No.47 空間企画工房 代表 佐藤和雄さん

Story No.47      空間企画工房  代表 佐藤和雄さん

「佐藤和雄に仕事を頼みたいと思われるような生き方をしたいんです」
blog_photo47 佐藤和雄さん
Profile
1974年生。山形市出身、在住。大学にて土木工学を学んだ後、東京の総合建設会社に就職。24歳の時、Uターンし、父が経営していた建設会社を継ぐ。その数年後、庭を1からデザインする独立部門「空間企画工房」を立ち上げ、社員10人以上を擁するまでに会社を成長させる。庭づくりの他、イベント企画等を行っている。

 

モノづくりを通して
 遡ること15年前――。東京の建設会社で2年働いた後、地元に戻り父親が経営していた会社を手伝うようになった僕は当初、コンクリート工事やレンガ積みなどといった設計図に描かれたものを造っていくという仕事をしていました。お金もノウハウも技術も何も持たない自分だったけれどやらなくちゃいけない…。そんな状況下でがむしゃらに目の前の仕事をこなしているうちにいつしか、”モノを造る”ことに加えてモノをデザインしたい(設計図を描きたい)という思いが僕の中に湧き上がってきたんです。要は、物事を1から立ち上げるということをやってみたくなったんですよね。
 以来、デザインの勉強を始めて資格をとったりしたけれど、それが自信になるまではやっぱり相当の時間を要しましたよね。「果たして今の自分のパフォーマンスで屋号を表に出したり、お金を頂戴したりしてもいいのか」という迷いはなかなか姿を消さなかったですから。当初はきれいさとか正確さを重視して、つまり上手に図面を描くことしか考えていなかったですからね。その後日陰や日向といった環境条件と植物の特性を照らし合わせて自然環境をデザインするようになるにしたがって、周囲から認知されるようにもなり、ポリシーも生まれてきましたけど。
 そこから”デザイン”や”モノづくり”というテーマをさらに掘り下げたとき、最終的には”人づくり”、すなわち働く職場の人間形成という自分なりの答えに行き着いた、というか還ってきたんです。だから、誤解されるかもしれないけれど、いい庭を造ることを目指しているわけじゃないんですよ。いいモノを造ることに徹底的にこだわる職人さんのようなスタイルとは違って、僕が”モノづくり”をする上では”人”が介在している。というより、”人”を抜きにして”モノづくり”を考えられないところはあるんです。何と言うかなぁ・・・、庭を造りたいお客さんが僕らのような業者に依頼するとき、選ぶ基準というか要素って色々あると思うんですよね。価格だったり、実績だったり、そこで働く人だったりというように。僕の場合は、それが”人”だということ。つまり、お客さんからすれば彼(ら)に仕事を頼もうと言われる存在でありたいんです。僕(ら)が楽しく生きている生き様みたいなものを見て選んでもらえるような存在でありたいんですよ。究極の目標としては、設計図を描かないで庭を造れるような人間であること。きちんと描かれた設計図の図面を元に見積もりが出てくるというのが通例だし、僕(ら)も実際には図面を描きます。だけど描くにしても、図面がいいから頼みたいというんじゃなくて、佐藤和雄にお願いしたいと思われるような人間でありたいし、そういう生き方をしたいんですよね。
 実際、いい庭を造るには働いている人たちがのびのび楽しく仕事をすることがとても大事だと思うんですよ。もちろんお客さんも大事だしそれありきだけど、自分たちの内面を豊かにすることを重んじ、追求していった結果、自然とモノの仕上がりも良くなっていくんじゃないかな。心がけているのは、仮にうちの社員がうちの会社を辞めたとしても、他で通用するような”人づくり”をすること。僕自身がまだまだだなと思うことはあるけれど、その過程において自身も磨いていくことが結果的には地域や世の中を良くしていくことにつながると思っていますね。
 確かに、僕らの仕事は平たく言えば”モノづくり”の仕事です。でもその中に、庭を造るという行為の中にお客さん、そして僕ら作り手の”思い”や”物語”が入り混じってくるから面白いんです。そうなると、本来はきっちり描くはずの設計図がだんだん崩れてくるというか定規なんぞ使わずにフリーハンドで描くようになりますから。僕は造る前段階でのお客さんとのやりとりがすごく好きで、そこで「あ~、生きてるな」っていう感覚を得られるんですよね。そういう意味では、実際の作業に取りかかる前に8割方力を尽くしているところはあるかもしれません。もちろん、その後の仕事もきちんとやりますけど。(笑)
 やっぱり僕の意識は気づくと”人”というテーマに吸い寄せられていってしまうんです。要するに、それだけ人に対する興味が強いんですよ。振り返ってみれば、子どもの頃からそういうところはありましたよね。

