No.49 月山ブナの森楽園 ブナの森ガイド 横山完さん

Story No.49  月山ブナの森楽園  ブナの森ガイド 横山完さん

「人生を語れるほどのものを、森は持っているんだと思っています」

blog_photo49 横山完さん
Profile
1951年生。西川町睦合出身、在住。高校卒業後、大学進学のため東京へ。大学卒業後、東京都の公務員となり、ケースワーカーとして約10年間勤める。1985年、Uターン。91年、山形県立自然博物園(以下、ネイチャーセンター)のオープニングスタッフとして就職し、来園者に森の魅力を伝えるガイドの仕事をするようになる。その中で、徐々にブナの森が持つ魅力に惹かれていく。数年前に自然博物園を退職するも、その後は月に一度開催している自主企画「こころの日曜日」やシニアの感性で森に触れようという企画を通して、変わらずブナの森の魅力を伝え続けている。 月山朝日ガイド協会HP:http://ga-ga.jp

森に魅せられて
 ――遡ること20年前。地元にUターンしてから6年。1つの就職口としてネイチャーセンターで働き始めた当初、私の胸中にあったのは、来園者に森を案内するにしても「癒されて帰ってもらえればいい」とか「植物の名前を覚えてもらえればいい」という程度の思いでした。でも、働く中で森で過ごす心地よさを知り、森の持つすごさを知っていくうちに、それだけじゃ満足できなくなってきたんです。というのも、信念というか気負いみたいなものが徐々に芽生えてきたんですよね。森にはただ単に自然があって癒しがあるというだけではなく、哲学とか生き方まで含まれているのだから、これを職業として誇りあるものに確立し、ネイチャーセンターを周りにもその感動を与えられるような施設にしてゆけるんじゃないかって。それくらい言っても大げさではないくらいの力をブナの森は持っているんだ…というような。
 その“すごさ”には確信を持っているし、それを言葉にできればいいんですけどねぇ。残念なことに、なかなかそれができないんですよ。それに、無理して語ったところで薄くなってしまうと思うんです。いや、例えば新緑や紅葉の素晴らしさといったところにテーマを絞れば、数百字で書くことはできるのかもしれません。でも、自分としては森を通して”人生”という大きなテーマをも書けると思っている以上、そこを伝えたいんですよ。
 やっぱりブナはドラマチックなんですよ。はげしく迫害され、冷遇されたという”悲劇の主人公”たる背景があるからこそなお、私にとってはしっくり来るんですよね。思い込みの激しさゆえの主観なのかもしれません。でも、史実としてもちゃんとあるんですよね。高度経済成長期以降、ものすごく伐採されることを始めとして、さも邪魔者のごとく扱われたブナ林が、いつしか世界遺産(大規模なブナの原生林がある白神山地は、1993年にユネスコ世界遺産に登録された)にまでなった…という面白くてドラマチックなストーリーが。それは決して私にしかわからないようなものではなく、もっと広く一般的に受け入れられるものだと思うんですよね。
 やっぱり私にとってブナの森はすごいと思い込めるものなんですよね。だからこそ、20年という時間、関わり続けてこれたんだと思いますから。

