#58 加工蔵まや 所属 伊藤孝紀さん

伊藤孝紀さん
 「自然は、僕にとって関わらずにいられない存在になったんです」

 

1987年生。神奈川県横浜市出身。山形県鶴岡市倉沢(朝日地区)在住。8歳の時、鶴岡市にある父の実家に両親とともに引っ越す。高校卒業後、トレーナーを目指し、東京の日本工学院専門学校に入学。卒業後、実家に戻ってくる。トレーナーとしての就職先を探す傍ら、地元の農家の手伝いをする中で徐々に農業に興味を持つようになっていく。2009年より独学で栽培し始めたアスパラガスを産直市場や個人の顧客相手に販売。13年4月より有限会社米作にて働いている。また、母が営む加工所・加工蔵まやにて食品加工にも携わっている。そのかたわら、狩猟免許や山岳ガイドの資格の取得を目指している。 

記事公開:2013-12-24

 

本来の自分に戻って…
 スポーツトレーナーになりたい。――遡ること、約8年前。高校生の頃の僕は、そんな夢を抱いていました。
 その夢と社会勉強として一度は都会暮らしを経験してみようという思いを掛け合わせて決めた進学先は、スポーツトレーナーの資格を取れる東京にある専門学校でした。そしてその専門学校を卒業した後は、地元に戻ってきて親元から通える範囲で資格を生かせる仕事場を見つけるという青写真を描いていました。
 そんな思いを抱きながら、東京で暮らし始めてみると…。その2年間はこれぞ都会暮らしだと思えるほど多忙な生活を送る毎日でした。まず環境が全く違うことに加えて、4年制大学では4年かけるところを2年で凝縮して学ぶという専門学校の性格上、組まれていました授業カリキュラムは過密でした。実地研修であちこちを飛び回り、休んでいる時間と言えば、家で寝ている時間だけといっても過言じゃないくらい。ほんと、今までの26年間の人生の中で、この2年間ほど多忙な学生生活を送ったことはないなって言えるくらいの多忙さでしたから。
 そんな中でも、目標としていたスポーツトレーナーの資格を在学中に取得。卒業した2008年の春には計画通り地元に戻り、トレーナーとして働ける仕事場を探し始めました。けれど、なかなか見つからないので、仕事が見つかるまでのつなぎのような感覚で短期間で農家さんの手伝いをするようになりました。就活を行う傍ら、5月は個人経営の農家さんのところで枝豆の植え付け作業の手伝い、夏には一月半ほど別の農家さんのところで豆の収穫の手伝いを、そして10月から11月の中旬までは農協の選果場で仕事をしました。冬場(12~4月)はコンクリート会社で働き、結局仕事が見つからないまま2年目へと突入。「来年も来てくれや」という昨年受け入れてくれた農家さんたちからの誘いもあり、同じような生活スタイルで日々を過ごしていました。
 するといつしか、僕の胸中で”トレーナー”の方に向いていた関心の的は”農業”の方に向くようになっていったんです。農場の経営者の方からお話を聞いたり、栽培技術に関する専門書などを読んだりするといった経験が蓄積する中で、徐々に農業に対する興味が高まってきた、というより甦ってきたんですよ。と共に、時間の空いた時には、積極的に父がやっている稲作や母がやっている食品加工を手伝ったり、アスパラガスを植えていた畑の雑草の管理などをしたりするようになりました。
 そうなると、自分で何か作物を栽培してみたいなと思うようになるのも自然な流れでした。ただ、朝日地区の土地の条件を考慮すると、まず平野部じゃないから大規模にはできない。気候条件も良くないし、土も粘土質で畑作には適していない。そして、サルの被害等もあるので実のなるものも適していない…。結局、素人ながらに色々と考えて僕が目をつけたのは、収穫期間も長いアスパラガスでした。
 とはいえ具体的な栽培方法はわからなかったので、専門書などの本を読み漁り、ある程度詳しくなった段階でそこで得た知識を基に、米の減反地にアスパラガスを植えてみたんです。例えば、母のつてで堆肥を買ってみたり、粘土質の土特有の排水性の悪さを改善するためにもみ殻をまいたりといった工夫を凝らしてみたわけです。すると、けっこういいモノが作れたんですよ。実際、それを産直に出したり、個人のお客さん相手に売ったりした時、「甘くて美味しい」という評価も頂けましたから。
 農業をやっていて一番よかったなと思うのはそういう時ですよね。父と一緒に作った米にしても、毎年注文してくださる方がいるというのは励みになりますから。やっぱり、そこが一番のやりがいじゃないかな。お金が儲かる云々じゃなくって。
 だけど、なぜ夢の矛先が徐々に変わっていったんでしょうね…。農業高校や農大を出たわけでもなく、農機具の名前すらわからないという全く無知の状態からスタートしたのがよかったのかな。逆に、それがバネになって向上意欲につながったのかな。
 いい農家さんとめぐり逢えたことも大きかったのかもしれませんね。例えば、だだちゃ豆を作っている農家の人のお話を伺うと、やっぱり何でも知っているというかプロフェッショナルだなと思いましたから。堆肥に関する知識はもとより、微生物の活動に関するところまで計算されていて、口では「適当、適当」とおっしゃっているんだけど、理に適っていて、多大な知識や経験に裏打ちされたこだわりがありました。栽培方法に関しても、JAから推奨されているような慣行のものではなく、自身で編み出したやり方でうまくやっていらしたんですよね。実際、その方はだだちゃ豆に関しては鶴岡圏内で(栽培規模)トップクラスの優良農家の方でしたから。
 まぁでも、基本には単純に農作業を代表として仕事自体が楽しいというのはありましたよね。子どもの頃から植物や虫などの自然も好きで関心も強かったことも前提としてあるのでしょう。中学生の時、田植えや稲刈りなど父の米作りの手伝いをする中で生じた農業への興味、自然への興味が、大人になって再び農業に携わるうちに徐々によみがえってきたんでしょうね。本性というか、本来の姿に戻ってきたというか。

