#53 元・近大附属高校野球部監督 豊田義夫さん


野球と僕と
 そんな生意気なガキだった一方で、こと野球に関しては手抜かりせんと真面目に取り組んでいたんですよ、自分で言うのもおかしいですけどね。たとえ体調が悪くて学校を休んだとしても野球の練習には行っていましたから。要は、それだけ野球にとりつかれていたんです。そんでもって言いたいことをバーッと言うタイプだった僕は、練習中、相手が同級生であろうと、能力的にははるかに上の奴らであろうと偉そうなことを言うてました。言われる方にしたら気ぃ悪かったとは思いますけどね。(笑)高校時代にしても、僕自身が辛い練習ほど先頭切ってやっていたからか、「あいつが言うならしゃあないな」という空気はあったんですよ。例えば、50mダッシュの時に全力疾走をしない奴を見かけたら、「最後まで走れー!!」って。
 監督になってからも、変わらず「50mダッシュと言われたら、55mダッシュ走る気になれ」という教育をやってきたつもりでいます。実際、ゴールから2、3m手前で力抜いて流しよったら、今はもう時効でしょうけど尻バットをやっていましたから。そもそも自分自身が手抜きをようせんかったんです。だから、人が手抜きしているのを見ると腹が立ってしまって。きっと、性分みたいなものなんでしょうね。女房にもけなし気味に言われますから、「あんたは真面目すぎる。考え方が真面目すぎる」と。まぁ部員たちにしてみたらたまらんかったやろうとは思います。実際、僕が用あって練習に出られない時なんかは、普段は僕にがんじがらめに縛りつけられるような状態で顔をしかめている部員たちは「”鬼”(豊田先生)いよらへんから、今日は我らの春や。好きに練習できる」言うて大喜びしていたみたいですから。(笑)
 まぁでも、そういう接し方をしていたのも「浪商に勝って甲子園に…」という願望に等しい夢があったからなんです。僕なりにどうやったら強いチームを作れるかは日夜考えていたし、早朝なり、日が暮れてからなり、時間の許す限りあっちこっちの学校へ足を運んでは練習をこっそりと隠れて見ていました。本を買って読んで、勉強をしたりもしていました。そんな風に自分では野球に関しては勉強してきたつもりではいるんです。まぁ、息子には「親父ほど、野球の勉強をしてない監督おらんで」と一刀両断されてしまうんですけどね。(笑)
 ほんと、頭には野球のことしかなかった。他のことなんて何にもなかったですから。そうそう。一度、息子が中学生のとき、「近大附属高で野球をしたい」って言うてきたんです。でも親子で同じチームでやるのは嫌だった僕は言ったんですよね「おまえの性格やったら、毎日おれにどつかれてばっかりやから辞めとけ」と。結局、彼がその後どこの高校に行ったかは知らないまま。全て女房に任せっきりでしたから。…そう。下の息子が小学校2年くらいの時やったかなぁ。春休みか夏休みの宿題で出た日記に、彼は「僕のお父さんはいつも家にいてません。どこにも連れて行ってくれません。野球ばっかりしています。」と書いたんです。それで心配した担任の先生が「子供さん、こんなこと書いてますけど、お父さん家においでなんですか?」と尋ねてきました。「職業は何してはるんですか?」と訊かれて「実は学校の教員なんです」と答えたらビックリされたんですけど、加えて「野球の監督やってます」と言うたら二度ビックリしてはりました。(笑)そやから、亭主としても失格やし、父親としても失格でしょうね。そのことは、勲章もらえるくらい自信を持って言えますね。(笑)
