#54 農家民宿 いろり 女将 伊藤 信子さん

blog_photo 伊藤信子さん「今思うのは、中津川ここにいて良かったなってこと」

 

1939年生。飯豊町中津川出身、在住。20歳の時、結婚。役場に勤める旦那が働きに出ている間、主婦として農作業や3人の子の子育てに勤しむ。2007年春、中津川地区の他7軒と共に民宿組合を立ち上げ、自身は自宅近くにて農家民宿「いろり」の営業をスタートさせる。以来、個人のお客さんや中学生の教育旅行の受け入れを行っている。息子夫婦と同居している。

農家民宿を始めて
 「限界集落」という言葉をよく耳にするようになったのは、確か2000年代半ばのことだったでしょうか。”人口の50%以上が65歳以上の高齢者”という限界集落の条件に当てはまった飯豊町中津川地区は、その一つとしてメディアからも取り沙汰されるようになっていました。
私は、そんな中津川地区岩倉にある、400年くらいの歴史を持つ家で生まれ育ちました。――1600年。九州から上杉氏を頼ってこの地に入植した私の先祖は家来18人を引き連れ、直江兼続と一緒に長谷堂城の戦いに出向いたと聞きます。結局、彼は朝日町の八ツ沼で討ち死にしたものの、その息子がなんとか生き残って帰って来て以来、伊東家は継がれ、私の弟で18代目となっています。それ以前の、長井氏や伊達氏がこの区域を治めていた時代(14世紀)からここに人は住んでいたとか。そんな風に、歴史はあるし、私自身もここでずっと過ごしてきた人間として、「限界集落」と呼ばれることはやっぱり非常に悔しいんですよ。 おそらく、中津川に住む多くの人たちも同じような気持ちだったんじゃないかな。そのおかげで、民宿組合を立ち上げようという気持ちは後押しされましたけどね。里親会(2005年に地元の有志たちにより発足。2012年まで、主に都市圏からの小中学生の山村留学生を短期・長期ともに受け入れてきた)という地盤の上に、2003年に実施された旅館業法の規制緩和や、県のグリーンツーリズム協議会とかからの働きかけも相まって、結局、「民宿をやります」と手を挙げたのは中津川地区だけで8軒。時機が良かったというか、みんなの気持ちを一つにするタイミングが良かったんでしょうね。
そうして、2007年の春。有志たちで立ち上げた「中津川農家民宿組合」はスタートを切ったんです。以来、稼働している民宿の増減はありつつも、今年で7年目。当初は全く民宿組合だけの動きだったけど、去年あたりから地域ぐるみ、町ぐるみで農都交流事業が動くようになったおかげで、組合としての負担はだいぶ減りました。
それに、中津川地区の農家民宿の場合は定員5人。出来る範囲、できる能力でやれるからいいというのもあります。
例えば、中学生の教育旅行の受け入れの際にも、宿泊は多くとも5人だから、子供たちとは密なやりとりができます。そう。一泊して帰る時、泣く子もいましたから。その子に関して言えば、来た時は意外とそっけない子というか、何かあるなぁと思っていたんですけどね。宿に入って来るときも靴を脱いでそろえたりとか、その5人の中でも一番大人びていたような子が帰る時にねぇ…。私もびっくりしましたよ。おそらく何か感じるものがあったんでしょう。
そんな風に一泊という短い時間ではあっても、何かを感じてくれた子が大人になった時、必ず訪ねてくれるんじゃないかなぁとひそかに期待しているんです。だから、子供らにも、「一生のうちには色んなことがあるから、淋しくなったりした時には来いよ~」って言ってやるんですよ。実際、彼女たちが10年後か20年後にここを訪れる時には、私が生きているかはわからないですけどね。(笑)ただ、来なかったとしても、心の中にどこか思い出すような場所があることはいいんじゃないかなと思って、そういう声かけだけはしていますね。