広がってきた問題意識
 そういった喜びや楽しみと同時に、問題意識も僕の大きな原動力となっています。
 僕たちの住まいがある鶴岡市朝日地区は、いわゆる中山間地域にあり里山に面しています。選果場で農家とJAの軋轢を感じたりする中で農業に問題意識を抱くようになった僕は、図書館に通い、農業や社会関連の文献や書籍に目を通したりするようになりました。そのうちいつしか、去年から今年にかけてでしょうか、農業もさることながら、里山の生活環境にまで問題意識は広がっていったんです。
 その後里山暮らしに関する色んな本を読むのと並行して、色んな角度から自然に関わっている人たちに話を聞いて回るようになると、僕たちは今いかに深刻な問題に直面しているのかということをますます強く感じるようになってきたんです。実際、ふと山に目を向けると、林業が衰退し人の手が入らなくなったスギ林は下草が伸び放題になっている、つまり山が荒れているという現実は目の前にありましたから。そうなると、自分の手で変えていかなくちゃならないなと思うようになるのも時間の問題でした。
 本から得た知識も踏まえれば、そもそもそういった問題が起こった原因は、戦後、日本が高度経済成長に向かって走り始めた、言い換えれば自然と隔離した生き方を選んでしまったことにあると僕は考えます。確かに物質や経済が豊かになりましたが、工場を作ったり、化学肥料や農薬を使って川に垂れ流したりすることによって自然環境を破壊してきたわけです。と共に、ずっと保たれてきた自然とのよい関係性は崩れてきた。つまり、どんどん人間中心的な生き方に変わってきたわけですよね。一方で戦前、少なくとも江戸時代までは、こういった場所は農業を主幹産業として、養蚕や山で切った木を生活に活用するといった営みがあったはず。その中で人間は、自然の一部として役割を担い、山の手入れを行い、山を循環させることで山の生き物たちとの棲み分けができていたんだと思うんです。
 だからたとえば、最近頻繁にメディア等で取り沙汰されている「サルやクマが人里に下りてきて人間に害を加えた」といった被害も、元をたどれば全て人間の責任なのではないでしょうか。にも関わらず、彼らが「有害動物」と呼ばれることには疑問を感じますよね。なぜなら、動物の責任にしてしまっているわけだから。いや、「有害動物」という表現が生まれることは良いのですが、誤った認識をしてほしくないということです。問題の本質を知って頂きたいというか。
 やっぱり問題の根源は、ずっと培われてきた里山の暮らしを人間が放棄してしまったこと、適切な山の管理を怠ってしまったことにあると僕は考えます。里山で人が山や農業に携わりながら暮らし、かつて確立されていた”共生”の形に近づけていくことが解決の糸口になるのではないでしょうか。
 そういった自身の思いや現状を少しでも多くの人に伝えるため、今僕は登山ガイドの資格を取りたいと考えています。自然環境のことをもっと勉強して、人々へ投げかけたいなと。今、地球環境はどういう状況にあって、それはなぜ起きているのか。そういったことに対してここに住んでいる人たちのみならず、都会に住んでいる人たちにも認識を持ってもらわないといけないなと思っています。たとえ地道ではあっても一人ひとりが意識を変えていくことが、環境を変えることへとつながっていくのでしょうから。 