僕を動かしていたもの
 小さい頃の僕が好きだったのは、例えば戦国武将などといった歴史上の人物が描かれた伝記を読むことでした。それゆえに、中学校の頃なんかは休みの日になると一日中本屋にいましたからねぇ。そういう本を片っ端から読んでいた中でいつしか僕の中に「運が良くなったり悪くなったりするのはなぜだろう?」「国が栄えたり滅びたりするのはなぜだろう?」というような問いが生まれ、さらにその先で出逢った「人って何だろう?」「生きていくって何だろう?」という問いが大きなテーマとして存在感を示すようになっていました。と共に、その時々でやっていることを歴史上の人物に置き換えて考えてみる、つまり「歴史上の人物が同じ状況に直面していたらどのように行動したのだろうか?」という視点が僕の中に生まれたんですよね。そうして僕は、いつしか「社会人になって世の中に出たら、どんな仕事でもいいから何かを成したい!」とのはやる気持ちを抱いた少年となっていたんです。
 ――そうは言っても、常に前向きなエネルギーに満ちあふれた少年時代を過ごしていたわけではなかったですけどね。高校生の頃、1年半くらいの間は絶えず自身の存在価値を疑っていたし、自分なんか死んだ方がいいんだとずっと思っていましたから。勉強も全くやる気がおきないし、生きる気力もない。それに体も痩せていく…。この世のことがみな煩わしくなり、修行僧になって山奥で真理を追求した方がいいんじゃないかと考える時期もありましたから。そんな風に精神的にどん底に落ちているという状態から自分がどうやってカムバックしたかはわからないけれど、そういう時期は自分にとって必要だったとは思っています。――
 話を戻すと、本を通して出逢った武将たちのように皆で何かを成し遂げるにはどうすればいいのだろう・・・?そんな考えを巡らせているうちに、僕の中に芽生えてきたのは仕事が何だったとしても人の上に立ってうまく人を束ねることを極めてみたいとの思いだったんです。そんな思いが、会社をいっぱいやってみたい、言い換えれば社長になってみたいという漠然とした夢を僕の中に描き出したんでしょうね。言い換えれば、果たして自分はどれだけやれる人間なのか、どれほどの器を持った人間なのか試してみたかったんです。だから、根拠のない自信に満ちあふれていた大学4年の頃なんかは、早く社会に出たくて仕方なかった。
 そんな風に俄然意気込んで大学を卒業し、社会人生活をスタートさせた僕だったけれど、仕事をしたことがない状態で描いた大きな夢など現実の前では夢でしかないと思い知らされましたよね。卒業後、東京にある家業と同じ土木建設業の会社に入ったんですけど、色んな面において自分は何もできないという現実をつきつけられましたから。
 だけどその後、仕事を覚えるにしても、資格をとるにしてもどうせならビシッとやってみようと気持ちを切り替えた僕は、まずは使われやすい人間になろう、そのときの自分にできる精一杯のことをやっていこうという思いを抱くようになりました。その時にも、今まで読んできた本が役に立ったんですよね。というのも、何かを成した人ってたいがい不遇な状況からスタートしているじゃないですか。それを自分自身に当てはめると、例えばテーブルを拭いていたとしても、ここを出発点におれは栄光への階段を駆け上がっていくんだという考え方ができたんです。自分の人生を物語として捉えた時に、必要なステップだなと。
 まぁ、当時(10代、20代の頃)は今よりもずっと生意気だったしギラギラしていたかもしれませんねぇ。ギラギラしていたし、たぶんキラキラもしていた。(笑)何と言っても、入社した年の7月に今の妻と結婚しましたからね。冷静に考えれば、社会人として何もやっていない人間が結婚したところで、どうやって家族を守っていくのかという問いには必ずぶつかるんですけどね。若さというか今はない勢いがあったんでしょう。それに、「おれは(そこの会社で)社長になる」と豪語していましたから。(笑)
 思いもかけないことに、間もないうちに夢破れたり…という結末を迎えましたけどね。実家に帰り、親の会社を継ぐことを決めた僕は2年でそこの会社を辞めたんです。というのも、実家で父親が営んでいた会社の経営状態が良くないという情報を折に触れて耳にしていましたから。とは言っても、まだキャリアの浅い自分にできることがあるのか疑問だったし、社長になるとのたまわった手前、後に引けないし…。とにかく、会社を辞めて実家に戻るという決断を下すまで、ものすごく葛藤はありましたよね。最終的に僕の決断を左右したのは、長男として家業を存続させていかねばという責任感だったと言い切っても間違いではないのかもしれません。――辞める数年前、その会社の採用面接の時にも、最終段階で「地元の土方の息子だから、どうせ辞めるんだろ?辞める奴なんか入社させられるわけねぇ」と常務から揺さぶられたわけですよ、おそらくどこまで本気かを確かめるために。そこで僕は調子こいて言ったんですよね「腰かけ程度じゃありません」と。さらには「おれを入れなきゃ損だ」くらいのことを言っていましたしねぇ。そんな大見得をきっておきながら2年くらいで辞めるわけだから、それはもうめちゃくちゃかっこ悪いわけですよ。(笑)まぁ、今となっては若かりし頃のそんな自分がほほえましく思えますけどね。(笑)当時、20代前半の自分なりには一生懸命やっていたわけですし。――
 実際、帰ってきてから10年くらいは金銭的に大変な状態が続きましたからね。技術もない、ノウハウもない、金もないという、まさにないない尽くしだった。まぁ、そんな過去ありきというか、その経験が今に生きているとは思いますけどね。ほんと、気持ちだけでも前向きにもっていかないとやっていけないような状況でしたから。

