#53 元・近大附属高校野球部監督 豊田義夫さん

豊田義夫さん

「野球というものが、骨の髄まで染み付いているんです」

1935年生。大阪府八尾市出身、奈良県生駒市在住。近大附属中、近大附属高時代は野球部に所属。高校卒業後、会社員を経て、56年秋より母校の野球部のコーチ、部長を歴任し、65年の秋、監督に就任。84年秋に退任するまでの約20年間の監督生活の中で、3度センバツに出場。当時の愛称は、”キンコー(近大附属)の鬼”。その後、近大福山高、近大新宮高、社会人クラブチーム「八尾ベースボールクラブ」での監督生活を経て、2010年1月に近大泉州高校野球部監督に就任。2013年夏、退任。


記事公開:2013-10-22

 

再び野球と…
 振り返れば50年もの間、監督なりコーチとして野球に関わらせてもらってきたけれど、僕の場合は変わっているというか、他の監督さんとは違うというか…。高校野球界の中でも異色だったんじゃないでしょうか…。
 「球拾いでもして後輩の練習を手伝わせてもらおうか。それをやりながら、次の仕事は探したらええかな。」そんな思いを抱きながら母校・近大附属高に再び通うようになったのは高校を卒業して約2年が過ぎた21歳の時のことでした。――近大附属中、近大附属高にいた6年間、野球部に所属していた僕は、高校を卒業した後も大学に行き野球をやりたいという思いを抱いていました。だけど、両親には悪いけれど、僕の家庭の経済状況ではそうすることは難しくって。と同時に、自身も学校嫌いで勉強嫌い。そんな僕に残された道は就職だけでした。
 そうして地元の小企業で勤め始めたものの、2年目には会社がバンザイの形に。そんな矢先、同じ会社にいた上司が誘ってくれたんですよ、「独立するからついて来い」と。誘いに乗った僕は彼の会社で働き始めたんですけどね・・・。結局、給料をもらったのは1ヶ月だけ。それでも1年辛抱したものの、仕事ではクッションの無い単車に乗っていたもんだから胃下垂になりモノも食べられない状態になってしまって。それで1週間程会社を休ませてもらったんですけど、休養中、社長からの「具合はどうだ?」というような心配の電話はついに来ず。ハートのない人やなと思いましたよね。自分は勤めさせてもらった立場として精一杯働いたという思いはありましたから。それまでもその社長には使用人を大事にするとか思いやりがあるという感じが一切なかったですしね。結局その会社を辞めさせてもらい、「次何しようかな~」とフラフラしていた時に思いついたのが母校での球拾いだったんです。
 学校に行き始めて1週間か10日くらい経った頃だったでしょうか。とても野球好きだった当時の校長先生が球拾いをやっている僕を見て「(仕事とか)どないしてるんや」と声をかけてくれはったんです。それで、「修業の身です。球拾いがてら次の仕事を…」と伝えたら、「学校に人手のいる時代になっているから、学校に勤めなさい。」と言ってくれはりました。「野球部のコーチ、そして学校の事務職員として出発しなさい」って。まぁ、ありがたかったですよ。ただ何となしにというか、後輩の練習の足しになればええわという単純な考えで始めた球拾いでしたから。「あわよくば学校で…」という野心なんてこれっぽっちもなかったですから。
 「学校に勤めた以上は教員にならなきゃダメだ。近大に行きなさい。」学校の事務員として働く中で校長先生からそう諭された僕は、勤め始めて1年半、2年くらい後、近大の二部(夜間)に行かせて頂くようになりました――。出勤は朝6時半とか7時。学校から3kmほど離れた校長先生の自宅に自転車で迎えに行って、学校までの道中、かばん持ちをしていました。当時、公用車なんて恵まれたものはないですからね。校長さんが漕ぐ自転車の後ろを、かばんを持った僕がついて走るという仕事を毎朝繰り返していました。校長さんは結構なスピードを出しはるもんやから、僕も必死で走るわけです。そやから、すれ違った人の中には「こいつ何しとんねん」と思った人もいたんじゃないかな。(笑)昔で言うところの、織田信長から「サル、サル」と呼ばれた豊臣秀吉と同じようなことをしばらくさせてもらっていたんですよね。

