#55 写真家 前田 有歩さん

blog_photo 前田有歩さん「最近思うんですよ、写真でしか自分を表現することはできないんじゃないかって」

 

1974年生。高校卒業後、1年間の浪人期間中に物理の世界に惹かれ慶応大学理工学部へ入学。1998年3月、大学を4年で中退。同時に、それまで働いていた飲食店に就職。3年後、閉店に伴い、別の店舗に移る。2004年より築地の仲卸の仕事を始める。3年後退職し、妻の実家に婿入り。2008年頃より山形の風景の写真を撮り始め、2013年8月には自身初の個展「みぢかなところ」を悠創館(山形市)にて開催。11月にも山形まなび館にて個展「- + – – – + -」を開催した。 Webサイトはこちら

  

“表現”を始めて…
 何かを表現したいーー。振り返ってみれば、そんな思いは子供の頃からずっとあったんですよね。
私が子供の頃は、版画家の父の影響もあり絵が好きでよく描いていました。小、中学校の頃は父親からけっこうちゃんと習っていたから絵の基本はあったし、コンクールがあれば特賞をもらえるくらいのスキルはあったんです。
それで大学の美術部に入ったら…。上手い人はたくさんいるわけです。敵わないんですよね、色の重ね方の巧さとか奥深さとかは。それに、例えば油絵を描いている人たちが何日もかけて一枚の絵を仕上げるという姿を目にしていると、自分にはこんな根気よく追求できないなって思わされたんです。
この道を続けるのは厳しいな…。そんな思いを抱えながら何か代わりとなるものを探していた時にカメラに出逢ったんです。確か、その時流行っていたのかな。父親から一眼レフのカメラを借りて撮ったのが最初だったと記憶しているけれど、撮りたいものがそのままダイレクトに写る手っ取り早さがきっかけとなり写真を撮るようになったんですよ。
そんな単純な動機で撮り始めた写真ではあったけど、撮り続ける中で漠然とではあっても伝えたいことが見つかってきたんです。例えば、渋谷で飲み歩いている時、ふと周りに目を向ければ色んなタイプの人がいて、同じ女子高生でもこんなに違うんだといような気づきがあった。そういう光景を目にしながら、こういう多様性があっていいんだっていう思いをこめて写真を撮るようになると、少し違ってきましたよね。だから、当時写真にのめりこんでいったのは、伝えたいことが見つかったことに加えて、それを上手く表現に結びついたことが大きかったんじゃないかな。まぁ今思えば薄っぺらいことなんだけど、自分にも表現したいことがあったんだという喜びはありましたよね。
――当時、自分の考えや思いを表現したいという思いは胸の内にありましたから。必ず写真でというわけじゃないけれど、文章でも何でもいいからとにかく表現をしたいという思いはすごく強くって。というのも、美術部の仲間たちと毎晩のようにアトリエで飲んでいると表現についての話題が多かったり、当時流行っていたフランス映画をよく観に行っていたりするうちに表現への欲求が高まってきていたんです。
さらに遡れば、小学校の頃はすごく小説が好きな子どもだったんです。特に北杜夫は大好きな作家で。彼の書く文章の上手さというか、言いたいことが文章を通して伝わってくる感じを覚えながら、私の中にいつしか表現することへの憧れが芽生えてきていたんですよ。でも、いざ自分が表現するとなった時、その手段が見つからない時期がずーっと続いているという状態だったんです。

身近だった”自由”
 何せ、それまでは(自分の意志だったみたいですが)塾通いをしていた小学校高学年の頃から中高一貫の進学校にいた頃まで、何だかんだ勉強が中心の生活を送ってきましたからね。大学に入って自由な時間が出来て、自分のことを振り返る時間が多くなったことも後押ししてくれたんでしょう。