僕を動かしているもの
 地元に帰ってきても人を束ねたいとの夢は色あせなかったけれど、当時は自分だけの幸せしか考えていなかったですよね。周りのことは考えていなかったがゆえに、仕事をしていても「自分はこんなに頑張っているのに、なんでこんなにうまくいかないんだろう?」といつも感じていましたから。どれだけがむしゃらにやっても結果がついてこないし収入もすごく低かった。当時の僕は求道者というか、一心不乱に何かを求めていたような気がします。もちろん悪いことばかりではなく、絶対量をこなして初めて見えてくる境地もあったし、そのステップを抜きに自身が削げないところもあるのかなとは思いますけど。
 そんな僕の背中を通して、周りに「君たちも頑張ってほしい」というメッセージを暗に伝えようとしていたから、もどかしさは募るばかりでしたよね。もしそこで終わってしまえば、世を恨んで終わりだったかもしれない。だからそこで踏ん張って一つ壁を超えられたのは良かった。
 というのも、ある時ギラギラしたところがゲソッと抜け落ちたんですよ。「たった一度きりのこの人生をどうやって輝かせられるか?」という最大のテーマは、30代半ばを過ぎてからかなぁ・・・「自分だけが輝くことよりも、人が輝くことにどれだけお手伝いできるか?」というテーマに変わっていったんです。たった100年弱しか生きられないこの人生の中で、どこまで人を育てられるか、どこまで人のためにやれるかということが面白いと思えるようになってきた。要するに、自分だけの幸せは僕にとって真の幸せではないことに気づけたんです。きっとそれは、経験や歳と共に周りに目が向き始めたというか社会が視野に入ってきたからなんでしょうね。実際、そんな意識変化が僕の中で起こった後、数字もついてきましたから。それに、好きなタイプの歴史上の人物も変わってきましたからね。例えば名を売ろうとはせずに地道に活動されていた方、誠実な生き方を貫いた人にも興味を持つようになったというかすごいと思えるようになりましたから。
 それは”経験”と”本”という二つの歯車がうまく回り始めた時期でもあったんですよね。やっぱり、本の中には有名無名問わず、何百年も前に生きていた人たちが友達のようにいるわけですよ。彼らは僕に色んなことを語りかけてくれるし、色んな勇気をくれる。失敗した事例に関しても生き様として露になっているわけですし。そんな彼らに出逢うにつけ、「僕がその時代に生まれていたら、果たして楽しく生きていたのだろうか?」という問いに還ってゆくんです。そうやって彼らと自分を比べては、いつもまだまだだなぁと思わされるんですよ。まだまだ自分は器小せぇな、彼らが同じ歳の頃はもっとすごいことを成していたんだから、僕より辛い経験にぶち当たってもなお成すべきことをしているんだからって。それは同時に僕にとっての大きな原動力、中学生の頃から変わらない僕の原動力なんです。

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