ブナに魅せられて 
 「70歳でようやく花をつける」こともブナの魅力の一つだと思います。「60代で基礎を作って、70歳で一花咲かせようとしている」私たちの世代にぴったりの木だと思うんですよ。そんでもって、ブナが咲かせるのはクマが喜ぶほどの花。要するに、目立たない。でも、よく見ると感動する。そんなブナの花を実社会なり人間と重ね合わせるならば、「一花を咲かせるとは言っても、一攫千金を狙って何か大きな成功を収めるというような咲かし方ではなく、ささやかな、ある意味ではつまらない(金にならない)喜びなり幸せを追いかけることで輝いてゆくというような咲かし方を…」というメッセージをブナはてらいもなく自然体で訴えかけてくるんですよね。さらには、おしべやめしべのつき方にも、一つ一つに緻密さがあって…。ということを言っていると、研究者の人からは、「ブナは計算していませんよ」と言われるんですけどね。(笑)まぁ、スギにせよ、マツにせよ関心を持って知っていけば、ブナと同じように惹かれていくのかもしれませんけど。実際、山形県内にある天然のスギ林なんかはすばらしいと思いますから。羽黒のスギ並木にしても然りであって。
 でもやっぱり、ブナの深みとか安定感っていうのは他をしのぐと私には思えるんです。例えば、樹齢約250年という、森を作る木としては短命であることもブナの特徴の一つなんですね。1000年以上の時を生きる縄文杉とはまさに対極のところにある存在で。他にも対極的な存在としてクリやクヌギ、ナラなんかが挙げられるんですけど、彼らはすごく大きくなるわけですよ。巨木になった結果、それが何かのシンボルになったりするし、子どもたちにも親しまれる。ひるがえって、ブナはといえば、なかなか大きくならないから子どもにとっては夢のない木なんですよね。でも、クリやナラの森はない一方で、ブナではすごい森ができてしまう。・・・という風に悪口になると嫌なんですけどね。つい熱が入ると、そういう言葉が出てきてしまう。(笑)まぁ、自己弁護するならば、ブナがあまりにも迫害されているから擁護するということなんですが。それに、そんなブナの巨木を目指さない”深さ”みたいなものが、私にとってのキーワードだということ。冷静に見れば、ブナにせよクリにせよ棲み分けをしながら、森は全てを受け容れているということなんでしょうけど。 

今、胸にある希望
 やっぱりブナや森のことになると、つい熱が入ってしまう私がいるんですよね。
 「高度経済成長期以降、経済の理屈からすれば、成長は遅いし材木として用途の少ないブナは必要とされてこなかった。だからブナは伐採される一方で、すくすく伸びて、しかも材木としては優秀なスギとかカラマツといった”エリート”が代わりに植えられてきた。」私が森のガイドをする時、冗談半分に、だけど半分は本音としてそんなことを言う時があります。
 というのもまず、そういう見方で森を見れば、社会と同じだなということに気づけるんです。要するに、日本社会の中でも同じような構図があるということが、森を通して透けて見えてくるわけです。だから、森がわかってくると、実社会のしくみが明快に理解できる世界にとってかわるんですよ。その理屈を自身に当てはめれば、カラマツのように生きようとしていた過去の自分自身がいたわけですよね。一旗挙げるべくして東京に行ったけれど…というように。でも、森においては、自然の摂理にしたがってスギやカラマツは倒れていき、本来の姿へと戻りかけている。そんな森の現状は、ものごとを理屈づけて考えたいという自分の性分も手伝って、実にわかりやすいものとしてストンと落ちてきた。そして何より、東京での挫折を経て、”負け組”のような意識を胸の奥に抱えながら地元に戻ってきていた自分自身をブナに重ねられたおかげで救われたんですよね…。以来、限度を超すくらい事あるごとにブナと自分とを重ねてしまう私がいるんです。
 そのプロセス、つまり二次林の森から極相林に向かうプロセスは、「どっちが勝った負けた」という競争原理で受け止められがちです。でも私はそれが自然のダイナミズムだと思います。確かにこの考え方は越権行為なのかもしれません。冷めて捉えられることもあります。でもやっぱり、科学的に証明されたもののようなわかりやすい形ではなくとも、森は示してくれている、伝えてくれているんじゃないかと思うんですよね。きっと、競争社会の中で打ち勝ってきた、負けてきたという思いがそれぞれ(特に私と同じ世代の人たち)の心の中にあるはずなんです、苦い記憶として。だからこそ、彼らは森に来た時、「勝った負けたではないんだ」という理解なり捉え方を心のどこかで求めているはず…。という自分の信念を相手に伝えることで、たとえ反発はあったとしても、「確かに一理あるな。そういう見方をすれば、そう捉えられるかも、楽になれるかも…」と多少なりとも感じてもらえればいいなと思っています。 
 そういう意味で、ここで森の魅力を伝える仕事は普遍性があると思うんです。どういう人が来ようとも、手がかりはあるんじゃないかと。だから、自身の非力さ、つまり森の魅力を伝えきれていないことに多少の悩みはありつつも、最終的にはわかってもらえると信じられるからこそ、楽観的にはなれるんですよね。
 自身が今、そういう状況にあるから、例えば絵とか音楽とか、分野は違おうとも何かに一生懸命になっている人を認められるところはあるんですよね。きっと同じような感覚なんだろうなって。誰しも「これさえあれば救われる、つながれる」というようなものを一つずつ持っているんだと思うし、それがあれば優しくなれる気がしますよね。
 何を隠そう、それこそがシニアの感性で森に触れようという企画の目的なんですよ。それぞれが「これさえあれば救われる」というものを見つけることできっと輝いてゆける。確かに今、参加の申し込みが少ないという現実はあります。でも、「職場という生産点から解放されてようやくやりたいことをやれる!だけど、そのやりたいことがまだ見つかっていないから見つけたい」という人はいっぱいいると思いますから。

