No.50 釣り具の荒木 店主 荒木亘亮さん


 もっと辿れば、そんな僕の思いの根底にあるのは、人の才能に大差はないという考えなんです。確かに多少の差はあるでしょう。それよりも、思い切ったことをできるか、できないかの差の方がはるかに大きいんじゃないかな。たとえば絵を描くにしても、みんな同じように才能を持っているんだと思うんです。でもその才能をうまく伸ばしてゆけるかどうかは、きっと環境なり人との出逢いなりに大きく左右される。歌や演劇、文章とか他の分野でもおそらく同じこと。後天的なものの方が僕は大きいと思っていますね。
 僕がそう思うに至る、実体験があるんです。――小3か小4の時だったかな~。奈良県が主催する写生大会に、僕のクラスから2名が参加することになったんです。そのうち1人は習っていたからか上手に絵を描く、僕と同じ名字(旧姓:宮崎)の宮崎くん。それで先生は<あと1人誰にしようかな?たしかクラスには宮崎っていう奴、もう1人おるぞ。ん?どっちが絵の上手い宮崎や?どっちも名前難しくて読まれへん。ほんなら、2人とも行かせたらええわ…>と考えたあげく僕に白羽の矢が立った…と推測してるんです。まぁその経過はさておき、案の定、一緒に行った宮崎くんは賞をとったけれど、僕はとれなかったわけです。それでやるかたない思いを胸に、美術の先生に相談に行ったんですよ。「僕が選ばれるなんておかしい!絶対僕は間違って選ばれたんだ!」って。そしたら先生はこう返してくれたんです。「じゃあ、放課後、週2回、絵を描いてみないか?」と。
 以後、2年半くらいかなぁ。先生の提案通り週に2回放課後に絵を教えてもらうようになったんですけど、5年の時に賞をもらえたんですよ。おまけに6年の時も、全国大会で賞をもらえた。そう、6年の時に入賞した絵というのが、確か夕日の絵だったなぁ。キャンバスをほとんど真っ赤に塗り尽くしていたから、「レンガなんか夕日なんかわからへん」というような批判をクラスメイトから受けたんです。でも、先生は「これがいい」と、その絵を評価してくれたんですよ。
そういう経験を受けて、まず”見る”ことやな、感じたことを描ければ絵になるんやなと。才能なんてなくとも、きっかけがあって練習すれば、絵を描けるんやなと実感したんですよね。それが、絵を描くことにおける、僕の一番の原点。全く絵が好きじゃなくて、絵の勉強をしたことのない人間が、たまたま勉強をし始めて賞を取るまでに至ったわけですからね。やっぱり、才能に雲泥の差はなくて、大事なのはうまく引き出せるかどうかだと思うんです。ということは、正しいかどうかはわからないけど、力を込めて言えますね。(今もって事の真相はわからないけれど、もし美術の先生に「ごめん、実はあなたの言う通り、名前間違っていただけなんだ」と言われていたら、それで終わりだったかもしれない。そう考えると、いい先生に出逢えたんやなと思いますね。)
 「創作の世界だと、こいつにはどうしても敵わないと思う人もいるんじゃないか?」そう問われることもあるかもしれません。
 確かに、才能が両者を分けているところもあると思います。だけど、きっとそれだけじゃない。力のある人、結果を残している人っていうのは才能豊かなのかもしれないけど、とにかくその分野に関するたくさんのものを見ているんですよね。少なくとも僕が出逢った人、福田繁雄さんはそうだった。彼の家のかなり広い仕事部屋には、作品を作る上で資料となりうるありとあらゆる本やモノがありましたから。われわれとは比べ物にならないくらいの数を持っていたんです。きっと持って生まれた才能に加えて、そういう資料を見て情報を得て、引き出しを増やすという”努力”ありきで仕事をやっているから有名になれるんじゃないかな。
 その資料、例えば絵を見たときに感じること、得ることはそれぞれでしょう。福田さんに才能があったからそれを自身の作品づくりに生かせたという意見もあるかもしれません。
 でも、僕は”経験”だと思うんですよ。自分がこれまでの人生でどれだけのことを経験してきたかで絵の見方が変わってくるんじゃないかって。わかりやすい例を挙げるなら、モナリザの絵を見たとき、子どもたちは「気持ち悪い!」と言うわけですよね。一方で、大人はその絵が描かれた背景などを自身の経験をもとに想像したりするわけだから、感じ方は変わってくる…。というふうに僕は考えています。
 結局、僕が言いたいのは、色んな面で、人間、そんなに大差はないんじゃないかってこと。きっかけや努力、人との出逢いや交わりに大きく影響されるんじゃないかってこと。もちろん、それらを手に入れるためには棚からぼた餅ではなくて、自分から飛び込まないといけないですけどね。仮にこの人に会いたいな、話聞きたいなと願う人がいたとしたら、何なりと努力はすべきなのかなって思うんです。
 手紙を出すなど、自分なりにけっこうそういうことはやったけど、有名な人の中でもちゃんとした人は、必ず返事をくれるし、ちゃんと対応してくれましたね。でも、それも意志の力というか、やっぱり人と同じことをしたくないという思いが僕の源にはあるから、<何か違うことできへんかな?>と考えた時に思いついたのが手紙やったという話なんです。今はもうそういうエネルギーは枯れてしまったけど、若い時はたえず湧き出ていましたから。(笑)

