No.50 釣り具の荒木 店主 荒木亘亮さん

Story No.50  釣り具の荒木 店主 荒木亘亮(のぶあき)さん

「色んな面で、人にはそんなに大差がないと思っています」

Profile荒木亘亮さん
1947年生。奈良県出身。山形県大江町在住。5兄弟の末っ子。(兄2人、姉2人)高校卒業後、東京の専門学校でグラフィックデザインを学ぶ。卒業後、アメリカのデザイン学校に進学するため海を渡るも、一転、アメリカを旅すること1年弱。その後、約1ヶ月間のヨーロッパの旅を経て日本へ帰国。外資系の出版社、広告会社での勤務を経て、デザイン事務所を起ち上げ独立。その後、34歳の時より妻と息子を連れインドネシアへ。現地資本の広告会社にて働き始める。7年半後帰国。仙台でデザイン事務所を開き、再びフリーランスとして10年を過ごす。50歳をすぎた1998年、釣り具屋を営んでいた妻の実家を継ぎ、妻と大江町に移住。今に至る。

 

幼心に芽生えた憧れ
 「空を飛んでみたい」―――思えば、そんな憧れが始まりだったのかもしれません。
僕が生まれ育った奈良の上空は空路となっていて、飛行機をよく目にしたからでしょうか。物心がついた頃から飛行機が好きでした。そんな気持ちがいつしか<何であんなに高いところを飛べるんだろう?鳥は空をと飛べるのに、なんで人間は空を飛べないんだろう?>という疑問を僕の中に生み出し、なんとか空を飛んでみたいという憧れへと形を変えていったんです。
 そんな憧れが消えることなく胸のどこかに居座っていたんでしょう。高校2年の時、担任の先生に告げた将来の希望進路は「飛行機に乗りたいから、パイロットになれる学校に行くこと」でした。時代はと言えば、高校卒業後の進路としてまだ就職が多数派を占めていた1960年代半ば。もしふつうの先生なら「そんなん辞めた方がいいんちゃうか」と言ったかもしれません。でも、そのジャーナリストあがりの国語の先生はいい先生だったんです。「そんなとこ行きたいって言ったやつ、初めてやぞ」と言いながらも調べてくれて、「宮崎にある航空大学校が一番近道ちゃうか?」と提案してくれたんですよ。結局は、身長とか視力とか色んな厳しい条件ゆえに叶わぬ夢だとわかったからあきらめたけれど、親身になって考えてくれる大人にめぐり逢えたのは幸運でした。
 じゃあどうしようかな、と思いめぐらせていた時、浮かび上がってきたのが”絵”だったんです。<そう言えば、小・中学校の時、絵のコンクールで賞とったなぁ。今でこそ絵とは離れた生活を送ってるけど、絵は得意と言えば得意やから、それで仕事できたらええなぁ…>ということで先生に伝えたんですよね、「広告とかのデザインをやってみたい」と。そしたら先生は奈良に住む知り合いの画家に僕を紹介してくれたんです。「デザインの勉強をしたいやつがいるから、教えてやってくれないか」って。画家の人も頼みを引き受けてくれて、日曜日の午前中、そこに通うようになったんですよね。
 浪人時代。そこで勉強を続ける傍ら、芸術分野の最高峰と言われる東京芸大で大学の雰囲気を感じながら絵の講習会を受けました。その講習会に来ていた、小さい頃からずっと絵を描いてきたような連中と自分とを比べた時、到底勝ち目がないなと思わされました。その後迷った末に結局、京都市立芸大を受験するも不合格に終わった僕は、半ば投げやりな気持ちで東京のデザイン専門学校へと進学しました。
 その学校にはアメリカ流のデザインを学んだ日本人と一緒に仕事をしていた経験を生かし、授業でアメリカスタイルのデザインを教える先生(以下、先生)がいたんですけど、向こうのデザインスタイルっていうのは、それまで僕らが本で読んできたものとは違うスタイルだったから新鮮に感じられたんですよ。だったら本物を見たいということで、現地に行きたいという思いが芽生えるのは自然な流れだったんです。