私たちの日常
 こないだ農都交流ということで、大手旅行会社の社員研修として今年の新入社員が2回来たんです。「研修」の場を提供するとあって、私らは何をすればいいのかなと少し悩みました。今まではただお客さんに料理が美味しいなって言ってもらえればいい、嬉しいと思ってもらえればいいと思ってやってきたけど、果たして研修の場として私らは何を用意すればいいんだろうって。
でも、研修の最終日、彼らが発表した感じたこと・学んだことを聞いた時、その悩みは拭い去られました。例えば彼らはこう言ったんです。「煮物や漬け物を食べて、これが日本の食べ物の原点なんだなってことを感じました」って。中には、全くの都会育ちの子だと思うけど、農業体験をして米粒が籾殻の中に入っているってことを初めて知ったという子もいましたからね。他にも色々あるけれど、私らにとっては何気ない日常が(彼らにとっては)全て珍しいことであり、勉強なんだなと気づかせてくれました。何か教科書を持って教えるみたいな感覚を持たなくてよかったんだな。ごく普通に接して、ごく普通のことを話して聞かせればよかったんだなってつくづく思いましたから。
彼らが帰る時、「ばあちゃんが教えられることはこんなことくらいだ」と前置きして言ったのは、「独身寮さ入っても、決してカップラーメンは毎日食うなよ」ってことと、「将来的には絶対結婚しろよ」ってことの二つだけ。「あとは何にも教えることなんてないから」って。
「結婚しろ」と言うのは、結婚をしないと考え方とかやるとことか、どこか世間ずれしてくるところはあるように感じるからなんです。それにこの歳になって、子供もいない、孫もいないという状況を想像してみると…。淋しさは全然違うのかなと思うんですよ。まぁそれはその人の生き方だから、余計なことと言えば余計ですけどね。それでも、やっぱり社会的な面とか色んな面で損だとは思うんです。
今は離婚も多い時代だけど、私らの時代はいったん結婚したら、少々泣いたくらいでは実家に帰るなんてなかったですからね。やっぱり、人間どういう場合だって、そんなに楽で甘いことばっかりで過ごせる一生なんてあり得ないんだから。その場で多少がまんすることが、ゆくゆくは楽なことにつながるのか、あるいは大変なことにつながるのかちっとは考える時間を持っても良さそうなもの。まぁそれが時代の違いなんでしょうけどね。やっぱり親の教え方というか、結婚する時点で「結婚はそんなに甘いもんではないよ」ってことを教えておかなければならないんじゃないかな。ただ楽しいことばかりに浮かれていたところで、そんな時間は長続きするはずがないわけですから。経済的なことに加えて、子育ても伴ってくるわけで。(古い考えだと言われるかもしれないですけどね。)
私らの年代だと、親から言葉としてそういうことを言われなくとも、ずーっと親の姿を見てきているから、今のように離婚することが当たり前なんてことはなかったですよね。仮に離婚でもして実家に帰ってきたら、「出戻りさん」と世間から揶揄されるような感じでしたから。親に恥をかかせることにもなりますし。
もちろん、私だって、本当にいやだなと思ったこともありました。決してなくはなかったんです。(笑)ましてや、”昔の嫁”なんていうのはねぇ…。だけど、子供を離して苦労するくらいだったらやっぱり子供の側で苦労をした方がいいと、自分で言い聞かせて乗り越えてきましたよね。

中津川(ここ)で生きて―― 1
そんな風に生まれてから一度もこの地を離れることなくこれまで生きてきたからこそ、外の人から「限界集落」という呼び方をされるのはほんとに悔しい。
ただ、今の状況だとねぇ…。例えば、高齢者が二人暮らししていた家で、夫婦のどちらかが亡くなると、もう一人は一人でいられないからと施設に入った結果、家が一軒なくなり、また別の老夫婦のうち一人が・・・という感じでどんどん人が減ってきていますから。全くさみしいことではあるけれど、それが現実なんです。うちのように、息子夫婦と住んでいるなんていうのは、ほんと何軒かしかない状態ですから。
それでも、飯豊町も加入している「日本で最も美しい村」連合の理事の人なんかはこう言うんです。「都会は先が見えているから、30年後には中津川のような所に人が還って来る。そこまで持ちこたえられるかどうかだ」って。「30年後にはもう、都会には人が住めなくなっている。だから今は、こういうところが元気になるその端境期なんだ」と。私もできればそこまで見たいんですけど、それじゃあ化け物になってしまいますから…。(笑)
今でこそ、そうやってこういう場所の良さが見直されてきている傾向はあるけれど、かねてから都会から来た人、特に若い人なんかは「何でこんな不便で何もない場所で生活しているのか?」みたいな感覚を抱いているのを住民として肌で感じてきましたよね。でも、私らにすれば、ここでずっと生活してきて、目の前のことを処理するのが当たり前。しなければ生きてらんねぇていう感じで、よそ目を振ろうなんて思わないで、精一杯生きてきたわけです。
今はもう、うちでは田んぼをやっていないけど、かつて、旦那は私の世代では珍しく役場勤めだったから、自分一人で田んぼや畑を精一杯世話しないといけなかったし、それをこなしていかなければどうにもならないという状況だった。それと並行して子育てをしながら、その時その時を精一杯生きようという思いしかなかった。
そんな風に生まれてこの方ずっとここで生きてきたわけだけど、それが悔しかったかというと、そうでもないんですよね。特に今、こうして民宿なんかをやっていると、この歳になって初めて自分の思い通りになること、自由なことができているという喜びを感じているんです。私自身、元々人が嫌いではないから、この民宿を通じて色んな人と出逢えることを非常に楽しめているという今がある。だって、民宿をしていなければ、この歳で大学教授と話をできるなんてあり得なかったでしょうから。

