#52 (株)アトリエ欅 代表 町田至さん

#blog_photo52 町田至さん52 株式会社アトリエ欅  代表 町田至さん

「自分に正直に生きてるってことだけは、胸を張って言えますね」


Profile

1977年生。長野県出身、山形市在住。親の仕事の都合で、引っ越しの多い子ども時代を送る。愛知の大学を卒業後、オートバイの販売店に就職。整備士の仕事に携わる。25歳の時退職し、多摩美術大学夜間部に入学。油絵を学ぶ。卒業した2007年、東北芸術工科大学大学院に入学し、大学院卒業後、彫刻作品制作のため倉庫の一角を間借りしていた縁で、銘木卸売という先代の会社の事業を受け継ぐ。2011年2月、新たに美術部門を組み込んだ株式会社・アトリエ欅を設立。今に至る。その傍ら、彫刻家としての作家活動も行っている。

 記事公開:2013.9.24

 

一日本人として思うこと
 <商売なんてやったことはない。でも、”創造する”という点では、会社をやることも彫刻作品を作ることもさして変わらないことだろう。なぜなら、木という材料と刀という道具と作り手の魂があれば、彫刻作品ができる。ならば、銘木という材料を山形や会社という道具を使って…、会社を運営してゆける>そんな思いを抱きながら、銘木屋を受け継ぎ、先代の指導を仰ぎながら新たに「株式会社 アトリエ欅」を設立してから2年半が経ちました。
 だから、肩書きで言えば僕は経営者です。でも、僕のアイデンティティは”彫刻家”にあるんです。まず”彫刻家”の自分がいて、その自分が”彫刻家”として銘木屋をやっているつもりではいるんですよね。それがたぶん商売がうまくいかない一番の原因なんだという自覚はあるんですけどね。公務員の父から教えられた「お金を稼ぐ、欲しがることは卑しいことだ」という価値観に縛られているからなんでしょうか。今もって、金儲けに対する抵抗感を払拭できていないんです。会社の経営状況を考えれば、ほんとは「腹くくって、金儲けするぞ」という感覚にならなきゃいけないんだけど、なかなかそうなれなくて。もちろん彫刻作品だって、お金に換えるつもりで作ってはいます。だけど結局は、どうしてかお金の儲からない方に歩を進めてしまうんですよね…。
 そもそも「仕事=お金を稼ぐ手段」という一般的な認識に対して「本当にそうなのか?」という疑問は、ずっと胸の内にありましたから。だってそれが仕事だとするなら、極端な話、泥棒も一つの仕事になっちゃうじゃないですか。僕にとっての仕事の定義とは、「自分がやるべきと信じることをすること」。そういう意味では、彫刻家としての作品作りにせよ、銘木屋としての仕事にせよ、自分の気持ちに正直な状態で仕事ができているんですよね。
 一日本人として思うんです。銘木が売れない現状は果たしてどうなのか。日本社会として、日本文化としてそれでいいのかって。「愛国心が必要だ」とはよく言われるけれど、愛国心を持てるかどうかは自国の文化に誇りを持てるかどうかなんじゃないかな。そういった”社会問題”にメスを入れてやろうという意気込みあっての会社設立でしたから。
 東北芸工大大学院の彫刻領域に入学した6年前以来、作品制作の材料調達をするためにこの会社に出入りするようになってから、肌感覚としてヒシヒシと感じていましたからね、日本文化に目が向けられていないことの危機感を。ーー例えば、現代美術の分野で言えば、インスタレーションやパフォーマンスという”舶来”のアートの形がけっこう浸透してきていますよね。両者とも「場を鑑賞者と共有すること」が作家側のコンセプトとしてあると思うんですけど、それは他でもない日本の茶道や華道が目指していることと同じなんですよ。茶道や華道の方が歴史は古いという点でも、日本の美意識の方が欧米よりもはるかに進んでいると思うし、だからこそ美意識の結晶たる銘木に対してもっと日本人は刮目すべきだと思うんです。これはあくまでも一例にすぎないけれど、舶来品をありがたがる風潮ゆえに元々あったものがどんどん淘汰されているのはいびつでしょうから。やっぱり、自分の中に”日本人”というアイデンティティはどっかりと腰を下ろしているんですよね。かつて油絵というヨーロッパ起源のアートを勉強しておいて何ですけども。(笑)
 自身が”日本人”であることは、何と言うか自明のことなんですよね。そこに憧れも何も存在しなくって。ただ当たり前のこととして受け容れているというか。小さい頃から剣道や習字を習っていたことを始めとして、身体に染み込むような機会がたぶんあったんでしょうね。あ、そうそう。実は僕、正座をしていないとご飯を食べられない質なんです。今住んでいる家には椅子しかないから、片膝をたたんで座っているんです。まぁ、そういう家に育ちましたからね。ちゃぶ台を囲んで家族が座り、「食事中はしゃべるな」と言われて黙々と箸を進め…。そんな食事風景が広がるいわゆる古風な家でしたから。でも、自分としては、それが当たり前のことすぎて礼儀作法だとすら思っていないんです。そういう点でも、外国に行かなくったって、「自分は日本人だな~」ってことを何の疑いもなく感じるんですよね。結局のところ、僕は日本びいきなんでしょう。
 とにかく、銘木屋としては、今の仕事を通して日本文化の中における銘木の価値を再び確立させたい。店じまいをする銘木屋や、材木屋へと変貌していく銘木屋が後を絶たない現状に歯止めをかけたいんですよね。