外国で過ごした時間
 まだ1ドル=360円だった1970年。デザイン学校を卒業した僕はアメリカに行き、デザイン学校をいくつかまわりました。その中で、先生の同級生のデザイナーに薦められたサンフランシスコにある私立のデザイン学校を受験して入学許可は取れたものの、学費と生活費を合わせればかかるお金はざっと見込んでも1年で300~400万。<これでは親に行かせてくれとは言えないな…>という理由で早々に進学の道は諦めたんですよ。そもそも、英語は全然できないし「絶対アメリカでデザイン学んでやろう!」みたいな強い気持ちが僕にはなかったですから。その後は一転、偶然出逢った旅をしていた大阪出身のカメラマンの青年とバスでアメリカを周ったりというように色んなところに足を運びました。
 結局1年弱ほどの期間をアメリカで過ごしたかなぁ。ナイアガラの滝とかグランドキャニオンとかいわゆる観光名所だけじゃなく、例えばシアトルにあるボーイング社のようなところにも行きました。というのも、子どもの頃から好きだった飛行機を近くで見てみたくって。それで、ボーイング社に手紙を出してみたんですよね。「興味があるので飛行機を見せてもらえませんか?」って。そしたら「いつでもOKだよ」という返事が来たもんだから、胸を躍らせてボーイング社に行ったんだけど、入り口で告げられたんですよ「週に2回、団体の社内見学ツアーがあるから、見学したい場合はそちらに参加してください」と。でも手紙を送ったことを話すと部長さんが出てきてくれてきちんと対応してくれたんです。たまたまその場に居合わせた、当時ボーイング社と取引をしていた日商岩井の社員さんも通訳代わりにと一緒に回ってくれましたしね。デトロイトにある自動車メーカー・フォードの博物館に行った時もそう。ふつうは団体のツアーでしか回れないところを、僕とカメラマンの2人で飛び込み(紹介状がない状態)で行って「どうしても中を見たいんだ」と頼んだらOKしてくれて、色んな話を聞かせてくれましたから。
 デザイン学校時代に制作した作品を持って、トンプソンやヤング&ルビカムといったデザイン会社にも行きました。それぞれ必ずアート・ディレクターが対応してくれたんですけど、彼らはまず「あなたは何をしに来たのか?」と問うんですね。要するに、こちらの意志を確認するわけです。それで「この会社ではどういうことをしているのかを見たい」と言うと、社内を案内してくれたりというように丁寧に応対してくれました。そんな風に自分たちの会社なりやっている仕事に興味を抱いている人を受け入れる体制が整っているという点では、アメリカの会社はすごくいいなと思いましたね。ほんと、どこに行っても例外なくそういう接し方をしてくれましたから。しょせん僕は一人の”旅人”でしかないんだけど、電話帳で行きたい会社の番号を調べて、電話をかけて、「日本から来てデザインの勉強を…」と言えば必ず会ってくれましたからね。
 そうそう、当時、ヤング&ルビカム社のトップは日系人だったんですね。それで、てっきり日本語が通じると思って会いに行ったのが大間違い。(笑)全然日本語をしゃべれなかったんです。それでも、「今度、英語を話せる人を連れてくるから、もう一度会ってもらえますか?」と聞いたら、「OK」だと。少し経った後、現地で出逢った日本人の女の子を連れて再度訪れた時も、ちゃんと応対してくれて色んな話も聞かせてくれました。
 僕がそうやって会社を訪れている合間にも、何らかの目的を持って会社を訪れる人たちがよく来ていたんですよ。あるカメラマンの例を挙げるならば、たくさんの作品を持ってきて、一つひとつ説明していくわけです。そんな彼の姿勢をアート・ディレクターは無下にすることなく、「この作品はダメ。広告には使えない。でも、この作品はいい。こういう撮り方をしなさい。この撮り方を勉強して、身につけばもう一度来なさい。」と帰していました。たとえ飛び込みで来た人であってもちゃんと対応していましたからね。まぁ、これはあくまでも1970年頃の話ですが。(笑)
 アメリカでの旅を終えた後、日本ーヨーロッパ間の往復航空運賃が50万を下らなかった当時にあって、運良くアメリカーヨーロッパ間往復180ドル(日本円64800円)の航空チケットを手に入れた僕はヨーロッパへと発ち、ユーレイルパスを使い1ヶ月ほど周遊の旅を続けたんです。
 結局日本に帰ってきたのは、1971年9月。先生に紹介された、六本木に本社を構える外資系の出版社で働き始めました。そしてその後広告会社での勤務を経て、独立。デザイン事務所を開きました。
 それからしばらくの時が経ちました。――<独立はしたものの大した仕事はできてない。仕事はマンネリ化してるし周りと同じことやってるから、このままやと埋もれていってしまいそうや…>そんな思いを抱いていた時に、ちょうど良いタイミングでデザイン学校の先生に声をかけられたんです「インドネシアの現地資本の広告会社を一緒に手伝わないか?」って。その誘いに乗った僕は、開いていた事務所を畳み、妻と小学校1年生の息子を連れて新天地ジャカルタへと移住しました。その先生と言えば、結婚式で仲人を務めてくれたりなど、デザイン学校卒業後も公私両面でお世話になっていた人。その先生が現地に行って仕事をしていた2年程前からやりとりはしていたし、インドネシアには何だかんだと縁があって何度か足を運んでいたこともその選択を後押ししましたね。
 ジャカルタで暮らしていた1980年代当時、そこはまだまだ貧しい人も多く泥棒も多い場所でした。だから、日本人である僕らは家庭につき1台か2台の車が与えられ、どこかに行く時は必ず車で移動するように言われていました。(現地に進出していた日系企業の従業員の子どもが多い)日本人学校に通う子どもたちにしても、「町を歩くな。公共バスには乗るな」など安全面には口酸っぱく言われていたんです。とにかく経済格差はすごく大きかった。でも、そんなジャカルタで暮らしていると、例えば何かモノがなくなった時は隣の家から借りたり、逆に隣の家が困っていれば貸してあげたりという助け合いみたいなものが日常の中にありふれていたんです。そんな日常風景は、懐かしさと共に僕の記憶の片隅にしまわれていた思い出を呼び起こしたんですよね。当たり前のように隣の家にご飯を食べに行ったり、醤油とか砂糖がなくなれば近所の家同士で貸し借りなどをしていたという子供の頃の思い出を。

