No.44 庄司林業 山業ビジネス&プロジェクト代表 庄司樹さん

Story No.44 庄司林業  山業ビジネス&プロジェクト代表 庄司樹さん

「山の仕事を通して新たな道を拓き、轍を刻んでいきたい」

IMG_2318 2

Profile
1981年生。山形県大江町出身、在住。高校を1年の時に中退し、映画の道へ。地元山形の社会人グループに混ざり、自主制作映画に関わり始める。18歳の時、フリーランスの助監督に。23歳の頃より東京で暮らし始める。2011年春、28歳の時にUターン。父が社長を務める庄司林業にて働き始める。2012年11月”山業ビジネス&プロジェクト”を立ち上げ、山を基点とした生業づくりを目指している。その傍ら、CBJ※1の中心メンバーも務めている。
連絡先:itsuki_shoji@me.com      Facebookはこちら


 

※1 Cherry Boy Jambory(チェリー・ボーイ・ジャンボリー)の略称。毎年9月に大江町道海地区にあるキャンプ場で行われているフリーキャンプイベント。参加者は、様々なジャンルのアーティストが集って開かれるライブや林業体験ワークショップなどに参加できる。2004年に第1回開催。2013年で10回目を数える。

 

山に関わり始めて…
 10年ほどの間身を浸していた映画の世界を抜け、東京からUターンしてきたのが2年前の2011年春のこと。以来、庄司林業の一社員として働く中で、山が持つ可能性に目をつけた僕は“山業ビジネス&プロジェクト”と銘打ったグループを2012年11月に立ち上げ、例えばクロモジの葉を使ってアロマのワークショップをしたり、ナラの木で作った蝶ネクタイを販売したりと新たな事業を生み出すべく色々と取り組んでいます。
 正直なところ、まさかこんなに反響があるとは思ってもみなかったですけどね。全然知らない人がここまでやってくることなんてつい最近まではなかったですからーー。全く素人の状態で林業の仕事を始めた僕が、山が秘める可能性に気づき始めたのは、実際にこの仕事を始めてからなんですよ。例えば、草刈りをしている最中に何かいい匂いがするなぁと思って記憶をたぐってみたら、東京で暮らしていた頃によく行っていた洋服屋の匂いだったりとか。そんでもって実際に足を運んでみて、店内にあるアロマのラベルを確認してみたら案の定クロモジで。結局それが、つい先日開催したアロマのワークショップに結びついたんですよね。アロマは一つの例にすぎないけれど、昨年の秋頃から僕の中で意識の変化が起こって、探せば他にも色々とあるんじゃないか、今まで自分が知らなかっただけじゃないか・・と思うようになったんです。他の例を挙げれば、日本の森林が直面しているナラ枯れという現状に目を向けてほしいとの思いを込めたナラで作った蝶ネクタイのように、本来は山に捨ててくる部分の木で作った木工品にしてもデザインさえしっかりしていたらブランドとしてやっていけるのではないかという光も見えてきているんですよね。少し前には、廃材を使ってスピーカーも作ったんですよ。いずれにしても、目的は来た(買った)人に山を身近なものとして感じてもらうこと。エネルギーとか、生活雑貨やオシャレといった身の回りのものを通して人びとの生活が少しでも山に近づけばいいなとは思っています。
 とは言うものの、僕が林業や山に目を向けるようになったのは、けっこう最近のことなんです・・・。4年くらい前に友達がふと漏らした一言がやっぱり大きかったかなぁ。CBJのつながりで知り合った友達が、いきなり「おれ林業やる」って言い出したもんだからびっくりしちゃって。結局彼はその道には進まなかったけれど、彼の一言はかつて持ったことのない視点を僕に与えてくれました。もちろん、庄司家では祖父が会社を立ち上げ林業をやっていたから「いずれ継ぐんだろうな…」というふうに漠然と考えてはいました。だけど、さほど前向きには考えていなかった。今思えば、当時の僕は林業のことを何もわかっていなかったというだけの話なんですけどね。
 そんな経緯で始めたこの仕事だったけれど、今なんかはほんとやっていて楽しいんです。例えば木を切り出す仕事をするうえで、林業の極意とも言える”一本の木からいかにムダなく採材できるか”というテーマをつきつめていくことがすごく面白い。どこにチェーンソーの刃を入れるか木を見て瞬時に判断しなければならないし、センスも問われる仕事だと感じていますから。それに、新たなものを作り上げていく過程で得られる面白さも加わるわけですから。
 そんな風にこの仕事に面白さを感じられるような”僕”を作ってくれたのは、”僕”自身の過去だと思っています。