僕を動かしていたもの
 僕がコーチとして駆け出しの頃、大阪の高校野球界のトップに君臨していたのは浪商こと浪華商業高校(現・大体大浪商高校)でした。当時の浪商さんには素晴らしい選手がそろっていて、どことやっても負けることのない、負けることの許されないようなチームでした。そんな中、僕が立てた目標は、浪商に勝てるチームを作ること。勝つチームを作ること、そして勝てるだけの精神力を養うことでした。なぜなら、まず浪商に勝てなければ甲子園出場は実らないわけだから。・・・ということで、「浪商さんはキツい練習をされている。極端な例で言えば、練習中は水を飲まさない。でも、塩だけはなめさせる」との情報を耳にした僕が打ち出したのは、「ならばうちは水も飲まさなきゃ、塩もなめささん」という練習方針でした。それで浪商に勝てると真剣に思っていたわけです。…まぁ、変な考えですよね。(笑)部員にとってはええ迷惑だったでしょう。
 その当時、監督を務めていたのは、大学で野球をした後、近大附属高の教師となった2年後輩の人。「何とか甲子園に出られるチームにして、彼を男にするんや」そんな思いを胸に手を血みどろにしてノックバットを振っていましたから。そして女房にはそのことばっかり言っていましたから。…そう。浪商さんのことで、よう忘れられない出来事があります。僕がコーチになってまだ日が浅い頃、浪商さんに練習試合のオファーをした時のことです。電話口で相手方の野球担当者さんでしょうか、こう言い放たれたんです。「近大附属という学校、大阪にあんのんか。そんな弱い学校とうちは練習試合をやってるヒマはない。うちは2年、3年先まで大会の試合にせよ練習試合にせよ全てスケジュールを組んでますから」って。僕自身、浪商さんの事情とかを全く知らず無鉄砲だったことは確かです。歴然たる力の差もあったでしょう。と言えども、若かったこともあってカチンときましたよね。こっちも人間ですから。
 それからしばらくの時を経た1965年のこと。僕の教え子が大学時代先輩だった浪商の監督に世話になったという縁で、念願叶って練習試合を引き受けてもらったんです。その時、うちのエースは肘を壊し、5メートル先へすらボールを投げられないという状態でした。けれども、試合当日、浪商のグラウンドに行った時、彼は涙を流して言ったんです。「今日は僕に放らしてください」と。僕の方でもそう言われる前から答えは決まっていました。「俺もおまえしか考えてないから、たとえ一球でもいいから放って来い」と言って送り出したんです。・・・彼はカーブを中心としただましだましの投球ではあったものの完投し、結果は5ー2で近大附属の勝利。…もう、ほんまに嬉しかったですわ。よう忘れません。練習試合をやってもらえただけでも十分嬉しかったのに、勝てたわけですから…。不謹慎なことを言うようだけど、その日、家に帰って女房にしがみついて泣きましたから。そしてその夜は、教え子たちを囲んで僕の家でどんちゃん騒ぎをしましたよ。――「これで甲子園が実る。絶対に甲子園に行ける」その時僕の心に芽生えた自信は、明くる年、甲子園のセンバツ切符を手に入れるという形で過信ではなかったと証明されました。66年の秋の大阪大会で初優勝した近大附属高は、近畿大会に初出場し、初優勝したんですよね。
 ・・・振り返ってみれば、ほんまにようがんばれたなと自分で思います。たいがい暴君めいた血の気の多いコーチでしたけどね。(笑)恐れをなしながらも、部員たちはようついてきてくれたなと。「浪商さんに勝つがために。そして浪商さんに勝って何とか甲子園に出たい、出したい」高望みではあったかもしれないけれど、そんな大きな目標を持ってやっていましたから。自分で言うのもおかしいけれど、そのことに全てをかけていましたから。・・・ほんとそこに行き着くまでは、苦しい思いばかりでしたけどね――。