僕が実感していること
 日本人の子どもたちがのびのびと外で遊べないという環境の中、妻が彼らを自宅に集めて一緒に絵を描いたり、工作をしていたんですけど、土日の休みを利用して僕もそこに混ざるようになったんです。
絵を描く時、子どもたちは紙とクレヨンさえ与えれば色んな風景を見たまま、感じたまま素直に描くんですよ。だけど日本人独特なのかどうかはわからないけれど、(母)親がそうさせなくて。つまり、お母さんの観念で子どもに絵を描かせようとする光景がすごくよく見られたんですよね。例えば、威嚇してくる犬の目が大きいと感じて体の割に大きな目を持ったユーモラスな犬を描く子どもに「それは犬じゃないでしょ」と指摘したり、水量が増え溢れんばかりの川の水を茶色で描いていた子どもに「川の色は水色でしょ」と指摘したり…。そういうことが続くと子どもは絵を描くことがだんだん嫌いになっていってしまうと思うんですよね。僕としては、子どもになるべく好きなように描かせたかったし、自由に描かせるのが一番いいんじゃないかと思っていたから、折に触れて母親に自身の考えを伝えるようにはしていましたね。
 「まずモノを見なさい。よく見て書きなさい」子どもに絵を教えるとき、僕はいつもそんなことを言っていました。理論やテクニック云々じゃない。上手で下手でもいいから、モノをよく見て正直に描くことが一番だと。最初、多くの子どもは、地面に絵を描くということから始まると思うんです。大人には彼(女)が何を描いているかはわからなくとも、おそらく本人なりに”何か”を描いているんですよ。そこを出発点に、だんだん絵を描くことが好きになり、結果として絵を続けていけるんじゃないかなと思うんです。逆に、好きじゃないと続けていけないでしょうから。
 というような私の考えの背景には、高校3年のとき絵を教わっていた画家の人が主に小学生の子どもを対象に開いていた絵画教室で目にした光景があるんですよね。その先生は、子どもたちに「見たままを描きなさい」という教え方をしていたし、助手を務める人にしてもそういうスタンスだった。だから例えば、絵を描くことが嫌になり、画用紙の上に水をぶちまける子がいても決して否定はせず、それはそれで面白い絵になるというような接し方をしたり、水彩絵の具で描くのが難しいと思われる歳の子どもであっても本人が水彩絵の具で描きたいと希望するならばそれで描かせてあげたり…。とにかく子どもたちが絵を描くことを好きになるようにしたい、絵を描きたいという自らの意志で教室に来るようにしたいという思いを彼らの背中に感じたんですよね。それが功を奏していたのかどうか、はじめは絵を描くことに興味のない子でも回を重ねるごとに変わっていきましたから。

Pocket

1 2