No.41 農家 林昇司さん

Story No.41 農家 林昇司さん

「やっぱり誇りを持って生きたいし、終わりたいですよね」
林昇司さん (1024x683) 2
Profile
1950年生。大江町出身、在住。18歳の時に就農して以来45年間農業に従事。30歳の頃より50代半ばまで有機農業に取り組む。一旦その取り組みは終えるものの、現在もその名残をとどめた生産方法ですももを作っている。昨年より大江・朝日すもも部会(2013年5月よりさがえ西村山すもも部会)の一員として某広告代理店とパートナーシップを組み、「日本一のすももの里」としての地域のブランド化を目指している。他にも、米や啓翁桜や加工用大豆を栽培している。 *「大江・朝日すももの里」HP

 

変わってきた思い
 18歳の時に就農してから、気づけば45年の年月が経ちました―――。
 チームで仕事をするわけでもなく、誰かが雇っているわけでもなく日本社会の仕組みの中で必然的に一匹狼となる農家たち。かつてその中で例外なく完全に一匹狼だった私、今よりもずっと一匹狼だった私が「自分たちがやることが社会への問題提起、つまり世直しのきっかけとしてありたい」との思いを胸に数人の有志とチームを組んで有機農業に取り組み始めたのが30歳の頃のことでした。だから有機農業で自分が生きたいというよりは、今の農業を変えたい、今の消費のあり方を変えたいとの大それた望みを抱いていたんです。(笑)
 「まともな農産物とは何か?」そんな問題提起をすべく行ったのは、消費者と提携することでした。会員制を敷き、家庭菜園の箱庭を大きくしたような多品目の作物を植えた畑をしょっちゅう見に来てもらったり、仕事を手伝ってもらったり。というのもただ生産者と消費者、つまりは売る・買うという以上に共に生きているという関係を築きたかったから。結果的にはそこから脱却できなかったですけどね。元来農産物は安全・安心が当たり前という中で、“有機”で作ったものとしての差別化が難しくて。とは言え最終的には80人くらいの会員がいたし、収入もありました。忙しくはあってもそれなりにうまくいっていたと思います。
 その取り組みを続けたのは、私が50代半ばとなるまでの約25年間。最後にはチームを組んでいた農家たちは元の鞘におさまるがごとくそれぞれ一匹狼に戻りましたね。一口に有機とは言えその背景にある思いは人によってまちまちですから。その中で私はと言えばまた別の形で世直しやればいいや(笑)ってことで、すももを農協に出荷するという路線に移行していったんです。
 「次の世代へバトンを受け渡そう」―――それからしばらくの後、急激にそんな思いに至ったのは約5年前のことでした。きっと色んな仲間が出来て、この人たちとなら一緒にやれると思ったのかもしれませんね。ある意味必然なんでしょうけど。すももに関して言えば、わかりやすい目標設定としての「日本一のすももの里」構想を打ち出した去年よりずっと前から、当地域のすもも農家には「すももで生きるぞ」というような腹構えや、県内トップクラスの品質のすももを生産していることへの自負心はあったんですよ。そんな風に長い時間をかけて着実に育ってきた“種”が、機が熟したとばかりに皆で「日本一のすももの里」を目指そうという形で“芽吹いた”のかもしれません。
そうして気運が高まってきた近頃、目に見えて出ている成果で言えば、3年前には52人だったすもも農家が70人(※大江・朝日すもも部会時代)に増えていること。作付面積も当時より10ha増えていること。実際苗木生産はまだ始まったばかりではあっても、一匹狼の農家たちが同じ目標に向かってやりながら、しかもその経過を楽しんでいるというのはいいですよね。