 それでも女房は、僕が野球をやっている中で味わっていた苦労を垣間見ていたというのもあって、仕事一筋、野球一筋の僕を理解してくれとったというか「協力せんないかん」とは思ってくれていたんじゃないでしょうか。実際、仕事とか野球のことに関しては一切、不平不満、苦情めいたことは口にしなかったですから。――1960年代前半やったかなぁ。近大附属高にはまだグラウンドがなかった当時、時には近くの中学校のグラウンドを貸してもらったり、時には学校から7、8キロ離れた空き地を無理言って貸してもらったり、ひどい時なんかはせまい公園に行って、ブランコとかすべり台で遊んでいる子供たちにのいてもらってバント練習だけでもさせたり…。空き地で練習する時は、城東工業高のラグビー部とお互いけんか腰になりながらも場所の取り合いをしていましたからね。部員たちは自転車なりバスでそこに行くんですけど、僕は50ccの小さな単車にリヤカーをつけて、ベースやバッティングゲージに、ボール、そしてバット…など積めるだけの道具を積んで運んでいました。だけどその単車がエンジンはいつ止まるかわからんというようなオンボロ単車やったもんやからねぇ。よく学校への帰りがけにエンストして、引っ張って学校まで歩いて行っていましたわ。当時、※1中央環状線は開通してないから車は走らへんし、世間は暗闇やし、時刻は20時半とか21時とかになるし…。それが夏の暑いときやったらまだいいけど、秋とか冬になると寒いわ、手がしびれてくるわで、今考えたらほんまぞっとしますよね。ようあんなことしたなと。(笑)今「同じことやれ」と言われても、首をかしげるようなことを当時はやっていましたから。いったんエンストしてもうたら、1時間やそこらでは学校に着けませんからね。歩きながらも、何でおれこんなことせんならんねんなとはよく思っていましたよ。(笑)・・・そやけど、そういう苦労を買えたのも、やっぱり野球のおかげじゃないかな。甲子園っていう揺るがぬ目標があったからじゃないかなとは思いますね。

部員たちへの想い
 ほな、何が何でも甲子園かというと、そうでもないんですよ。例えば、能力的には申し分のないいいピッチャーがおった年もあったんですけど、天狗になっているもんやから、こいつを出すくらいやったら負けてもええわとメンバーから外してしまったこともありますから。そいつに試合で放らしてたら、ひょっとしたら甲子園の夢が叶ったかもしれません。僕が辛抱してればよかったんですけどね…。そんな風に頑な態度なり間違った考えは、僕の場合、至る所で顔を覗かせていたんじゃないでしょうか。
 そんな監督ではあったけれど、基本的には、さかんに言われるような「高校野球は勝つだけが能じゃない」「教育の一環だ」ということは重視していましたね。よく部員たちには言っていました、「世の中に出て人様に後ろ指をさされる人間にだけはなるな。真面目な人生を歩まないかん」って。その中で礼儀作法とか言葉遣いをしつこいなと思われるくらい徹底して指導してきたつもりです。おかげで、卒業後僕に近づいてくれている教え子たちは守ってくれてるんちゃうかと、自惚れているんですけどね。(笑)そういう僕の接し方の原点は、20代の頃、校長先生と過ごした時間にあるのかもしれません。――校長先生は、とてもワンマン…と言うたら悪いですけどね、人に一切妥協しないくらいの厳しさを持っておられた方やったんです。言葉遣いとか礼儀作法といったところも大事にしてはる方でした。そんな校長先生と行動を共にする中で、そういう部分に関しては、お手本と言うたら失礼になるかもしれませんけど、見習ってきたつもりだし、ものすごくプラスになったと感じています。「人の道に外れることはならん」と徹底して教育されましたから。
 それから、こんなことを言うたらええかっこしいみたいに思われるかもしれませんが、僕はレギュラーよりも補欠の子を大事に…と言うたら悪いけれど、そういう考えで部員たちには接していました。例えば父兄とかから差し入れを頂いて、全体で50人、100人いるメンバーに配るとなった時、レギュラーがさもえらい人間になったかのように一番先に手を出してもらうというのは絶対に認めませんでしたから。まず3年、2年、1年と学年別に分けて、1年の補欠が一番にもらう、次に2年の補欠、3年の補欠と続いて、1年のレギュラー、2年のレギュラー、最後に3年のレギュラーという順で与えていきました。だから最後に渡すのは3年のキャプテンと副キャプテン。そういう立場にいる人間は辛抱できて当たり前と考えて接していました。僕としては、上級生が下級生を思いやる気持ちなりいたわる気持ちっていうのを身をもって感じてほしかったんですよね。