流されて生きた日々
 そうは言っても、正直な話、そんな前向きな理由だけじゃないんですよね、この会社を受け継いだのは。当時の僕には斜陽産業の銘木業界で会社を存続させていくんだという気概もなければ、覚悟もなかったですから。さらに言えば、相当人生を投げているところがありましたから。
 ――小学校の教員をやっていた父の転勤に伴い、引っ越し、転校を繰り返すことを余儀なくされた僕の子ども時代。きっとそれが大きかったんでしょうね。すごく淡白な人間関係の中で育った、というより、<どうせぶつ切りの友達関係しか作れないのだから…>という諦めらしき思いゆえに必要以上に踏み込まない人間関係で留めるようになってしまったんです。
 その原点は、やっぱり、小学校5年に上がる前に転校せざるを得なくなった時のこと。幼稚園の年長から5年間同じ土地で暮らし、そこでできた友達と相当いい関係が築けていたんでしょうね。彼らを失うことなんてまず想定されていなかった中で親からあっさりと引っ越しを告げられて…。その時のショックといったらもう…。きっとああいうのをトラウマと呼ぶんでしょう。「おれはもう友達を作らない」と心に決めましたから。ほんと、その時のことは両親に対して抱いた激しい怒りの感情と共にくっきりと脳裏に刻まれているんです。だって、少なくとも、一瞬にして全ての友達を奪われるほど悪いことを僕はしてないわけだから。そこで自分の正直な気持ちっていうものを、一度全て殺してしまっているんですよ。もしかしたらその反動で出来上がったのかなぁ、愚直とも言えるほどに正直に生きようとしている今の僕の姿っていうのは。
 それ以来、どこに行っても、人間関係があんまり親密になりすぎないように、でもある程度受け入れてもらえるように生きてきましたよね。そういうあざとさみたいなものが身についた、というより学ばざるを得なかった。そんな中でも学校の勉強だけはちゃんとするようにしていたけれど、僕を動かしていたのは転校先でも授業に追いていかれないように、もっと言えば周りからバカにされないようにという不純な思いでしたから。進学校の高校にいた当時、そんな動機で何の疑いも意志もなく周りと同じように受験勉強をしていたわけだから、いずれ行き詰まるのなんて当たり前ですよね。
 もっと辿れば、男3兄弟の長男、そして父方の祖父にとって男系男子の初孫として僕は生まれ育ちました。だから、”いずれ家督を継ぐ者”として、隣の家に住んでいたじいちゃんには相当厳しく躾けられたようです。僕はそんなに覚えていないんですけども。「お兄ちゃんぶらなきゃ」そんな思いが、転校時に受けたショックを心の奥にしまわせたのかもしれません。そんな風に周りからの役割期待に応えようとしていたがゆえに、自分のほんとの気持ちをいつも押し殺して生きていたんですよね。
 そういう意味では、自我を表現することからはことごとく遠ざかっていた子ども時代だったかなぁ。今、一生懸命表現活動をしているのも、その時の分を取り返すことで自身のバランスを保つためなのかもしれません。でも、一時、不思議に思っていましたよね、何でこんなに自分は歪んでしまったんだろうって。
 ・・・そう考えると、周りに流されてずっと生きていたのかもしれません。自分がコミュニティの中で浮かないようにする道の選び方しかしてこなかったのかもしれませんね。少なくとも、会社を辞めるまでの僕はそうだった。