 いや、進学校とは言っても、学校内にはけっこう自由闊達な空気は流れていたかな。国立の学校でカリキュラムを変えられないということで進学のための授業なんてほとんどなかったし、入ってみると進学校の匂いは全然感じなくって。いい大学に行きたい人は、塾に通うなどして自分で勉強するという感じだった。
 その学校は小学校から上がってくる人たちもいたんですけど、彼らはほんとに自由だったんですよね。まず、男女の区別がないというか、意識していない。それに、親に確認して何かをするのが当たり前だった僕とは違って、自主性も高く、自分たちで考えて自分たちで決めるということを当たり前のようにやっていることに愕然としたんですよね。例えば、日本シリーズのチケットを取るにしても、自分たちで考えて防寒着を着込んで前日から並んで買ったりしていましたからね。
そう考えると、”自由”というものには昔から縁があるのかな。
 まず、父親は自由業だし、サラリーマンをやったこともないという根っからの自由人。何にも縛られることなく生活を送っていたから、子供を束縛する理由なんてなかったんでしょう。母親にしても、今思えば、手に職をつけたり、あるいはそれなりの大学に行って…ということは少しは考えていたでしょうけど、直接そういうことを言われたことは一度もなかった。
 小学校の頃、そんな両親がいる家庭の方針としてあったのは、「本は無制限に買っていい」というものでした。その自由を存分に享受していた私は当時、無制限に本を読んでいましたから。だから、小学校時代がたぶん人生の中で一番本を読んでいるんじゃないかな。8000円くらいする理化学辞典も買って読んでいましたしね。
 決して本しか買ってくれなかったわけではなくて、「○○が欲しいから、いくら必要だ」ってことをきちんと言えば大体のものは買ってよかったんですよね。でも、そういう条件だと、いったん欲しいなぁとは思っても、言うまでにやっぱりあんまり必要ないなとわかってきたりもして。とにかく、家庭内で厳しさは全く感じていなかった。
 大学に入っても、美術部の雰囲気を始めとして私の周りには”自由”がありふれていたような感じでしたから。1年の頃からたまたま選んだ原宿の個人経営の飲食店でアルバイトを始めたんですけど、マニュアルはないに等しい感じだったし、スタッフの裁量も大きく、新しいメニューとかを自分たちで常に考えられていましたからね。賄いも自由に作ってよくって、その中で生まれたものを実際にお客さんに提供する料理として出すことも許されていた。加えて原宿という場所柄、ファッション性の高い人がたくさん来て、料理に対する指摘をしてくれたりとお客さんとも近い距離感で接することができていたんです。
 山形の妻の実家に婿入りする時も然り。私は一人っ子の長男ですけど、普通の家庭だったらたぶん家を出れないんじゃないかな。でも、うちの両親はお互い末っ子どうしで”家”の観念も薄く、自分が好きなことをやってきていることもあって、「あなたも好きなことを…」という考えはあったんでしょうね。だから、何の不安も後ろめたさもなく山形に来ることができたんです。むしろ、母親からは「いつか山形に行くんだったら、今のうちに行きなさい」と背中を押されたくらいですから。(笑)
 そう考えると、たぶん家庭内でも周りの環境でも厳しさというか束縛を一切経験していないという意味では恵まれましたよねぇ。当たり前のようにして身についた縛られない考え方みたいなものは、今の自分にも大きく生きているでしょうから。