 公式戦のベンチ入りメンバーを発表する時にしても、技術云々じゃなしに、真面目にずっとやってきて下積みの生活によく耐えて来た部員に、それが18番であろうと20番であろうと真っ先に背番号を渡していました。きっと彼としては、下手やからメンバーには入れないだろうと諦めていたんじゃないかな。それが、まさか自分が…という感じになるから泣きよるんです。やっぱり、僕としては頑張ってきて良かったと思わせてやりたかった。そういう意味では背番号は、監督から部員に与えられる勲章じゃないかな。実際、周りも文句を言わないし、認めますからね。あいつはあれだけ頑張ってたんやから当然やというふうに。まぁ、不満が出ないような説明も僕からしたりはするんですけどね。・・・それが、僕なりの部員に対する思いやりの表現だったかなぁ。勝つだけやなしに、心のふれあいというか、心の指導というか…。そんな偉そうなことを言う僕がどれほどりっぱな心持っているかと言うと、微塵もないんですけどね。(笑)
 そんな風にえこひいきのないように、平等になるように指導をしていたつもりです。でも、どうしても偏ってしまう部分もありました。例えば、レギュラーメンバーが決まってきて、大会が近づいてきた時には、レギュラーだけの練習になり、サブはおざなりになって目が行き届かんということになりがちでしたから。そんな中でも、サブのメンバーにも楽しみや希望を与えてやらなきゃいかんと気をつけてはやっていましたけどね。だから例えば、近大泉州高校にいた今年の夏、大会前の最後の練習試合では3年生全員20人をゲームに出したんですけど、やっぱりずーっと頑張ってきてやってきて最後にバッターボックス入れたこと、守れたことをいい思い出として残してやれたらいいんじゃないかと。そういうことは他の学校で監督を務めていた時もやっていたし、根本的な考えは変わっていません。ええかっこしいみたいですけど、こっち側の親心とでもいうんでしょうか。
 余談というか、手前味噌みたいになりますけど、嬉しいことに卒業した教え子たちは数多く僕の家を訪ねてくれました。毎年正月の1日から5日くらいまでは100人~150人くらいは来てくれていたかなぁ、今は激減しているけれど。僕は野球の練習で家にはいなかったから、女房が一人で彼らをもてなしてくれていたんですけど、それはありがたかったですね。そういう女房がいたから彼らとしても訪ねやすかったのかもしれませんし。その中でも多いのは、毎回ゲームに出ていたレギュラーよりは下積みの生活をさせた教え子たちの方。実際、後者に当てはまるような教え子ほど真面目なんですよね。場合によっては、こっちが頭下がるような思いをさせてくれた教え子もおりますから。そんな教え子たちが僕の下を訪ねてきてくれて「わずかな試合経験しかなかったけども、あるいは全く試合に出られなかったけども、あの時こういう言葉をかけてもらったことが忘れられへん」と言うてくれたりする。そういうのは監督として男冥利に尽きますよね。だからやっぱり、”心”じゃないかな。心はお金では買えないですから。

僕の原点
 ひるがえって自分自身の選手生活を振り返ってみた時、下手だったがゆえに補欠生活はほんとに長かったですから――。例えば高校時代。1年上の先輩もかなり力があって強かったし、同級生でもプロに行った奴を始めとしてけっこう能力が高い選手も多かったんです。そんな中で僕が1年生の時にした練習と言えば、球拾いだけ。グラウンドのホームベースの後ろにあった蓮池の前にある板塀の上が僕の定位置でしたから。当時は、今みたいなご立派なバッティングゲージや道具なんてないわけです。あるのは、ただ少し天井があるようなこぢんまりとしたバッティングゲージくらい。強かったこともあって、1年上の先輩は冬と言えどもバッティング練習をしていたんですけど、「その定位置に座りながらファールボールが飛んで来るのをじっと待って、たとえ蓮池の中であってもボールが飛んで来たら取りに行く」ことが僕の役目でした。・・・当時、長靴といういいものはないですからね。靴を脱いで素足で氷の張った蓮池に入るもんやから、もう冷たいどころやないわけです。とにかく短時間で水から上がれるように、ボールがある場所に狙いを定めて目を離さず一目散にそこに向かい、ボールを拾い上げて戻ってくるんですけど、その蓮池の持ち主であるお百姓さんが「コラー!!」と言って怒りに来るのとボールを取って逃げるのと競争になったりもしてねぇ。(笑)ボールが見つからない時には、自分なりに納得がいくまで探し回ったりもしていました…。それが原因かどうかはわからないけど、5、6年前まで冬が来る度、足がしもやけになっていたんです。女房にはよう笑われていましたけどね、「その歳になってまだしもやけできるってどんな足や」って。(笑)「ほっといてくれ」とは言いましたけど。(笑)
