No.51 無農薬栽培農家の卵 橋本光弘さん

Story No.51  無農薬栽培農家の卵 橋本光弘さん

「農を通して生き方を考え、実践したいんです」

blog_photo51  橋本光弘さん
Profile
1977年生。福島県郡山市出身。山形県大江町在住。高校卒業後、化学メーカーに入社。2008年、12年間のサラリーマン生活にピリオドを打つ。農業生産法人、ホテルの直営農園での勤務を経て、2011年5月、東日本大震災をきっかけに家族4人(妻、子ども2人)で京都府へ避難。有機栽培を行う農家の下で働き始める。2013年3月、山形県大江町に移住。無農薬・無化学肥料栽培を目指す農業研修生として、独立へ向けた準備を進めている。

 

農薬や化学肥料を使わないで食べ物を作りたい――。そんな思いを抱いて大江町にやってきて約半年。今、農業研修生として描いている未来は、無農薬・無化学肥料栽培で作る米、野菜、果樹の複合経営をしていくこと。果物の品目によっては、農薬を使わざるを得ない品目もあります。なので、僕としては、ブルーベリーやキウイといった農薬を使わなくとも作れる作物の栽培を考えています。

胸にあった違和感
 なぜ僕がそういう考えを持つに至ったか。それは、サラリーマン時代に遡ります。

 高校を卒業してから働いていた、化学メーカーにいた時のこと。仕事にもだいぶ慣れてきた頃、11年目くらいだったかなぁ。「社会にとって、この仕事は有益なものではないんじゃないか」仕事なり社会の全体像が見えてくるようになった時、僕の中に生まれてきたのはそんな疑問でした。というのも、僕は4年目から営業の仕事をやっていたんですけど、自分たちの利益のためなり株主のためなり、消費者が求める以上にモノを売ろうとする企業の姿勢に納得できなくなってきたんです。限りある資源のことを省みることなく利益を追求するのはおかしいんじゃないかって。まぁそれまでは近眼的だったというか、入社してから最初の3年間は何もわからないまま工場で農薬を作っていたし、営業に回されてからも人との接し方なり商品の流通に関することなり、色んな勉強ができて楽しいという思いが強かったですから。それこそ、社会人になりたての頃は何も考えてなかったですしね。貰った給料は必ずその月に使い切っちゃうし、何も知らないでローンも組んじゃうみたいな感じでしたから。(笑)
 そんな違和感を感じ始めると同時に農業に意識が向き始めた僕の目にたまたま飛び込んできたのが自然農関係の本だったんです。その時出逢った、例えば「人間が自分の都合で山を切り開いて生活していくのは自然じゃない」というような自然農の世界観は僕の中にすんなり落ちてきました。(まぁ、もっと大きく考えれば、進化の一過程として自然なのかもしれないけれど)だから、「いずれは自分も…」という思いが芽生えるのも自然な流れだったんでです。
 それで、実際に行動に踏み切った、つまり会社を辞めたのが30歳の時。ためらいはなかったですね。勢いでしたよ。若かったというか、何も考えていなかったというか。(笑)確かに、「農業をやりたい」という思いが胸の内にあったのも事実です。でも、やっぱり大きかったのは「この会社でこの仕事を続けていたらダメだな」との思いだったかなぁ。まぁその会社で働いている人には失礼な話ですけどね。自分がいったんそういう価値観を身につけてしまった以上、そんな自我を抑え込んで仕事を続けていく事の方が辛くって。1年前に結婚し、お腹に子どもを宿していた妻も賛成してくれましたしね。僕と価値観が一緒だったから、「好きなようにしたらいいんじゃない」って。いや、むしろ「辞めちゃえ、辞めちゃえ」くらいの感じだったかな。(笑)とにかく、次の仕事とか何も決まっていない状態で、後先考えず、12年勤めた会社を辞めたのが2008年のことでした。
 でも、その時はまだ、農業の技術や知識に関してはゼロの状態。加えて自分のやりたい農業スタイルに関してもおぼろげな状態にあった僕は、あまり深く考えずに地元の農業生産法人に就職したんです。だけど、そこで行われていたのは、僕が描いていたビジョンとはかけ離れた水耕栽培という農業スタイルでした。土がない状態のところに種をまいた作物に水に化成肥料を溶かした液体をかけて育てていく…という効率を追求したやり方を目にして、いや、目にしたからこそ「絶対おかしい!」という思いが増したし、自分のビジョンがよりクリアになって浮かび上がってきたんです。それで「今後は土から作るスタイルに移行していこう」と思うようになりました。
 結局、就職して1年も経たないうちにその法人を去った僕にある話が舞い込んできたんです。「とあるホテルの料理長が自家栽培した無農薬野菜を使った料理を提供するために、その畑を管理してくれるスタッフを探している」と。実際会って話した料理長はすごくこだわりのある人だったし、やってみようということでとりあえず乗ってみたんです。
 でも、実際行ってみたら…。僕は全く無農薬栽培に関する知識なんてないから、地元の農家さんに教わりながら作物を作っていたんですけど、やっているうちに「無農薬」とは言ってられなくなったわけです。さらに、これは後になってわかったことだけど、その農家さんも無農薬栽培を目指している自身の畑でいざ病気が出ると農薬を使ってしまうらしくって…。そうは言っても、栽培技術とかすごいなと思う面もありました。だから「教わったことを参考にして、地元の畑を借りて独立し、自分の描いた理想を実現させよう!」と考えた僕は、約2年勤めたそこを辞めて地元郡山に戻ってきたんです。2011年2月のことでした。

