No.46 月山メノウ職人 / 伝承館巧人クラブ会長 上野勝さん  

Story No.46 月山メノウ職人 / 大井沢自然と匠の伝承館巧人クラブ会長 上野勝さん   
「常に誰かに惚れていたい。そんな思いこそ私が生きる情熱の根源なんです」
blog_photo46 上野勝さん
Profile
1942年生。東京都出身。6人兄弟の5番目(兄3人、姉2人、妹1人)として生まれ育つ。西川町綱取在住。高校卒業後、大手企業に入社。技術、計画、営業部門を経験し、1992年、どうせだったら好きなことをやりたいと、32年間のサラリーマン生活にピリオドを打つと共に、西川町へ妻と移住。その約3年後より、大井沢自然と匠の伝承館にて独学でメノウ細工を始める。1999年、現・大井沢秋まつりの前身となる第1回巧人まつりの開催に当たって音頭をとる。伝承館巧人クラブ会長も務めている。

 

私がこの町で暮らし始めた理由わけ
 今から21年前の1992年。当時50歳だった私は、長年勤めた大手企業を辞め、妻と共に西川町へと移り住みました。
 きっかけは、そこから遡ること10年前。30代の後半頃から、それまでやっていた色んな遊びを一切やめてしまうほど渓流釣りにのめり込んでいた私は、仕事が休みの度に全国各地へと渓流釣りをしに出かけていました。その中でも、釣り人のメッカのような存在だった朝日村(現山形県鶴岡市)の大鳥池はお気に入りの場所だったから、年に4、5回は足を運んでいたんです。もっぱら、金曜の夜に東京を出発し、寒河江市の知人のところに泊まり、土日丸二日間釣りを楽しんだ後、日曜の夜中に東京に帰ってくるという行程で。
 そんな生活スタイルを始めて10年ほど経った40代後半の頃。その知人に何の気なしにこぼしたんですよ、「こういう所住みたいな」って。そしたら、彼が知人である西川町役場の総務課長に話を持っていったらしく、しばらく経ってからその課長と会ったんです。その時いくつか仕事の紹介もされたりしたんですけど、さほど本気にはしないまま東京へ帰ったんですね。
 だけど思いがけないことに、ものの1ヶ月もしないうちに町役場から電話がかかってきたんです。「家が見つかりましたからぜひ来てください」って。それでもう居ても立ってもいられなくなった私は、このチャンスを逃すわけにはいかないとの思いで妻には内緒ですっ飛んできたんですよ。
 その時、西川町内を一通り案内してもらった中で、古くとも何とか住めそうな家が一軒あったんです。乗りかかった船だし、私の中ではほとんど決心はついていた。だけど、女房を説得しなきゃいけない。それに、会社も辞めなきゃいけない。だから「6ヶ月間だけ確保しといてくれ。その間に態度決めるから」と、手付金だけ払った私は一旦東京へと帰りました。
 言いだしたら聞かないという私の性格を恐らくわかっていたのであろう女房は説得できたけれど、次は会社。当時やっていた営業の仕事ではけっこういい成績も残していたから、止められましたね。「将来何やるんだ?」と心配されたり、「おまえは来年管理職になることが決まっているんだ」とこっそり告げられたり。それに対して「これからは遊んで暮らすんだ」と返したら「人生そんなに甘いもんじゃねぇぞ」とも言われて。実際、営業をやっていても人間が機械化されてしまっていて面白くなかったんです。そういう光景を見ながら、これから人間がコンピューターに管理される時代が来るだろう、もう俺の出る幕じゃないと感じていましたから。そして何より、一度きりの人生、どうせだったら好きなことをやりたいとの思いがありましたから。そんな風に会社を辞めたわけだけど、同僚が壮大な送別会を開いてくれたのは嬉しかったですね。今でも毎年、こっちにバスで来てくれますし。

遊びと私
 釣りを覚えるまでは、ゴルフにビリヤード、麻雀…。仕事以外の時間はほとんど遊んでいましたから。「使った金は必ず戻ってくる。だから、若いうちはどんどん使え」という、かつて兄貴に言われた台詞が頭に残っていましたし。会社から貰う給料のほとんどを、遊びでパーにしていました。おかげで東京で家は持てなかった。まぁ持つつもりもなかったんですけど。
 ――そんな私の遊びは全て、遊びが好きで、子どもが好きだった親父から引き継いだもの。そんな親父のおかげで、常に遊びに触れていた子どもの頃、乗馬やアーチェリーのような当時ではハイカラな遊びをやっていましたから。家は近所の子どもたちが集まるたまり場みたくなっていましたしね。その一方でというか、アウトドアと呼ばれるジャンルの遊びも色々とやっていたんです。例えば、周りの人たちが泳いでいる海で浮き袋一つと竿と餌を持って釣りをし、獲れた魚を砂浜で火をおこして焼いて食べたりしていましたから。そういうサバイバル的な遊びもよくやっていたから、例えば比較的小さい頃から自分でテントを作れるようにもなっていたんですよね。当時は、魚釣りに行っても、わざと裸足で歩かせられたりというように、いいか悪いかはわからないけれど、痛さも怖さも身をもって体験しました。おかげであちこち傷だらけの子ども時代を送っていましたから。話せばきりがないけれど、人より何倍も楽しい遊びができた子供時代でしたよね。まぁでも、モノがない時代だったからこそ良かったんでしょうね。限られた条件の中で自分で遊びを創り出すことの楽しみもありましたから。ーー
 話を戻すと、そんな私を見るに見かねてか、先輩が釣りに誘ってくれたんです。結局、それが運の尽きでしたね。(笑)渓流釣りの魅力に虜になってしまいましたから。――渓流釣りにしても、それまで毎日のように打ちっぱなしに通うほどにはまっていたゴルフにしても、猪突猛進というか、一つのことを深くつっこみたいというところが私にはあるんです。ある程度のところまで行くと辞めちゃうんですが。(笑)
 そんな風にやってきた遊びが面目躍如したのは、40代過ぎの頃に異動した営業の仕事をしている時のこと。遊びのおかげでどんな話でもついていけましたから。だから遊びを通して自分という人を売れ、人を売れば自ずとモノは売れるという経験ができたんですよね。

