思いを加速させたんです。その後友達と別れその近辺(インドやタイ)での一人旅を5ヶ月くらい続けたんですけど、インドにいる時にも僕の足は自然と山の方へと向かいましたから。そんな僕が「山に関わる仕事をしたい」との思いを抱くようになるのも時間の問題でしたね。
 そうそう、ネパールの山間部で暮らす子供たちとの出逢いも大きかったんです。家の手伝いをしたりする彼らが持つ大人っぽさや力強さ。子供なのにかっこいいと感じさせる何か。そして無口でストイックな雰囲気を持っている一方で、はにかむと可愛いところにすごく惹かれている僕がいたんですよ。そんな彼らの姿を見て「彼らの魅力を作り出しているのが、山という環境なんじゃないか」との仮説を立てた僕の中で、”山”はどんどん大きな存在になっていったんですよね。
 そんな矢先、北アルプスの山小屋で働いていたという日本人にタイで偶然出逢ったのは追い風でした。そういう仕事があることを初めて知った僕の山への思いはいよいよ加速。そうしてまだ見ぬ”山小屋”に心が占領されてしまった僕は、日本に帰るやいなや泊めてもらった友達の家で働き手を募集している山小屋を探しましたから。
 その後すぐに見つかった長野の北アルプス槍ヶ岳の山小屋にて働き始めたのが、2003年のこと。それから10年――。変わらず山に関わる仕事をやり続けています。
 何はともあれ、ひょんなことからそういうものに出逢えた自分は幸運でしたね。それまでの人生では「おれは○○を頑張っている」って自信を持って言えるものがなかったですから。部活にせよ遊びにせよ仕事にせよ、全てが中途半端でしたから。

僕が求めていたもの ~中学・高校の頃~
 夢中になれるものがなくあまりにヒマすぎた中学生時代には、友達と一緒に体育着でチャリンコに乗って喧嘩を売りに行ったりしていましたから。(笑)一応野球部には所属していたけれど、顧問の教師も変わった人だったしほとんど遊びでしたよね。例えば軽く打ってピッチャーに返さないといけないトスバッティングの練習をしていてもわざと思いっきり打って「今の打球、100mくらいは飛んだんじゃねぇ?」と言って喜ぶ。それでグランドの奥で練習しているソフトボール部の連中に「どこ打ってんだ。危ねぇべ~」と怒られる。そんなやりとりがしょっちゅうあったことを始めとしてとにかく雰囲気は緩かったですよね。
 そんな折に出逢ったのがやんちゃな先輩たちでした。彼らに誘われ、徐々にその世界に身をひたしていった僕は気づくと悪さを繰り返すようになっていました。決してやりたくはなかったんですけどね。“場が盛り下がるんじゃないか。嫌われてしまうんじゃないか”との不安ゆえに断れずにずるずる引きずり込まれていったんですよ。
 そんな中学時代を終え”みんなが行くからおれも行こう”との気持ちで通い始めた高校時代は、夜遅くまで遊び授業中は眠いから寝るという毎日でした。その中でも変わらず友逹とつるんで色んな悪さをしていた僕は2度の無期停学処分を食らいました。そしてタバコが見つかり3度目の無期停学となった2年の夏、「ここにいてもつまんねぇな」との思いと共に高校を辞めました。
 「髪を染めるのは禁止」「学校には革靴を履いてこないとダメ」といった校則がある高校に僕はあえて髪を染め、スニーカーを履いて通っていたんです。なぜならそうすることが僕にとっての限られた自己アピールの手段だったから。悪さをしていたのも同じこと。「だったら勉強とかスポーツを頑張れよ」と真面目な人は言うかもしれない。もっともだとは思うけれど、当時の僕にはそれができなかった。悪いのも十分承知していたんです。だけどそれしか自分を表現する術を持ち合わせていなかったし、他の術を考える力もなかったんですよね。
 実際スリルも味わえるし、それで楽しめるところもありましたから。悪さをしていてもどこまでやるかは人それぞれ。そういう意味では根性試しのようなところはありましたね。「おまえはそこまでやるのか」と言われることに喜びを覚えたりもしていましたし。「おまえには出来ないだろうけど、おれには出来るんだぞ」というような自己満足がありましたから。そういうのも抜け出せなかった一つの理由なんでしょうね。何にせよ自分の気持ちを満たすためだけにやっていたんですよ。「おまえは鬼だな」と友達から言われた時はさすがにショックでしたけど。(笑)きっと暴走しすぎて見境がつかなくなっていたんでしょうね。
 そうして20歳の頃だったかな。東京にいた当時、自転車を盗むところをその自転車の持ち主に見つかった僕は警察に連れて行かれたんです。それで友達に身元引受人として警察まで来てもらった時に思ったんですよ「あ、これはまずいな。おれはついにここまで来たか」って。さすがにそれはこたえましたよね。
 そんな風に外では悪さばかりしていた一方で、家族の前ではいい子になる僕もいるんです。妻にも言われますから「何で家ではあんなにいい子にしてるの?」って。どうしてかそうしなきゃとの意識が自然と芽生えるんですよね。かと言って悪さをする時に親の顔が浮かぶということはなかったのですが。(笑)
 僕の家庭はわりと厳しかったと思います。箸の持ち方を注意されたり、玄関の靴を並べろと言われたりしていましたから。まぁでも良くしてもらったと思いますよ。ごく普通の家庭と同じように遊びに連れて行ってもらったり、欲しいものがあれば買ってもらったりしていましたからね。
 だけど「悪いことだってわかってるのに何でするの?」と言う親や学校の先生に対して、「何でおれの気持ちをわかってくれないの?」という思いは抱いていましたね。言いたいことはあるんだけど言葉にできないんですよね、そういう時って。先生にせよ親にせよ、自分が経験していないからわからないことだったんでしょうけど。
 そういう過去を経た今、当時真面目にやっていたら今の自分もないだろうと思うようにはしていますね。