 胸にあった葛藤
 それから1ヶ月後。東日本大震災が起こったんです――。僕の家は瓦が落ちたり基礎が壊れたりといった半壊状態。でも、住めないという状況じゃあなかった。問題は、放射能でした。最初は、そんなに危険なものだと考えていなかったんです。だけど、自分で色々と調べていくうちにかなり危険だということがわかってきた。それで郡山で生活するという線は完全に消え、子どもが心配だからということで、西日本で避難できる場所を探していたんです。でも、福島原発から約70~80km離れている郡山市は自主避難区域。だから、避難する場合にかかる費用は自己負担。そんな中、暮らす場所を府として自主避難者の金銭面などの支援を打ち出していた京都府に決め、仕事も労務者としての避難者の受け入れに手を挙げてくれていた京丹後市で有機農業を営む人の下でできることが決まりました。そうして震災から2ヶ月が経った5月20日過ぎ、家族4人で京都へと出発したんです。・・・実際、福島の沿岸部で暮らしていた人からすれば、郡山は避難場所になっているわけです。避難どころか郡山に家を建てて、生活を再建していこうとする人も中にはいるわけですよ。だから、「家も何も全て失った人たちが逃げてきているのに、家は半壊だったとしても住めないわけじゃない自分たちがどこか別の場所に行くというのはおかしいんじゃないか」という思いに苛まれるときもありましたよね。

 それに、同居していた両親は「何言ってんの?」という感じで理解してくれなかったですから。テレビや新聞からしか情報をとっていない両親からすれば、そんなに怖がるほどのものではないだろうという感覚だったんでしょう。放射能への危機感に天と地ほどの差がありましたよね。結局は納得してもらえないまま、逃げるような感じで京都へ行ったんです。・・・今、考えれば、その選択は正しかったと言えます。というのも、しばらくぶりに郡山に帰ってから甲状腺の検査を受けたとき、長女の甲状腺に異常が見つかりましたから。それに、自身が線量計を持って実家付近の放射線量を測ってみても、震災直後と値は変わっていませんでしたしね。確かに、その時実家の周りは除染がまだされていませんでした。だけど、除染されたところですらも、数ヶ月したら元の線量に戻っているという状況だった。加えて、農業をやろうとしている身として、農地の除染のことを考えると…、福島に帰るという選択肢はまず消えましたよね。
 そんな状況だったから、そのままずっと京都で暮らそうかと思っていたんです。だけど…。京都で暮らしていると、実家に帰れるのはせいぜい年に1、2回程度。要は、子どもと両親が会えるのも年に1、2回程度だった。僕と妻はそれでも良かったんです。だけど、数ヶ月ぶりに彼らが会った時の表情というか姿を見たらねぇ…。僕よりもむしろ妻が言うんです「いくら安全のためとは言え、お互いにとってあまりにも酷なんじゃないか」って。福島空港で会った時、お互いが泣いて喜ぶわけですから。それで思ったんですよね、月1回でも会わせてあげられるような場所で暮らそうって。
 ということで妻と話し合った結果、「車で2、3時間で来られる場所で妥協しよう」と決めたんです。その後色々と探していた中で、今住んでいる大江町はちょうど良い妥協点だったという感じでしょうか――。田舎らしさは残っているし、高速道路のインターチェンジまでのアクセスもいい。冬の積雪も1mほどとさほど激しくない。それに、以前住んでいた京丹後市には緑のふるさと協力隊の隊員の人がいたんですけど、その派遣元のNPO法人地球緑化センターの事務局の人(金井さん)にも相談したら、すごく親身になって対応してくれて大江町の役場の人に話を持っていってくれたんです。大江町としても、新規就農者を探しているという状態だったから、積極的に対応してくれましたしね。まぁ、問い合わせた農業支援センターの人には言われましたけどね、「何で大江なの?」って。確かに有機なり無農薬をやりたければ、同じ山形県内でも高畠町とか鶴岡市といった先進的な地域でやるのがベターなのかもしれません。でも、やっぱり放射線量なり実家までのアクセスといった条件を考えると厳しいかなと…。前向きな部分で言えば、地域の色を否定するわけじゃないけど、あえてそういう農業スタイルが実践されていない所に行ってみるのもいいかなという思いもあったんです。京都で一緒に働いていた人からも「ここで学んだことをぜひ他の地域でも広めてほしい」と言われていましたから。…というようないきさつを辿って、今年3月から大江町で暮らしています。 