僕を形作っているもの 1
 遡ると小さい頃から新たなアイデアを思いつくことが当たり前だったというか、得意だったんですよね。イラストを描いたり物語を作ったりすることが好きな子どもでしたから。ーー小学校3年生の時に発覚した骨の病気の影響で、他の子どもたちと同じように運動ができなかった分、そこで抑圧されたエネルギーを解放させられる場所とか機会を欲していたのかな。その矛先がいわゆる創造の分野に向かい、ハマりやすかったというところはたぶんあるでしょうねーー。そんな僕の血にはどうやらじいちゃんの血が入っているみたいなんです。かつて集落で暮らす男衆のほとんどが山で仕事をしていた時代、歳をとって山に行けなくなった人も仕事ができるように木工品を作ったり、木工体験教室を開いたりしていたらしいんですよね、僕のじいちゃんは。だから、ばあちゃんとか叔父や叔母にはよく言われるんですよね「おまえ、(じいちゃんに)本当によく似てきたな」って。もっと遡れば、じいちゃんのじいちゃん、すなわち僕のひいひいじいちゃんも似たような事をしていたらしくて。周りから理解されないようなアバンギャルドなことをしていた彼は、あげくの果てに集落を追放されたといいます。だけど、住みついた山奥でお店に並べられるほど美味しい梨を作るようになったみたいなんですよ。逆境に強いというか。(笑)
 そういう”血”を持っていることに加えて、小さい頃の原体験も大きいのかもしれません。チャンバラごっこで使う剣をじいちゃんと一緒に作った思い出もあるし、遊ぶものはけっこう自分で作っていたんですよね、思い返してみると。(もちろんファミコンとかもやっていたけれど)それから、都会から毎年のように山村留学で来た子どもたちとのふれあいが色々と気づかせてくれたことはありましたね。というのも、チャンバラごっこや山を駆けずり回ったりする遊びに興じる彼らの姿に新鮮な驚きを覚えましたから。それまでの僕らは全くと言っていいほどそういう遊びをしたことがなかったし、さほど魅力的にも映っていなかったですからねぇ。もしかしたら子どもながらに(つい最近まで)、新しいものとか都会的なものを知らず知らずのうちに求めていたのかもしれません。
 でもやっぱり、当時の僕にとっての何よりの楽しみはと言えば、映画を観ることかなぁ。金曜ロードショーとかテレビで放送されるものはほぼ欠かさず観ていたし、小学校時代、映画好きの理科の先生のおかげで授業中に映画を観られたりしていましたから。

