#56 日本語教師の卵 會田 篤敬さん


 実際、外国語を修得することって、ほんとに未知の可能性を秘めていると思うんですよ。自ら英語を習得するという体験をしてきた者としてその可能性は計り知れないなって。英語ができるようになってから、何というか、自分の周りを囲う世界が少し変わってきたんだけど、その変化に自分自身が一番感動していますから。人生の幅が格段に広がったというか、もう「180度変わった」という言葉では足りないくらい。点であった自分が、3次元、4次元になっちゃったような感覚がある。
 ところで、演劇を含めた芸術って、ひどい言い方をすれば、人が生きていく上で何の必要性もないものだと思うんです。いわば、ムダの部分だと。でも、そんな芸術があるから楽しいものとか美しいものが生まれたりするわけで。
 日本という国はわりと「ムダを省く」とか「失敗を許さない」という風潮があるのかなと思うんですね。だから、そういう環境で育った人も、自ずとそういう思考を身につけてしまう傾向があるんじゃないかなと。でも、僕は思うんです。ムダなものがあればあるほど、人間としておもしろいんじゃないか。よりよい人生を送れるんじゃないか。気持ちや振る舞いにも余裕が出て、卑しさからは遠ざかることができるんじゃないかって。
 日本人にとっての英語も、言ってみれば”ムダ”の部分だと思います。というのも、日本の中に一生いたって生きていけるじゃないですか。日本の英語力が低い理由の一つに、将来日本で働くつもりという人が多いことも挙げられるはず。
 それはアメリカ人にとっても然り。アメリカ人にとっての日本語も同じようなものではないかと。いや、もっとムダなものかもしれない。
 だとしても、いや考え方から歴史、見た目…、何から何まで正反対と言えるような両者だからこそ、アメリカでずっと生きてきた人が日本を知ることでよりムダなものが増えて選択肢も増えると思うんです。そしてきっと人生も豊かになる。
 日本語教師(になる予定)の僕が一番望むことは、それぞれの子供たちがよりよい人生を送ること。そのためにはいかにムダを作れるか。そして、そのムダによって、いかに可能性や幅を広げられるか。それが日本語教師としての僕のメインテーマ”国際化”にも繋がると思っていますから。
 僕の理想は”共育”。つまり、生徒たちも僕も一緒にでっかくなること。教える人じゃなくて、生徒たちと一緒に何かを勉強していく場やきっかけを与える人でありたいなと。いわば、その場の進行係のようなポジションかな。彼らの成長を手助けしつつ、僕自身もどんどん勉強して殻を破ってどんどん大きくなっていくというのが目標ですね。

僕が大事にしたいこと
 僕はそんなにポテンシャルが高い方ではないと思うけど、もし自分がティーバッグだとしたら紅茶が出なくなるまでつかっていたいみたいな思いはあるんです。紅茶をしっかり出せる状況に身を置くことが、僕にとっての自立であり、責任だと考えています。要するに、いかに自分の力を100%出すかということ。それは常に全力で走り続けるということじゃなくて自分の良さをいかに発揮するかということ。
 自分で自分を分析してみて、いい方に出るときはすごく良くなるし、逆に悪い方に出る時はとことん悪くなるという性質を持っています。食材で言うと、パクチーみたいなものかな。要するに、かなりアクが強い。好きな人は好きだけど、嫌いな人にとっては臭いだけ。そんな感じの人間だと思っています。
 パクチーならパクチーなりの良さを100%出せるように努力したいなと。出来れば、エスニック料理とかタイ料理とかにもぐり込みたいわけです。間違っても、フランス料理には行かないようにしないといけない。実際、そうやって自分の良さを出さないと、周りに迷惑がかかると思いますからね。逆に、出すことで貢献できて、心の余裕が生まれるでしょうし。
 そう生きるために、今の僕にとって進路を選ぶこととは、例えるならお土産屋さんでお土産を選ぶことです。店に美味しそうなケーキがあったら、まず試食しますよね。で、すごく美味しかったとする。調子に乗って、店員さんの目を盗んで二個目を食べてみる。するとそれほど美味しく感じられないことってあるじゃないですか。勉強だったら、入門編はすごい楽しくても、実践編、発展編へと進んでいくと一気につまらなくなるという感じです。結局そのケーキを買うかどうかは、2口目が美味しいかどうか。さらに何口食べても美味しいと思えるケーキであってほしい。でも、試食をしない限り絶対にいい・悪いの判断は下さない。それに、美味しくないなと思って食べるよりは、美味しいと思って感謝して食べた方が作った人も嬉しいでしょうから。
 その理屈を人生の道に当てはめるならば、ケーキで言うところの「一生食べ続けても飽きないもの」を僕は仕事にしたいんです。
 今の僕にとって、それは言語です。そもそもたわいない憧れを出発点に英語と出逢っていなければ、全てが始まっていないわけですから。英語の能力を生かせる推薦入試制度を使っていなければ、TSUTAYAで毎日のようにDVDを借りることもなかったかもしれない。それすなわち演劇を始めることはなかったかもしれない。日本社会の”正解”に違和感を感じなかったかもしれない…。そんな言語というものの力が僕に及ぼした変化に、自分自身が一番驚いているわけです。感動してしまっているわけです。だからこそ、今度は教師としてそれを生徒たちに提供したいと思う。
 やっぱりお金をもらう以上、文句を言いながら仕事をしたくないですしね。文句ばっかり言っていると、気持ちまで汚くなっちゃうじゃないですか。それが嫌だから、僕は納得のいく形で仕事をしたい。「何になりたい」というより、「どう生きたい」という方に重きを置いている感じです。
もっと言えば、自分自身の心が豊かというか、すごく幸せならば、文句だけじゃなくて人を傷つけるような行為も出てこないと思うんですよ。自身がそういう状態でいたいし、そういう生き方をしたいからこそ、僕は個人個人のことに重きを置いている海外に身を置いてやりたいことをやるという道を選ぶんです。まして僕はどちらかというと、スポンジタイプで周りの影響を受けやすいからこそ、あえて自分から環境を変えて人に優しくできる心の状態に持っていくことが必要かなと。それが、22年と約半年という過去を踏まえて出した結論です。ある意味、それは自分の人生を自分のためにオーダーメイドするということ。
 自身、将来に対してけっこう楽観しているところはあって、英語圏の先進国に限らず、地球上のどこかの国で食べていければいいのかなと思っているところはあるんです。一つの国に安住していようとは思わないし、転々としながらも自分に色んな色を入れていきたい。生意気なことを言うようだけど、それで最期、死ぬ時にどんな色になっているかが楽しみなんですよね。そのためにはただのスポンジではダメ。からっからに乾いたスポンジになって、油であろうが、洗剤であろうがつけられたものは全部吸収してやろうというような気持ちはありますから。

 

<編集後記>
會田篤敬というスポンジは、洗剤や油どころか、手垢や食器のコーティング剤まで吸収してしまいそうだ。

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