胸にある理想
 そう。子どもと一緒に農業に関わたいという思いがあったことも福島を避けた理由の一つです。農業をやるからには、子どもを畑に連れて行ったり、一緒に山に入ったりしたくって。というのも、やっぱり教育の中に農業は必要だと思うから。農業に限らずだけど、自然から色んなことを教えてもらう機会が子どもには必要なんじゃないかと思うからなんです。小学校でも、農業も科目の一つとしてカリキュラムに組み込まれるのが本来なんじゃないか。月1回でも週1回でもいいから、そういう時間があってしかるべきじゃないかって。そうやって1年を通して学んでいくものだと思うんですよね、農業というものは。

 やっぱり、大人になってサラリーマンなり政治家なりどんな道に進んだとしても、まず自分たちが生きている土台というか、何と共生しているのかをわかった上で社会に出て行くことが大切なんじゃないかな。そして、どんな仕事をする上でも自然とか環境のことをまず念頭に置いた上で何かを判断できる大人になってほしいと思うんです。残念なのは、今、それが欠けているように感じられること。効率なりコストパフォーマンスなり何でもかんでも経済優先の考え方になってしまっている。基本的に、食べ物を目の前でとって食べたら何のコストもかからないし、それが自然ですからね。 
 そんな今において、僕は循環できる農業を実践していきたいんです。ひるがえって今の農業の現実は、原油や中国から輸入したリンを原料として作った化学肥料、いわば工業製品を使い、その化学肥料を使うがために発生する病気があって、そしてその病気を防ぐために農薬を必要としているという、いわゆるマッチポンプ状態です。それには納得がいかないし、循環できる農の形を目指す以上、工業製品には頼りたくない。・・・とは言っても、労働力とか効率とかを考えると、車にせよ農機具にせよ使わなきゃいけないから、実際問題むりな話ではあります。資本主義という仕組みの中で生きている以上、お金を稼ぐことは至上命題ですから。でも、僕は出来る限りそこから離れた生き方をしたい。それゆえに享受できている幸せもあるから全否定するつもりはないけれど、上手くつき合っていきたいというか、「お金がないとどうしようもない」という感じにはなりたくないんですよね。言ってしまえば、農薬を使わないというのも「企業」という存在にできるだけ関わりたくないからなんです。すごく自分勝手だとはわかっています。実際、企業で働いている人が自分の消費者になっていたりするわけですからね。それに、環境負荷のことも考えて事業に取り組んでいる企業があること、企業があるおかげで助かっている人たちがいることも承知しています。でもやっぱり…。例えば「エコ」をうたうことで良いイメージを打ち出していはいても、内実というか消費者に伝わらないところでは…というケースは多いと思うんです。そんな風にお金を回すことに引っ張られすぎて、手段を選ばなくなるというのは良くないかなと。だから僕が今、一個人で農業をやっていくことを目指しているのは、企業よりは”お金”というものに引っ張られにくいから、言い換えれば自分の理想や価値観を反映させやすいからというのもあるんですよね。

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