中津川ここで生きて――
 でも、残念なのは、私も通った中津川小中学校が昨年度いっぱい(2013年3月)をもって廃校になってしまったこと。そうなると、通学手段が徒歩からバスへと変わってしまったわけです。やっぱり、登下校の中で、ここの自然に触れていなければ、子供の心に沁みるものがないんじゃないかな。バスに乗っているだけだと、きっとその半分も感じることができない。(小学校4年生までは岩倉分校に通い、)小学校5年生から中学校3年生までの4年間、片道4キロの道のりを歩いて中津川小中学校に通った私自身、今でも目にした風景を通して子供の頃のことを思い出すし、子供の目で感じるものって違うものがあると思うんですよ。逆に、バスで通り過ぎるだけだと、絶対ここがいいとか、大人になってもここで暮らそうっていう思いは育たない。…まぁ、終わったことだから言ってもしょうがないんですが。
自身の子供の頃はと言うと、学校っていうのは歩いて通って行くもんだとしか思ってなかったですけどね。外に出る機会なんてなかったし、テレビもないから外の情報を手に入れる術もない。4キロ歩いたってそれが当たり前、冬の寒さでマントがカチカチになっても仕方ないという世界でしたから。でも、これが馬鹿らしいとか他の人より大変な思いをしているとかって比較して感じる資料がなかっただけ、幸せだったのかもしれませんね。(笑)もし、当時、今の子たちのように、毎日画面から色んな情報を得て、自身の境遇と比較するという視点を持っていれば、みじめな思いを抱いていたかもしれないわけですから。
学校のことだけじゃなくて、仕事のことにせよ結婚のことにせよ、自身の生活の全てがそういうもんだと思って、そこを切り抜けるために毎日頑張ってきたという感覚なんです。だから、「人間、終わりよければすべて良し」って言うけど、それほど不自由もしないし、世間並みの美味いものを食いたいと思えば食える今に生きていられてよかったかなと思っているんですよ。長い間、日々を精一杯生きてきて、人生の終盤になってようやく自分の好きなことをできる時間を持てるようになったわけですから。一方で、私より上の世代の人なんかだと、そういう時間を一生の間に一度も持たずに、ただ苦労しただけで死んでいったという人も多かったであろうことを考えると、今の年寄りは幸せだなと感じますよね。
やっぱり、私の世代の人は、色んな面で「耐える」っていう時間を過ごしてきたからこそ、楽しめている今がある。その瞬間、瞬間は精一杯生きていたからこそ、幸せだと思える今がある。今日は田んぼに入って、隣近所から遅れをとらないように作業しなきゃ恥ずかしい思いをする――。そんなつまらないことに精一杯の力を注いでいた過去を振り返ってみて、馬鹿くさいと言えば馬鹿くさい話だとは思います。でも、その時はそれが精一杯だったし、それを決して悪くは思わない。悔しいとも思わない。
ここに生まれて70数年――。今、ここにいて良かったなって私は思っています。


<編集後記>

自分を褒めたいわけではないけれど、写真に撮った「ばあちゃん」の顔に見とれてしまっている僕がいる。

記事公開:2013.11.15

Pocket