 自分の恥部を語ることになるんですが・・・。近大附属高に勤め始めて6年目の1961年、僕を学校に引っ張り込んでくれた校長先生が亡くなられたんです。「もうこの学校におったって一生うだつが上がらん」そんな思いを抱くようになった僕は、あろうことか「学校を辞める」と言い出したんです。まぁ若気の至りですよね。実はその時、僕の親父は脳の血管が切れた6年前からずっと寝たきり状態。おふくろが歯を食いしばって親父を介護しながら、貧しい経済状況の中、生活してくれていたにも関わらずですから…。結局前言をひるがえすことなく辞めたんですけど、辞める時も失敗だとわかっていたし、実際に失敗でした。僕としては辞めると言った手前、後には引けなくって。
 以降、友人の会社で働くようになって半年ほど過ぎた頃だったでしょうか。近大附属高野球部が広島の呉で1~2週間を過ごす春合宿を間近に控えた3月の半ば頃、ある部員が僕の家まで言いに来てくれたんです「豊田先生がついて行かなかったら、練習が遊びになります。だから、できれば合宿についてきてくれませんか」と。そういう言葉に僕は弱いんですよね。「まだ勤め始めたばっかりやし個人企業やから、1週間とか10日も休ませてくれなんて到底言われへん。それやったら、辞めさせてもらおう」と会社を辞め、野球部の合宿へと手伝いに行きました。一方、家ではその日暮らし状態の中、おふくろが変わらず仕事に介護にと頑張っているわけです。そんなおふくろに、「会社を辞めて合宿の手伝いに行く」なんてなんぼ何でも言えないじゃないですか。だから「会社を休ませてもらう」と嘘をついて、後ろ髪を引かれながらも呉へと発ちました。
 結局、僕は春休みが終わり新学期が始まってからも、無業状態のまま。平日は授業が終わって部員たちがグラウンドに出て来る15時半になるのをバットを振りながら今か今かと待ちかまえていましたから。そんな風に全くのボランティアで野球部の練習を手伝うという生活は7月までずっと続いたんです。・・・まぁでも、家には収入がないわけだから、辛かったですよ。チームの練習試合にもついて行っていたんですけど、京都や奈良、滋賀なんかに遠征するとなると、自転車では到底行けないじゃないですか。そういう時、おふくろに「交通費出してくれ」と頼むのはほんまに辛かった。
 そうして7月27日、朝の6時10分。足かけ6年半、床に臥せっていた親父は最期に僕の顔をじーっと見て、一滴の涙をこぼして静かに息を引き取りました。…その光景はよう忘れません。実は、その日、近大附属高は16時頃から藤井寺球場で、都島工業高相手に夏の甲子園予選大会4回戦を戦ったんです。僕は自転車に乗って試合を見に行ったんですけど、残念ながら結果は4-2で敗北。打ちひしがれるようにして家に帰ってきたら、親父は棺に入れられていました。
 その日の夜、野球部の部長をされていた先生がお悔やみに来てくださいました。その時、先生に言われたんですよ「豊田。おまえ、そこまで野球に気持ちがあるんやったらもう一回学校へ帰って来い」と。それに対して、アホな僕はええカッコして「出戻りにはなりません。なりたくないので帰りません。」と楯つくようなことを言ったんです。そしたら、普段はおとなしくて紳士的な先生が、親父の棺の前で怒鳴ってくれはったんです。「どんなつもりでお父さん、息を引き取りはったか。どんなつもりでお母さん、おまえが気ままにグラウンドに行くのを見てはったかわかるか」と正味怒ってくれはりました。そして最後には言ってくれはったんですよ「豊田、帰って来い」って。