山形で暮らして…
 大学を辞めた頃からしばらく離れていた写真に再び目が向いたのは、4、5年前くらいだったかな。山形に来て数年が経った頃のことでした。

 友人の撮った写真がきれいだったこと。それが一番のきっかけですね。悠創の丘で撮った雪の風景の写真だったんですけど、ほんと、今でも忘れられないくらい。それで”山形の風景”にアンテナが立つようになった私は、自分も撮ってみようと再びカメラを手にしたんです。
 そうしてカメラを片手に身近なところに足を運ぶ中で、だんだん良さを感じるようになり、シャッターを切るようになっていたんです。そして景色を撮り始めると、今度は例えば田んぼの風景ならば「この堰から田んぼに流れ込んだ水が稲を育て…」という風に後付けの理屈ではあっても意味が出てきたんですよ。
 ならばその写真を他の人に見せてあげたいなと思うようになるのも自然な流れ。たまたまイコールで結ばれたというか、伝えられるんじゃないかと思うようになってきた。それはここ2年くらいの話だけど、その頃からつながってきたような気はしますね、大学の頃の写真とか、食という自身の過去の経験と。
 だから、義理の父が死んだ後、親戚一同から「辞めてもいい」と言われた米づくりにしてもあえて続けているんです。まぁ自家用米しか作っていないから、道楽ではありますけど。そうは言っても、大変なことは大変です。本音を言えば、僕自身もいつ辞めたっていいというのがあるからやれているんでしょうね。逆にずっとやんなきゃいけないってなったら、たぶん逃げるんじゃないかな。でも、やっぱりそれでも辞めずに作り続けることに意味があるなと思うのは、米づくりを通して昔のことを思い出せるからなんですよ。――前田家は昔はちゃんと農業をやっていた家で、農業に対する考え方やノウハウも妻の祖父から聞いています。60年くらい前に馬が田を耕していた時代の話を聞くと、今はどれだけ楽しているんだと実感させられますから。
 今私が住んでいる地区の中で昔からの家といわれている80世帯があるんですけど、その中で米を作っているのは13世帯で、出荷してるのは5世帯しかありません。それでも、地区の人たちで協力し合って人足を出して堰上げや草刈りといた共同作業をしているわけです。この先、代が変われば、その流れが途絶えてしまうことも十分に考えられる…。私はそれに歯止めをかけたいし、ならば続けていかなくちゃいけないのだと思う。
 その一つの手段として、私は写真を使いたいなと考えるようになりました。言葉で言っても伝わらないと思うからこそ、撮って伝えようと。だから、先月(2013年10月)に行われた新宿でのグループ展(「Japanese Beauty」Samurai Foto (Japan FIne Art Print Club) 主催)での展示は、私にとってそういうことを訴えるための手段でもありました。米づくりの現場をを見たことがない人にも思いを馳せてもらいたいなって。
 ・・・恥ずかしい話ですが、自身、東京にいた時は水田で稲を作ることはわかっていたけど、田んぼに張っているのは溜まった雨水なんだろうという程度にしか思っていなかったわけです。「蔵王に大きなため池を作ってそこから数多ある田んぼに整備した堰を通して水を行き渡らせている」という絵は描けませんでしたから。実際、目の当たりにして、そして米を作ってみて初めて、あ、水ってこんなに大事なんだと思えるようになりましたからね。
 ――義理の父と義祖父の葬式で地域の人から顔を覚えてもらい、「まだ誰も友達いないんだから、まず消防団に入れ」と誘われたのが地域に入っていく最初のきっかけでした。消防団に関して言えば、悪いウワサしか聞かなかったけれど、とりあえず声をかけてもらったからということで入ったんです。そして今は地区の組合の役員にもなっています。決して双手を挙げてやりたいというわけではないけれど、代々そういう役割を担ってきた家にいて、将来自分もここに骨を埋めるのはわかりきっていること。遅かれ早かれやらなきゃいけないことだったら、早めにやっておきたいなと。
 正直、やりたくないことはたくさんありますよ。「何で朝の5時半から草刈りをやらなきゃいけないの」とか「わざわざ集まって打ち合わせをする程のことでもないんじゃないか」とかって思うこともあるわけです。だけど、そうやって顔を合わせる機会があるから馬鹿話を含めた色んな話が出来ているところもあるのかな…と、前向きに捉えるようにしていますね。
 実際、消防団にしても若い人はいるし、年齢的なことを理由に一言断ればそれで済んだのかもしれません。田んぼにしても、義父が亡くなった時点で辞めようと思えば辞められたのでしょう。
 でも、その世界に興味はあるし、やれる限りやってみようという思いはある。それに、やったからこそ地域のことを考えられるようになったのかなとも思います。結局、自身がそういう生活を送っていることが写真に表れてくるんだと思いますしね。

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