変わらない思い
 僕のこれまでの足跡を辿るなら、数多くの場面でその思いに行き着くでしょうね、人と同じことをしたくないという変わらぬ思いに。

 例えば僕が小学生の頃。学校に行ってもみんな先生に言われた通りのことをやるんです。でも、持って生まれたものなのかな。僕はそこから横道に逸れたり、はみ出そうとばかりしていた。例えば、外で裸足で遊んでいたら「裸足で走ったらケガするよ」とか「靴はきなさい」とかって注意されたわけです。僕としては裸足の方が気持ちいいからそうしてるんだけど、「それはあかん」って禁止されてしまう。学校に行ったら行ったで、「お前のお兄ちゃんは○○やったぞ。だからお前も…」とかって比較されてしまう。とにかく僕としてはそういう”枠”からはみ出ようと試みるんだけど、学校の先生なり地域の大人たちから押さえつけられてしまうという感じがあんまり好きじゃなかったんですよね。
 そもそも僕の生まれ育った奈良の田舎の土地柄と言えば、伝統を守ってゆくことが主眼に置かれたいわゆる古風なもの。目に見えない”縛り”のようなものに締め付けられるように感じる世界から飛び出せる日をただひたすらに待ち望んでいましたからねぇ。――浪人時代。東京芸大で講習を受けたとき泊まっていた、外人さんの多いユースホステルでは、積極的に外人さんと話をしようとしていたんですけど、それもやっぱり、奈良から飛び出したいという思いと人と違うことをしたいという思いが大きかったからということで説明がつくんです。その例のみならず、奈良の地を飛び出す機をずっとうかがってきたからか、チャンスさえ与えられれば何のためらいもなくそれを掴みにいくというところはあったかもしれませんね。
 小学校の時、写生大会に宮崎君と行ったときもそう。皆と同じようにしたいという思いがあったなら、写生大会を終えても悔しい気持ちにはならなかったのかもしれません。人とは違うことをしたいという思いが根本にあるがゆえに、しょうがないと割り切ることなく美術の先生に相談したのかもしれませんね。
 それから、26歳の秋に出版社を辞めて妻と結婚した後、単身、南太平洋を中心に2ヶ月間の旅に出たんですけど、その行き先を決める上でも例の思いは強く僕に働きかけていましたよね。というのも、旅行会社を訪れた時に窓口でまず僕が訊いたのは、「みんな行くとこはどこですか?」ってこと。応対してくれた担当者が挙げた場所を候補から除外していく中で、僕がニューギニアに行くことを決めたのは「ニューギニアには行く人いないですね~」との一言があったからなんです。(笑)それ以外にも、同じ基準でオーストラリアのタスマニア州とか当時まだメジャーな観光地ではなかったニュージーランド、サモアという行き先を定めましたから。
 アメリカでボーイング社を訪ねたのも・・・。というように、色んな場面で人と同じことをしたくないという思いは僕を駆り立ててきたんです。だから、そんな思いは一貫していたと言えるのかな。(笑)