僕を形作っているもの 2
 子どもの頃に抱いた映画に対する想いが成長しても全く色褪せる事はなかった僕は、映画の道へと進むために高校を1年の時に中退しました。その後、仲間と自主制作映画を作った数年間を経て、助監督となりました。以後約10年間、助監督として30本以上の映画制作には携わってきたけれど、やっぱりその経験は大きかったですねぇ・・。
現場の総司令塔的な役割を果たす助監督をやる上では、よい演出をするためにもその映画のテーマのバックボーンを作ることは必須なんですね。そして、そのバックボーンを作るために、例えば医療ものなら医療関係の、警察ものなら警察関係の資料を調べることが必要になってくる。そんな風に映画を作るに当たって色々と調べるうちに、勉強がすごく好きになったんですよ。と共に、調べものが早くできるようになったし、大枠をつかむと理解しやすいことに気づけた。物事を俯瞰して捉える感覚が身についたというか。そういうことを、人に教わったというより自分の経験の中から導きだせたのもよかったんだと思います。昨年の秋に僕の中で意識変化が起こったのも、きっとその経験ありき。おかげで常に色んなアンテナがビンビンに立っているというか、山仕事をしていても、プライベートで遊んでいても頭のどこかで新しい仕事に結びつくような要素を無意識のうちに探しているところはあるんですよね。
 ・・・だから、ほんとに実感しているんですよ、助監督やっててよかったなって。昔とった杵柄がこんなにも役に立つんだなって。おくりびとの監督を務めた滝田洋二郎さんも言っていますしね「人間、一回は助監督をやった方がいい」って。もし助監督をやっていなければ、言われたことだけをこなすただの作業員になっていたかもしれないと思うくらいですから。
それに、精神的にもタフになりましたよね。ガラスのハートではなくなったというか。(笑)助監督を始めた頃、先輩から言われましたから「すげぇ頭良い奴か、すげぇ頭悪い奴のどっちかしか助監督はできない」って。この場合の頭悪いっていうのは、“道化になれる”とか“図太い”っていう意味だと思うんですけど、やっぱりそれだけ追いつめられる職業なんですよね。入ってばかりのペーペーでもベテランの美術監督とかと肩を並べて話をしないといけなかったり、映画の世界にいる人も性格は十人十色だから、本当にイヤな人であっても何ヶ月もの間ずっと顔をつき合わせていないといけなかったり…。ぶっちゃけて言えば、助監督をやり始めて間もない頃はイジメられました、それはきっと誰もが通る道なんでしょうけど。まぁでも確かにそれほど強く言われなかったら緊張感とかも芽生えなかったのかなって思いますよね。500万ほど映画で使うお金を毎日預からなきゃいけない時もありましたから。とにかくそういう環境にも耐えながら一つのことをやり抜けたという経験は大きかったですよね。・・・ほんと、すげぇ辛かったですから。眠たくても寝られないくらいに。実際、同じく助監督になったもののノイローゼになって辞めていった人も何人か見ていますから。今となっては、喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、懐かしい思い出ですけどね。当時の経験が僕の血となり肉となっているわけですし。
 ところで、最近の忙しさは助監督をやっていた頃に近づいているんですよ。2005年に公開された「あずみ2」に僕は助監督として関わっていたんですけど、これまでの人生で一番きつい仕事でしたね。1日30分睡眠が4ヶ月半続きましたから。ギャラは見習い価格だからトータルで8万だし。(笑)そういう世界でやっていけたのは、やっぱり映画に対する想いの筋が通っていたからだと思っています。
 繰り返しになるけれど、やっぱり映画と関わるようになってすごく良かったというか、ほんと自分自身が180度変わりましたよね。だから、自分で進みたいって思った道をまっすぐ進んでみて、本当に良かった。親から”超”がつくほどの大反対を受けたにも関わらず、こうと決めたらてこでも動かない性質(たち)のおかげか、勢い余って高校を中退してまで選んだ道を。(笑)そして、高校を辞めた当初「シナリオを書きたい!」という思いが強すぎたというかそのことしか頭になかったが故に、他の情報を完全にシャットアウトした状態でワープロに向かい始めたというスタートダッシュをかまして走り出した道をまっすぐ進んでみて本当に良かった。(笑)
 そうそう、人に誇れるような経験もできましたしね。ーーー10年以上前のことかなぁ。まだ山形で暮らしていた時、山形を舞台に撮る劇場映画のスタッフとして関われる時があったんですね。そこには幸運にも黒澤組(既に黒澤明監督は亡くなっていた)のチームの人が何人かいたんですけど、1カットに対する彼らのこだわりとかはすごくてねぇ。例えば、1カットをとるための照明に半日かかったりしましたから。探究心が強いというか現状に満足しないような感じを受けました。当時もそれなりに彼らのすごさを感じていたけれど、今振り返ってみるとよりそのすごさを感じるんですよね。そういう人たちと約半年の間、同じ釜の飯を食いながら色んな話を聞きつつ一つのものを作り上げたんだから、ほんとに良い経験だった。だから、映画に関わってきて一番よかったこと、人に誇れることはと言えば、黒澤組の人たち、つまり世界が認める一流の人たちと仕事をできたことですね。
 だから何というか、例えるなら小さい頃の経験という素材に、助監督時代の経験という調味料を加えたものが、今の自分自身と言えるのかもしれません。

Pocket

1 2