 そんないきさつを経て、翌8月から、出戻りで学校に勤めさせてもらえるようになりました。学校にいる大人たちは誰一人として僕には口をきいてくれませんでしたけどね。おめおめとよう学校へ出てきて、グランドに出て野球やっとるなという、(僕のひがみかもしれないけど)軽蔑のまなざしを感じていました。ほんと、挨拶すらくれなかったですから。だからこそというか、この人たちがおれに物言うようになってくれるのには甲子園しかないなと。意地でも甲子園に出てやると思いましたよ。実際、やっとこさ67年の春に甲子園に出てからは、ぼちぼちと物を言うてくれるようになりましたね。…事情があって、思いもよらぬ形で僕に監督のお鉢が回ってきたのもちょうどその頃でした。僕には野心も打算も一切なかったんですけど、交代して1年後に甲子園を決めたことも手伝って、あたかも監督の座を乗っ取ったかのように思われた向きもあったから辛かったですね。
 だから、決して大げさに言うわけじゃないけど”男の一念岩をも通す”んじゃないかな。ほんと、辛かったですから。悔しさが引き金になっていた部分も大きいけど、やっぱり”意地”じゃないですかね。そもそも僕はあんまり素直ないいハートの持ち主ではなかったですから。(笑)
 ―――遡ると、そんな僕の”ひねくれた根性”は子供の頃に出来上がったのかもしれません。
 というのも、僕は小学校4、5年の時に周りからとてつもないいじめを受けていたんです。ほんとに辛くって、しまいには学校に行くのが怖くなり登校拒否になって、家で引きこもりみたいになっていました。僕をいじめるために10人くらいが束になってくるわけやから、到底太刀打ちできなかった。彼らが寄ってたかってきた時に、「なんじゃ」と言えるくらいの迫力が僕にはなかったですしね。そんでまた、そういう奴らは悪知恵が働くんでしょう。「ボクシングごっこしよう」という表現でもっていじめてきたから、たまらんかったですわ。・・・原因は何だったんでしょうね…。僕が小学校4年の時に日本は終戦を迎え、それと共に野球も徐々に復活していきました。学校内で大会が開催されるようにもなりました。その時、僕は曲がりなりにもボールを捕れたし、放れたし、打つことができたんです。もちろん、体大きくて、上手な奴もおりました。でも、僕はチビだった。そんなチビが野球をやってみせたりするもんやから、周りから反感を買ってそれがイジメに発展していったんやないかなと、今振り返ってみたら思います。まぁそんな中で揉まれていた子供時代を過ごしたもんやから、そら僕もたちが悪くなりますわな。(笑)
 そんな小学校時代を終え、地元の公立中に進む彼らとは違って、僕は近大附属中に通い始めました。だけど、中学になっても、そういういじめ的な行為は変わらず続いていたんです。というのも、電車で中学校に通っていた僕にとって、家から最寄り駅まで行くためには彼らがいる公立中の校門の前は避けて通れない場所。毎朝そこを通る度、彼らは校舎の2階からものすごいヤジを飛ばしてきましたから。でも、辛抱しないといけなかったのはその時くらい。学校に行けば平和だったし、楽しい学校生活を送っていました。
 だから、野球の大会があって、彼らのいる公立中と対戦する機会があろうもんなら、ここぞとばかりにチームメートに言うてましたよ、「今日だけは絶対どんなことをしてもええから勝ってくれ。おれはあいつらにいじめられて、すげぇ悔しい思いをしてるから」と。チームメートはそんな僕の気持ちをわかってくれて、彼ら相手にワンサイドで勝ってくれたんです。だけど、そのくらいでは気持ちが収まらない僕は「こんなくらいの点差でおまえら喜んで特進コース行ってるような顔すんなよ。おれ、気に入らんわい。もっと点取れ!」と鬱屈した思いをぶつけていましたから。(笑)まぁ、悪ガキしてましたよ。(笑)だから、生まれ育った村は僕にとってふるさとではあるけれど、いい思い出は持っていませんでしたね。…そんな風に子供の頃にいじめを受けてすごく嫌な思いをしているから、僕が監督になってからは、就任したどこの学校でも「おれはいじめをする奴は許さん」と言っていました。「いじめられてる人間でないと、いじめられている人間の苦しみはわからん」と。ほんと、耐えられないですから。

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