今、胸にある葛藤
 「こころの日曜日」にしても、目指すところは似ています。森を通して自分自身を縛りつけているものから解放できるようなきっかけを作りたい。そんな思いがあります。
 でも、どこまで”解放”できるか――。そこを問うた時、葛藤が生まれてくるんですよね。
 参加者の人が一時的に日常から解放されるため、あるいは逃げるために月に一度森に来て忘れられればそれでいいのかなとの思いがよぎることもあるし、それなら私にもできるんです。だけど、私としてはそれ以上を目指したい。目標としては、参加者の人が森からの手がかりを整理してその人が今ぶち当たっている問題を解決できるということなんです、たとえそれが自分もできないことではあったとしても。でも、現実的に考えて、それはできないことだという戒めは常にしているんですよ。「すっきりしたから、今晩はよく眠れそう」って言ってもらえただけで満足しなきゃだめなのかなって。だけど…。やっぱり、それはただ単なる”逃げ”にすぎないという思いが消えることはないんです。
 それに、本当に届いてほしい層、つまり心の病を抱えて病院に通っているような人たちに届いていないというもどかしさもあります。とは言え、その世界で闘っている専門家にいったい何ができているのかを考えると、結局私が考えていることはその世界の”リアル”を知らないからこそ生まれる憧れにすぎないのかもしれません。身近にいる、心を病んだ人たちと関わっている人から認識の甘さを指摘されたりしますしね。
 そういう自身の弱さみたいなものは感じるし、社会的に確立されていない土壌で何かをやろうとすることのむなしさはある。でも、それがかえってというか、非常にやりがいを感じられるんですよね。まぁ、何が大切かをきちんとわきまえていないと自己満足で終わってしまうから気をつけてはいます。でもその一方で、壮大な目標は変わらず私の中に腰を据えているんです。

私の役割
 そんな風にもがいている、否、そういったもがきも含めて全体としては楽しめているという現状にあって、森の中に大きなきっかけがあると思うからこそ、投げかけているし、それをするだけの価値はあると思っています。月1回森に来れば「わかった!」という風に誰しもがなれるはずですから。・・・やっぱり、自信はあるんです。快適さという点で言うならば、森で過ごす”快適さ”を体験してしまうと、いかにエアコンの温度や風量をいい塩梅に調節したところでてんで勝負にはならない。そして水で言うならば、今の時代、お金をかければ美味しい水が飲めるのかもしれないけれど、森に入れば垂れ流すくらいに湧き出るタダで美味しい自然水が飲めるわけです。…というような強みはある。だから森は”絶対”というか、とにかく人間が到底及ばない世界を平然と、事もなげに晒しているというかなぁ。画期的な科学技術に裏切られることはあっても、森は裏切らないですから。それだけでも、困ったとき、森に相談するのが筋なんだろうと思いますよね。 

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