 そうやってボール拾いを1年以上続けた2年生の6月頃やったかなぁ…。やっと、監督の先生から声をかけて頂いたんです「豊田、今日から外野ノック入れ」って。そらもう嬉しくてねぇ…。打球を追いかけていても、溢れてくる涙でボールが見えなかったですから。
 ――そう。中学校時代の夏休み、8月の暑い時のことです。よう忘れられない出来事があります。当時、近大附属中は部員が皆で20人弱。大学生だった僕の兄貴が監督を務めていました。戦後間もない頃だった当時、練習中には自転車でアイスキャンデーを売り歩いている業者さんをよく見かけました。そんな時(薄給で生活に困る教師も多い時代、)苦学して教員になられたという野球部の部長の先生は僕らに「ほんまはもっと十分なことをしてやりたい。そやけど、おれは経済的に余裕がないからしてやれへん。これくらいしかしれやれへん」と言って、部員全員に1本5円のアイスキャンデーを買うてくれはったことが何度かありました。…そのアイスキャンデーの味は未だに忘れられません。そんな大人に出逢って、自分も大人になったら、何か仕事をするようになったら、先生のような心を持った人間になりたいなという思いを抱きましたから。
 ・・・いじめられてものすごく嫌な思いをした小学校時代に始まり、「こんな大人になりたい」と思う大人に出逢えた中学時代、補欠生活の辛さを味わった高校時代、そして校長先生の側で時間を過ごしたコーチ時代…。僕が監督になるまでに味わってきた経験、歩んできた人生というものは、少なからず監督をする上でも生きていたでしょうね。自分で言うのも僭越だけど、やっぱり多少なりとも苦労してきたという気持ちが強いから、順風満帆に歩んでこられた監督さんとは自ずと取り組み方から考え方から違ってくるんじゃないかな。コーチから監督になるまでも人間くさい世界を彷徨いましたしね。だからやっぱり、僕の場合は異質じゃなかったかなぁとは思います。一般的には高校の野球部の監督になられる人って、大学へ行って野球をして、教職課程をとって…というプロセスを辿るのでしょうから。実際、近大附属高が強くなって注目を集めるようになると、マスコミの方から取材を受けることも出てきたんですけど、記者の人から「どこの大学で野球をやってはったんですか?」と聞かれて「大学では野球やってませんでした」と答えたら10人中8人はびっくりしていましたよね。「それで何で甲子園出るようなチームを作れたんですか?」って。

野球と僕と 2
 その問いに答えるとするならば、やっぱり”意地”じゃないかな。(笑)
 ・・・振り返ってみると、全て意地ばっかりで野球をやってきたのかなぁ。――初めて甲子園の土を踏んだ67年の春以降は、センバツと言えど、甲子園に出させてもらえるようになって、私学7強の仲間入りをさせてもらうこともできました。夏の大会でも、絶えずベスト8や、準決勝、決勝までも残れるようになってきました。と共に、大阪の中でも注目を集めるようには成長してきていたんです。だけど、この世界、色々あってね。84年の秋、監督を辞めさせられたんです。
 それから2年。近大の系列校である近大福山高校の監督さんが退転されたことをきっかけに、僕は大学のお偉いさんから呼ばれて問われたんですね、「まだ高校野球をやる気あるか?情熱を持ってるか?」と。その場で「高校野球ができるなら、北海道の果てでも地球の果てでも行きます」と答えた僕は、単身、福山で暮らすようになりました。その時自分の中では、近大附属高をクビになったという意識があったもんやから、福山で意地でも実績を上げてみせてやろうと思いましたよ。まぁこれも意地ですわな。そんなひねくれた根性を持っていたもんやから、実際、ろくでもないことばっかり身の回りでは起きたし、苦労することばっかりでしたよ。(笑)