親としての思い
 振り返れば、50年以上前―――。家督相続を代表として旧家族制度の名残をとどめた中、長男は家を守るのが当然だという価値観の下で育った世代の一人として、長男だった私が「後を継いでくれ」と言われたのは小学校3年生の時のことでした。「爺ちゃんも婆ちゃんも父ちゃんも母ちゃんも、お前が大きくなってこの家を継いでくれることを楽しみにしてるんだからね」と。
 その一方で、双子の娘たちや息子には進路を方向づけるようなことは言ったことがないし、仕向けたこともないんです。だから娘たちは言いますね「禁止事項はなく、ほとんど何でも自由にさせてもらったのは良かった」って。私も子供たちには言っていましたから「何でも言っていい。何でも希望していい。ただしお月様をとってきて指輪にしてと言われても無理だから(笑)」と。例えば本で言うと、読みなさいとは絶対言わないで最初から置いておくんです。つまり親としてやるのはチャンスというか環境だけは整えてあげることだと思って接してきましたね。というのもやっぱり自分の意志で自分の道を選んでほしかったから。一卵性双生児の娘たちにあえて全然違う名前をつけたのもそういう理由なんです。
 そうそう、自身の双子の娘が小学生の時のこと。学校のマラソン大会で彼女たちがビリを争って走ってきた様子を見て、観客の一人が私に言ったんです「おたくの二人、あれではねぇ。もう少し何かスポーツさせて鍛えてあげないとかわいそうなんじゃないか」って。構わないでくれという感じでしたよね。私はといえば「お前たちはすごい」とよく褒めていましたから。「長距離を走る秘訣は、プロの人曰く同じペースをずっと保つことらしいよ。お前たちはそれが出来ているんだから、ちゃんと資質を持っているじゃないか」ってね。それでビリならしょうがないんです。何と言うか、他者から見た評価や世間一般のモノサシで測るんじゃなくて、自分なりに精一杯頑張ったのであれば結果はどうあれ自分を褒められるようにはなってほしかったんですよ。人間はそれぞれに絶対的能力を与えられていて、大抵の人の場合、上には上がいるじゃないですか。ならばどうしたらよいかと考えたら、ナンバー1よりオンリー1じゃないけれど、やっぱり自分の頑張りを認めてあげることだと思うんですよね。さらに言えば、自分のことを負け組だとは思ってほしくはなかったんです。そういう思いがもしかしたら、私の心の奥底で根を張っていたのかもしれませんね。
 遡って私の子供時代は、トロいし不器用だし、自信が先行していて実力はないし(笑)威張りたくとも威張れるようなものは何もなかったですから。自己顕示欲みたいなものって誰しも持っていますよね。例えば小学校で言うなら、生徒会長をしているとか部活で活躍しているとか。そうやって欲求が満たされる場所や機会があればいいけど、何もなかったら…。ほんと何をやってもダメでしたから。私自身そういう過去を経てきたことが、子への接し方に反映されていたのかもしれませんね。