投げていた人生
 そんな僕だったから、社会人2年目、25歳の時に会社を辞めたことは大きな転機となりました。というのも、「やりたいことをやりたい」という自分の明確な意志で道を選んだわけだから。
 行き詰まったのもちょうどその頃なんです。<あの時の受験勉強って何だったんだろう>っていう思いが突如として頭をもたげてきたわけです。――大学と就職という駅を経由すれば幸せという終着駅にたどり着ける。そんな価値観の是非を問う必要すらないという環境で育った僕が、それは夢物語にすぎないと気づいた時に思ったんですよね、自分のやりたいことをやらなきゃって。
 そのとき浮かび上がってきたのが、小さい頃から好きだった絵だったんです。大学では美術部に入り、社会人になってからも趣味として油絵を続けていた僕にとって、まだ”退職してからの余生を充実させる一つの手段”にすぎなかった絵。でも、ふと気づいたんですよね、今やらなきゃダメだって。結局そんな思いと共に会社を辞めた僕は、油絵を学ぶために多摩美大に入学しました。
 いや、厳密に言えば、その会社に入ろうと決めたときは少なくともやりたい仕事だったんです、バイクの整備士という仕事は。でもいざ始めてみると…。一緒に仕事をしている人たちの”好き”の度合いはケタ違いだった。工業高校時代から図面を作ったりというように仕事をするための勉強をしていたことに”好き”が加わった彼らに、受験勉強に多くの時間を費やした普通科の高校を出た僕ではおいそれとは敵わないなって思わされましたから。結局ついていけなくなった僕は、一応整備士の資格をとったとは言え、1年半で断念しその会社を辞めました。
 そうして美大に入ったんだけど、油絵を描いているうちに感じたんですよ、平面絵画って嘘だなって。写真にしてもそう。油絵で僕らが目にしているのは油絵具だし、写真だとインクにすぎない。実はその時、離婚したばかり。制作について考え直した時、離婚を経て素直になった自分も相まって、すごく違和感を感じたんです。決して否定するつもりはないんだけど、何でおれはこんな嘘をやっているんだろうって。じゃあ嘘を辞めよう…ということで、本物は何かと追求した時、素材という”真実”にたどり着いたんです。要するに、何が描かれているかよりも何で描かれているかの方に関心が移ったんですよ。やっぱり、真実に近づきたいという思いが強いんでしょうね。そしてその思いは、正直に生きたいという思いに収斂されていくんでしょうか。
 というのも嘘じゃないけど、諦めでもあったかなぁ…。苦痛だったんですよ、絵筆の柔らかさが。自分の手の動きに背くことなく絵の具がキャンバスに色をつけてゆく。つまり、もろに自分自身が出てしまう。でも、そんなに自分自身が好きじゃない僕にとってはそれが苦痛でしかなかった。やがてその苦痛に耐えられなくなって、もっと固い、自分が出にくい素材を探した時に手頃だったのが木材だった…という話でもあるんです。だから、今やっている彫刻は、いわば絵の具の延長線上にあるんですよ。そういう意味では、自身を「彫刻家」と名乗るのは反則じゃないかという自覚がないわけではないんですよね。
 多摩美大時代、学科長の先生と制作に関することでやや対立し、居づらくなったというのも理由の一つ。それで、やりたいことをやらせてくれる場所を探していた時に、ちょうど芸工大の先生に拾ってもらったという感じでしょうか。
 そんないきさつで来た山形だったけれど、思いのほかずいぶん居心地がよくって。「何でこんなに?」って思うほど、すでに僕の居場所が用意されていたような感覚がありましたから。大学だけじゃなく、山形の風土自体にもそんな感覚を覚えましたから。―――幼い頃から”根なし草”だった自分は、どこにも定住しないんだろうという決めつけを心のどこかでしていたんです。それが今、縁があったのか、ここに身を落ち着けようとしている僕がいる。いや、ずっと探してたのかなぁ。根を下ろすことに憧れてたのかなぁ。それが山形なら叶いそうだという微かな期待が胸にあるのかなぁ…。国内外を問わず旅行が嫌いなのもきっとそこに関係しているんですよ。ただでさえ絶えず旅行をしているみたいな生き方をしてきたから、休みの日とかは家でじっとしていたくって。わざわざ苦労をしに行きたくないんですよね。執着とも呼べるくらいに、日本を離れたくないという気持ちはありますから。
 ・・・まぁでも、振り返ってみると、あきらめることの多い36年間でしたよね…。四大を卒業して就職するも数年で辞め、20代のうちに結婚も離婚も経験して…。「やりたいことをやりたい」とは、「やり始めたら後に引けない」という意味でもありました。だから、いったん会社を辞めた以上、一生美術をやり続けるしかないとの気持ちだったんです。それから10年。色んなものを削ぎ落としながらその延長線上をずっと歩んできた結果としての今があるんです。
 やっぱり、自分がこれまで受けてきた教育と現実とのずれが大きすぎて、未だにちゃんと咀嚼できていないというか、折り合いがつけられていないのかなぁ…。今、彫刻にこだわっているのも、彫刻くらいしか自分がこだわってやり続けられるものがないからとも言えるんです。だから、学生時代にしたアルバイトなどの他のことは僕にとって正直どうでもいい部分だったし、卒業後山形に残ると決めたのも彫刻作品の制作場所を確保できたからというのが大きかった。当初会社を設立した時も、諦めているところからのスタートだったから、特に期待してなかったんです。まぁそれなりにやれるだろう、やってみなきゃわかんないとの裏打ちのない楽観に支えられていた。実際、最初はコンスタントに仕事がありました。でも、それから1ヶ月後に起こった東日本大震災を境に状況は一変したんですよね――。 