若い人たちに伝えたいこと
 でも、振り返ってみれば、大したことをしてこなかったなぁとは思いますけどね。みんなと一緒に仕事をしていれば、もっと色んなことできたんじゃないかという思いもありますし。カメラマンやコピーライターとかと組織を作って仕事をやっていれば、もっと大きなことができたんじゃないかって。一人で仕事をしていると、どうしても限界がありますからね。そう実感しているからこそ、仙台のデザイン学校で講演を頼まれた際に、「力のある人間を押し上げて有名にさせればいいんです。誰か一人でも有名になれたならその人の力で無名の人を引き上げるのは簡単やし、いずれはグループで大きな仕事ができて…という循環が生まれてゆくのだから。周りの人はそれに力を貸してあげてください」と生徒たちには言ったんですよね。
 でもやっぱり、一番残念だったのはハンバーガーショップを日本で開けなかったことかなぁ。――1970年。アメリカを周っていたさなか、食べ物を注文したらすぐ出てくるファストフード(マクドナルド)のシステムには驚かされました。「これを日本でやったら流行る!日本に帰ったら一緒にやろう!簡単で、専門的なノウハウとかもいらんから、皆でやれればすぐに出来るから。」そんな話を現地で出逢った友達と交わしながら、日本に帰ってきたんですけどねぇ。その1ヶ月程前の1971年7月20日、銀座三越店内に日本マクドナルド第1号店がすでにオープンしていたみたいで。あのときやっていれば…という思いは今でも胸に湧き上がってきますから。
 とは言うものの、これまで好き勝手に生きさせてもらえたことはありがたかったです。どうしても会社勤めは性に合わなくて、自分で「~したい」って思うことをやらないと気がすまないところもありましたからね。恵まれていたと思います。5人兄弟の末っ子として育った僕には、両親も兄弟も皆好きなようにさせてくれたし、誰からも進む道を強制されることはなかったですから。思い返せば、かつて幼心に芽生えた空を飛ぶことへの憧れは、”自由”への憧れだったんでしょう。空の彼方に消えてゆく飛行機は、僕の心に眠っていた、知らないところへ行ってみたい、さらに言えば人と違うことをしたいという思いを呼び覚ましてくれたんでしょう。
 そんな今、僕が若い人に向けて言えることがあるとすれば、「若い時は頭であれこれ考えるよりもまず、行動して壁にぶち当たって色んな経験を積んでほしい」ってこと。そういうのは若者の特権だと思いますから。自分自身、若いときにやろうとは思ったものの何だかんだ理由をつけて先延ばしにしたことは、結局40年の時が経った今でもやり残したままですからね。(笑)――旅で言うなら、色んな人、色んな可能性に出逢えるのがいいところだと思います。アメリカを旅していた時に出逢った、東大を出て庭師になって、アメリカで日本庭園を作るという夢を描いている奴や、上流社会の人々にとって船上でするトランプゲームがステータスとなっていたらしい当時にあって、そのトランプゲームを通してそういう人たちとのコネクションを作るためにずっと船旅を続けているという奴…。どちらかというと行き当たりばったりな僕にとって、彼らのように考えて行動して、努力している人たちから教わるものは多かったですよね。
 やっぱり、今までとは異なる環境に飛び込めるかどうか、一歩踏み出せるかどうかで差が大きく開いていくんじゃないかな。そのステップを乗り越えていったん踏み出すことができれば、それからはどんどん歩いていけるんだろうと思うんです。もちろん僕の言っていることが正しいかどうかはわかりません。生まれた場所で、伝統を守るなり受け継いでいくのも一つの人生だし、それを悪く言うつもりもありません。でも、やってみる価値はあるんじゃないか――。そんな僕の思いの向こう側に横たわっているのは、色んな面で人にはそんなに大差がないという信念らしき思いなのかもしれませんね。

 

<編集後記>
「すべての創造は、模倣から始まる」誰かが言ったそんな言葉を思い出した。    記事公開:2013.9.11

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