胸中に渦巻いていた思い
 「後を継いでくれ」との言葉を受けた9歳の私がそれに苦を感じることなくやってやろうじゃないかと意気込んで以来、他の未来を思い描いたことはなかったし、実際に就農してからも仕事を嫌だと思ったことはなかった。まぁ出稼ぎの仕事を経験して自由にやってみるのはいいなとの思いが芽生えたこともあったし転機、要は転職しようと思えば転職できるチャンスも色々とあったけれど、別の職業に就こうという思いに至ったことはないんですよ。
   そうやってこれまで半世紀近くずっと農家として他の職業に浮気することなく生きてきたけれど、むしろ生き方としては迷ってきたんじゃないかな。若い頃は、言葉で表すならば「人間ってどういう風に生きるのがいいんだろう?」という哲学的な命題のような問いを胸にただ悶々たる日々を過ごしていましたから。特に20代半ばの時はとても辛かった。当時、周りの大人たちは私に向かってよくこう言ったんです。「君は若いから、無限の可能性がある」と。だけど自分には到底そう思えなかった。自動車メーカーの工場に出稼ぎに行って車の一部を作ろうとも、自身の収入ではその車を買えないわけです。そして3Cに入る、クーラーやカラーテレビもとてもじゃないが買えないわけです、たとえそれが主流になろうとしている時代にあったとしても。今より大きな経済格差があった当時、今とは隔世の感がある当時、「一体おれに何ができるんだ?」「将来おれを待っているのは何なんだ?」という漫然とした不安が私の心を埋め尽くしていましたね。
   ―――就農した当初、冬の4~5ヶ月の間は親父が実家にいたこともあって都市部に出稼ぎに行っていました。ところがそれから20年が経った28歳の時。ある一篇の詩を読んだ私は、ぱったりと出稼ぎを辞めました。出稼ぎ中、先輩が置いていった本をふと手に取った私の目に入ったのは草野比佐男の「村の女は眠れない」という詩でした。出稼ぎで遠く離れて暮らす夫に妻が抱く熱く生々しい思いをうたったその詩は、当時まだ独身だった私にも十分に訴える力はありましたね。出稼ぎは非人間的、非人道的な行為だと思わされましたから。―――
   経済格差を始めとして職業や地域など色んな分野で格差ってあるけれど、これまでの人生で優位に立ったところにはいたことがないんですよ。日本(世界)という“格差社会”において底辺の方にいる人たちは、いわゆるカモになってしまう。色んな意味でカモにされる一方で、自分たちが誰かをカモにすることはできない。そういう構造の社会に生きているんだから否定してもしょうがないんですけども。まぁ大正時代のように娘を身売りせざるを得なかった時代と比べればマシなのかもしれませんしね。それに、経済的には苦労してきたとは言え「おれには仕事という生きがいがある」と言えるだけ恵まれているのかもしれません。元々感じていたやりがいが、時と共に生きがいに重なってきていますから。

私の夢
   生産物の価格決定権のない今の農家という立場において、ないならないで、たとえ主導権は握れなくとも大きな影響力を持てるような存在でありたいんです。このままで終わったらやっぱり悔しいじゃないですか。それに当たっては政府がどうだとか、TPPがどうだとか変えられないものについてどうこう言ったって何の解決にもならない。TPPに関して言えば、時代背景がもう決めちゃっているような気もしますしね。現在の農家の平均年齢は67歳。10年経ったら・・・。このままいけば農産物は激減し、食べるものがなくなってしまいますよ。新規就農する人は数少ないし、今やっている人も多くは後継を諦めているわけですから。
 だったら、やらなきゃならないことであっても難しいのであったら、与えられた条件下で自分のできることは何かと探すべきだと思うんです。かく言う私は現在63歳。周りの先輩たちへのリサーチを踏まえると、今のように万全の状態で仕事ができるのは70歳まで、すなわちあと7年。人生の3分の2をすでに費やし残された時間の少ない今、63歳の自分として出来ること、農業に関わって出来ること、この地域で暮らしていて出来ることというように考えは自然と収斂されていくんです。いや、むしろそうしかできない。
 その答えが単純に考えて次の世代へバトンを渡すことなんですよね。なぜなら自分ではできないわけだから。託すしか術がないわけだから。託すとならば、良い条件整備をして次の世代に受け渡したいんです。自分が収穫できそうもないすももの木を植えているのはそういう理由なんですよ。だけど現状として、米作り農家の場合、時給に換算すると417円。そんな状態では「次どうぞ」なんて言えないですよね。いい条件を用意して初めてそう言える。例えば家族を持って、子どもが大学に行くと言ったら行かせてあげられるような形にはしたいし、私が思う立派な農家(経営能力があり、販売能力つまりコミュニケーション力があり、技術も伴った農家)を目指す中で、朝から晩まで身を粉にして働くのがあるべき姿というかつての農家像を打ち崩し、時代が求めるに応じたサラリーマンと変わらず余暇も楽しめるような農家像を作り出していきたいとは思っています。それに、若者たちからすれば一世代前に生まれたものとして「大丈夫だから頑張ってください」と彼らに言えないような今の社会を作るに加担してきた責任の一端を感じていることも私の思いを後押ししているでしょうね。
   ”そう遠くない将来、次の世代がどれだけの喜びと共にバトンを受け取ってくれるか”それが今の私の最大のテーマです。

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