 そんな風に波瀾万丈と言うたら大げさにはなるけれども紆余曲折はあったんです。組織の中で人間くさい現場を経験させてもらったと同時に、みじめというのが適切かはわからないけれど、そんな思いもしてきました。とは言え、これだけ長い間監督をさせて頂いたのも母体・近畿大学のおかげ。ろくでもないし、実績もあげなかった監督が50年という長い間野球させてもらったわけだから、ありがたいことやなぁと思います。まぁ、やっている時は不満とか文句ばっかり言うてましたけどね。(笑)実際、これだけ長い間、監督をやって1回も夏の甲子園に出てないというのは笑い者にされたりしたんです。それでも近大附属高時代、5年間のうち4年は大阪大会決勝、1年は準決勝までコマを進めた時代もありました。もしその頃に甲子園に出ていたら、監督を辞めていたか、あるいは辞めさせられたか…。そう考えると、夏の甲子園に出ていないから、自分にも意地があったから、ここまで続けてこられたんじゃないかなとも思います。それがいいか悪いかはわかりませんけどね。
 ―――たまたま、何の巡り合わせか高校野球に関わることになって、コーチにもなって、監督にもなって…。母校で球拾いの手伝いを始めた時には夢にも思わなかったような人生をこれまで歩んできました。そうしてのべ50年ほど務めてきた監督業なりコーチ業から身を退けて約1ヶ月が経った今、胸に去来する思いがあるんです。それは、おれ何してきたんやろな~、何にもしてないんとちがうかな~、どさくさに紛れて50年やらしてもうてきただけじゃないかなぁ…という思いなんです。選手を怒り倒すことだけが能やったんちゃうかと…。それでもやっぱり50年という月日を振り返ってみてね、誰も褒めてくれる人おらんから自分で自分を褒めてやろかなとは思っています。(笑)「豊田ようやったなぁ、ようがんばったなぁ」とは実感として言える言葉ですから。いずれにしても、好きなことをやり続けられてきた人生だったし、幸せな人生だったなとは思います。友達とか同級生とかからも言われますからね、「あんた、幸せや思いなはれや」って。
 やっぱり、野球、特に高校野球には取り憑かれていましたから。携わった人間でないとわからない感激や感動、一方で悔しさ、無念さ…といったものも色々と味あわせてもらいました。野球をやる子供が好きでもありましたしね。純粋にボールを追いかける姿に心打たれるというかなぁ…。今でも公園で小学生とか中学生が遊び半分でも野球をやっているのを見ると立ち止まって5分、10分程眺めている時もありますから。
 それでも、50年間やってきたとしても数多くやり残してきたことがあるなぁという思いはあります。だからもし、「ボール拾いにでも来い」って言って頂ける所があれば、贅沢言わずに行くんじゃないかな。監督じゃなきゃいやだとか、コーチじゃなきゃいやだとか生意気なことを言うつもりはありません。まぁそんなありがたい世界ではありませんから、もうこの間で終わったとは思っています。そやけどもし声をかけてくれるチームとかがあるんやったら、たとえそこが地球の果てであっても行く気はあります。僕にとって、野球というものに携われていること自体が幸せですから。たらればの話にはなるけれど、あのままずっと球拾いを続けていたとしても、野球とは何らかの形で関わっていたんじゃないかな。結局のところ、僕は野球からは離れられないんじゃないでしょうか。やっぱり、骨の髄まで野球っていうものが染み付いているんですよね。

 

[編集後記]
かつて外野フライを追っていた豊田選手が流した涙と、豊田監督から背番号を真っ先にもらった選手が流した涙は、もしかしたら同じ色をしているのかもしれない。

※ ちなみに、僕はこの映像を見て、豊田さんへの取材を申し込みました。

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