僕の生き方と作品と
 そういう消去法的な僕の生き方は、作品にも反映されているんです。というのも、僕がやっている抽象表現っていうのは、その過程で要素を削ぎ落としていくという作業を経ますから。自分としては自覚がないまま、そこに到達していたんですけどね。改めて考えてみると、そうだったという話で。
 僕は思うんですね。抽象表現って、うーんと、公約数を探していく感じなのかなと。社会には色んな人がいて色んな価値観がある中で、それぞれがわかり合える部分、公約数で言うところの”1”がある。その”1”、言い換えれば、人の中に通底しているものに到達することが、抽象表現の目標なんじゃないかって。本当に大事なものってたぶん、よけいなものを見えないようにしていかないとなかなか見えてこない。よけいなものを盛り込まないことで、はじめて普遍性に到達しうるんじゃないかと僕は思うんですよ。だから、きっと方向性としては間違っていない。
 言葉でも映像でも、聞く側、観る側の想像に委ねられる部分がたくさんあるものが好き。要するに、余白や曖昧さ。それこそが、日本文化の中で一番いいところだと思いますから。”作家”としては、それをちゃんと提案して受け入れてもらいたいですね。逆に、語られすぎてるものって胡散臭さを感じますから。
 作家の一人としては、芸術家で食っていけるための手は打っていきたいと思っています。芸工大でも、今、ほとんどの生徒が就職を薦められるわけですよね。つまり、芸術家は飯を食えないという”既成事実”が出来上がっちゃってるわけです。僕としてはそんな現状を打破したいんですよね、自分のためにも、これからの後輩のためにも。僕自身、大学院に在籍していた時には卒業後の希望進路先を「彫刻家」と書いて提出したし、僕を支えてくれる唯一の存在とも言える彫刻をやらなければ、生きている意味はないと言っても大げさじゃないくらいの思いはありますから。
 銘木屋の一人としては、銘木の価値を社会に訴えていきたい。ほんと、僕が何とかしなければたぶん日本の銘木はなくなってしまうというような危機感はありますから。
 やっぱり、厳しい状況に直面している今があったとしても、現実に折り合いをつけるよりは自分の意志や美学を通す方を僕は選びたい。要領が悪いことは重々わかっています。もっと良い方法はいくらでもあるのかもしれません。でも、媚びたくはない。表現者としての意地なんでしょうか。生き様の美しさみたいなものを求めているところがあるんでしょうか。何にせよ、意地張っていられるうちは意地を張りとおさないといけないのかなと思っています。どこまで張り通せるかは正直わからないですけどね。つまるところ、今の僕が唯一胸を張って言えるのは、「自分に正直に生きている」ってことだけ。でも、そこに僕は一縷の望みを託しているんです。たとえそれくらいしかやりようがなかったとしても、先の見通しが立たなかったとしても。   

 

<編集後記>
多くの人は、大きかろうと小さかろうと諦めや逃げを繰り返しながら生きているのではないだろうか、むろん僕自身も。町田さんのそんな潔さが、僕は好きだ。    

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