変わってきた思い
 やっぱり幼い頃に生活環境の大きな変化を経験していることが大きいのかな…。僕がそういった問題意識を抱くようになったのも、この里山という生活環境が”当たり前”じゃなかったからじゃないかと。もし仮にここで生まれ育っていたら、ここでの暮らしが当たり前になっていて、むしろ”里山暮らし”や”農業”には関心を持たなかっただろうと思うことはありますから。
 ――両親に連れられて、生まれ育った横浜を離れ父の実家がある鶴岡市に引っ越してきたのは、僕が小学校3年の時のことです。
 横浜で暮らしていた時、食事はファミリーレストランやコンビニなどで買った出来合いのお弁当で済ませることが多かったことを始めとして、いわゆる都会的な生活を送っていたことは確かじゃないかな。
 そんな場所から一転、全く環境の異なる鶴岡市朝日地区に引っ越してきたわけです。どうやら子どもながらに都会的な生活スタイルが染み付いていたようで、当時の僕を知る同級生からは、『来てすぐの頃は「(横浜に)帰りたい」と泣き叫んでいた』と聞くんですよね。僕は全然覚えていないんですが。何にせよ、右も左もわからない新しい環境に対する抵抗感はとても大きかった。例えば、畑からとってきた土のついた野菜は僕にとって非現実的なものであって。なぜなら、それまでの僕はスーパーに並んだ”きれいな”野菜しか見たことがなかったわけだから。土の中から収穫することも知らなかったわけですからね。中学生の頃から父がやっていた米作りの手伝いを受け身的にするようになったんですけど、当初は田んぼに入ること自体、抵抗がありましたしね。泥土に手足を突っ込まなきゃいけないのはいやだなって思っていましたから。
 けれども、ここの生活にも慣れていくうちに、いつしかその抵抗感は消え去っていました。地元の友達にカブトムシ捕りや釣りに連れて行ってもらったりする中で、朝日地区の土地を囲む自然が好きになっていったんです。米作りに関しても、徐々に興味を持つようになり、一時は庄内農業高校への進学も考えていましたからね。(結局、色々あって普通科の高校に進学しましたが。)
 きっと毎年手伝う中で、お米を作ることってこんなに大変なんだ、食べ物ってこんなに大事なんだってことを身をもって実感できたことが、今の僕の気持ちの持ち方の原点になっているんじゃないかな。実体験の中で普段食卓に並んでいるご飯を食べられるまでの過程を知れたというのは、すごくいい経験だったなと感じています。 

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