伝承館の魅力
 西川町に来てもこれと言ってやることがなかった私は、3年ほどは毎日遊んでいましたね。旅に出たり、パチンコに行ったり、地元の人達と麻雀をやったり…。
 そんなある日、町の人に言われてしまったんです「いいご身分ですよね」って。それがきっかけとなり、これはまずいなと仕事を探し始めた私が出逢ったのが、伝承館にある機械を始めとして何もかもが錆びて使えない状態になっていたメノウ細工の工房でした。
 ーーこれは金の卵だ。私が初めて大井沢自然と巧の伝承館に訪れた時に感じたことです。だけど当時は、私のような外から来た人間にとっては価値ある場所に、地元の人は見向きもしないという状況だった。そんな中芽生えた、外から人が集まれば地元の人も目を向けてくれるだろうとの思いを発端に、人を呼ぶ手立てとしての“※巧人まつり”を考え出したんです。
今は私のような外から来た人が中心になっているけれど、理想はやっぱり地元の人が実行すること。地元の人にももっと携わってほしいとの思いは始めた頃から変わっていないんですよ。“とりあえず自分たちが楽しむ”ことを原点として作った※2ゆきんこ祭りにしても、ゴールは同じなんですよね。
 それから、今ここにいる巧人さん、例えば紙漉きをしている人にせよ、草木染めをしている人にせよ、きっと仕事に惚れているんです。仕事なんだけど、仕事と思わずにやっているというか。そういう人たちが集まっているところもまた、ここの魅力なんですよね。ーー
 話を戻すと、メノウ細工をやりたいんだけれども、全くアテはない。さてどうしよう…という時に偶然出逢った宝石屋の店長と仲良くなった私は、甲府にあるメノウ工場まで連れて行ってもらったんです。以来、しょっちゅうそこに通っては石を買いつけ、帰ってきては試行錯誤を重ねながらメノウを作るという日々が始まりました。
そうして、3年が経った頃だったかな。ようやくメノウから光を出せるようになると同時に、商品として販売できるようにもなったんです。全然売れなかったですけどね。だけど作ることが楽しかったからそれでも良かった。今、メノウ細工を作る上でかかる諸々の経費は全て自己負担だし、ほとんど毎年赤字を出しているというような状態です。だけど、それでいいんですよ。好きだし、楽しいですから。ささやかな恩返しの意味も込めて、後継者を残したいという気持ちはありますけどね。

※  本来は工人だが、職人でなくてもいい、何かの分野において巧みな人であればいいという思いのもと、名付けられた。
※2 「楽しみの少ない冬に、楽しみを創り出そう」と始められたお祭り。毎年、成人の日に伝承館にて行われる。2007年より始まり、今年(2013年)で7回目の実施。昔遊びなどの様々な体験の提供や、しろもちと呼ばれる郷土菓子の振舞いなどを行う。

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私にとっての心残り
 高校卒業後の私の就職先は大企業中の大企業で、一流企業だと評判だったらしい会社でした。これ以上の安定は手に入らないというようなその会社に入ってしばらく経つと、歩んでいく路線、つまり出世ルートがすでに見えてしまったんですよ。高卒だった私はいくら頑張っても最終的には課長止まりだな、というように。それで思ったんですよね、これじゃあ人生つまんねぇなって。だけど、典型的な日本型経営の会社に安住しているのは心地よかったんでしょうね。色んなことにチャレンジしたいという思いはあったけれど、結局はそこから抜けられなかったんですよ。二、三度チャンス、要は転職の誘いがあったにも関わらず。
 入社した頃から、仕事を進める上で何か理屈に合わないと思うことがあれば上司に噛み付いていた私は年中上司と喧嘩していました。まぁ仕事をサボりたかったというのもあるんでしょうけど。それに加えて、自分で言うのも何だけれども女性には優しく(笑)、何かにつけて目立つ行動をとる私は、上司から常に目の敵にされていたんです。要するに、組織の色に染まれない一匹狼だった。だから、本来とは違う仕事をさせられたり、もっと上の立場の人間と仕事をさせられたりすることはしょっちゅう。結果的にはそれが良かったんですけどね。例えば一度、配属ではない計画課の先輩が私のことを買ってくれていたからか、自課に引き取ってくれたことがあったんです。そこでの仕事は出張だらけだったけれど九州から北海道まで色んなところを見られたし、やりがいのある大きな仕事をさせてもらえたりしましたから。
 そんなある時、「水商売関係の店をやらないか?」という話をもらったんです。組織で使われるより、独立して何かをやりたいという思いもあったから、心は揺れたんですけどね。結局断ったのは、私の性格を重々知っている母親に一喝されたから。私には務まらないことだとわかっていたんでしょうね。それから、「製紙工場の工場長にならないか」という話をもらったこともありました。でも、その時相談した株をやっている知人の「恐らくこれから下降線を辿る業界だから、辞めておいた方がいいんじゃないか」との意見を参考にして断ったんです。その判断は正解だったと思うし、役職だけで飛びついてしまわないで良かったですね。
 まぁ、後悔するとしたら、大学に行かなかったこと。それから・・・、写真家になるという夢を諦めたことかな。

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