僕が求めていたもの ~東京にいた頃~
 ―――16歳の夏。高校を辞めた僕は当時仙台で暮らしていた姉と一緒に暮らし始めると共に、寿司屋でアルバイトを始めました。
 それから2年が経った18歳の夏。親の了解を得てかっこよく言えば「見聞を広げたい」との思いを胸に秘めた僕は、かねてからの憧れだった東京で一人暮らしを始めました。
 「芸能人を見てみたい。華やかな世界に身を置きたい」そして「東京でしかできないような仕事をしたい」との思いを実現させてくれたマスコミ関係(小道具)の仕事を3年やったのを始めとして、約5年の東京生活ではいくつかの仕事を経験しました。その傍ら、仕事が終わってからとか休みの日にはDJがかける音楽に合わせて踊ったりする飲食店いわゆるクラブでよく遊んでいました。
 だけどここでもそういった仕事にせよ遊びにせよ夢中になれない僕がいたんです。例えば友達と遊んでいても「みんな楽しそうに遊んでいるけど何が楽しいんだろう?」というように醒めている僕がいて。でもその一方で、そういう友達例えばクラブでDJをやっている奴やスケボーをやっている奴のように夢中になれるものがある人が羨ましかった。翻って何も出来ていない自分がもどかしかった。高校時代にしてもそう。早々と専門学校なり大学なりへの進路を固めていた周囲と、確かなものが何もない自分を対比して物憂い気分にはなったりしていましたから。あの頃は「俺には何ができるんだろう?俺は何がやりたいんだろう?」とのいつ答えが出るやら全くわからないような問いを懐に携えながら、悶々として日々を過ごしていましたね。
 一人旅のさなか、タイで思い描いた”山小屋でストイックに働いている自分”への憧れはそういう過去の裏返しでもあったのかもしれません。あえてそういう厳しい環境に身を置くことで”何かに夢中になっている自分”に出逢いたかったのかもしれません。何にしても変わりたいという欲求は強くありましたよね。

僕にとっての“山”
 そうして念願叶って、2003年から長野の北アルプス槍ヶ岳の山小屋で働き始めました。
 その中で僕はかつて味わったことのない喜びに出逢ったんです―――。それを教えてくれたのは山に遊びに来てくれるようになった僕の友達でした。というのも彼らが来て自然と僕が列の先頭に立って一緒に山を歩いていた時に僕の中に生まれたのは”みんなから頼られている”という感覚だったんです。その時僕の心にじんわりと広がった喜びや気持ちよさ、そして「その気持ちよさを仕事にできたらいいな」との思いが登山ガイドを目指すようになった僕の原点なんですよね。当時から10年近く経った今も、そんな感情は変わらず僕の胸に湧き上がってくる。例えばガイドを担当したお客さんに帰ってきて「楽しかった」と言ってもらえたりしたらそれで十分満足ですから。
 それから時は経ち、2009年夏。5年目となった山小屋での仕事もマンネリ化していた上に30を目前に控え行き詰まりを感じていた僕は、以前から胸中にあった「山の良さを人に伝えたい」との思いを形にするための第一歩としてアウトワードバウンドスクール(OBS)で2ヶ月間の指導者育成コース研修を受講しました。そしてその研修を修了した後、長野の地を去り、山形へと戻ってきました。今、山のガイドをする上で、その研修の経験はすごく生きているんです――。“自然を舞台とした冒険的な経験を通して、自己成長を図る”ことを目指しているOBSでは、少しハードルが高めのことを参加者にあえてやらせるんですね。例えば40mの懸垂下降や滝登りとか。だからこそ特に安全面に関しては口酸っぱく言われました。「お前が言う大丈夫は、どこまで大丈夫だと思って言っているのか?どういう意識で大丈夫だと言っているのか?」という風に。実際ガイド中は事故を始めとした危険とはいつも隣り合わせだし、幾度となく素早くそして的確な判断を迫られますから。そのおかげで相手(お客さん)の気持ちを考えた上での声がけとかができるようになりましたね。すごくいい仲間もできましたし。
 将来の目標としては、今すみかわやポレポレでやっている”修業”を踏まえてエコプロの白田さんのように個人事業を起ち上げて食べていくこと。という思いはあるのだけれど…。結婚して家族を持った身としては一歩踏み出す勇気がいりますよね。それに将来的に子どももできた時のことを考えると、「ガイド業一本でやっていくぞ!」というような強い気持ちは持てなくて。だから何か他に軸になる仕事をやりつつ、ガイドの仕事もできればと思っています。まぁでもどういう形であれこれからもずっと山とは関わっていきたいですね。
 思い返してみると…、富士山登山やネパール旅行がなければ今の僕はいなかったかもしれない。未だに悶々とした気持ちを引きずっていたかもしれない。というのもやっぱり、山に出逢うまでは胸を張って「頑張っている」と言えるものが僕にはなかったわけだから。そういうものに出逢えた僕は本当に幸運でしたね。

 

[編集後記]
言葉数は少なくとも、語ることは多い。そんな茂さんの胸の内をもっと追ってみたい。

 

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