#61 山岳ガイド 髙村眞司さん

髙村眞司さん
「山に登りたい。全ての生活はその思いを出発点に形作られていくんです」

1960年生。東京都出身、山形県村山市在住。小学校2年のとき、親の仕事の都合で東根市に引っ越す。高校時代は山岳部に所属。卒業後は、湯浅道男先生が部長を務める山岳部に入部するため愛知学院大学に進学。大学卒業後、約3年間のサラリーマン生活を経て、会社を営んでいた実家へと戻ってくる。その傍ら、35歳まで、約2年の周期で大学山岳部OBなどと共にヒマラヤに通う。その後、登山教室や国立登山研修所の講師などを経験し、2000年、公社)日本山岳ガイド協会の山岳ガイドの資格を取得。2006年には二足のわらじで営んでいた会社を畳み、仕事をガイド一本に絞る。現在は、個人ガイドや、旅行会社の斡旋するツアーガイド、また公益社団法人日本山岳ガイド協会のガイド実技試験検定員も務めている。その傍ら、かつては東根市の総合型地域スポーツクラブ「マイスポーツ東根」の立ち上げ、最近では実行委員長として「子供たちに笑顔を」をコンセプトに被災した岩手県大鎚町の子供たちへの自然体験活動支援事業を行うといった社会貢献活動も行っている。 ブログはこちら 

記事公開:2014.01.09

再び山に
 山はもういいかな…。20代後半頃、私の胸にはそんな思いが去来するようになっていました。
 ――1982年。大学を卒業する前の年、公社)日本山岳会学生部主催の登山隊の一員として、自身としては初めてヒマラヤの山(天山山脈 ボゴダⅡ峰/中国・5430m)に登りました。翌々年の84年にもヒマラヤ(ガウリシャンカール/ネパール・7140m)へ。そして27歳の春、88年3月にもヒマラヤの山(エベレスト/ネパール・8848m)に登りに行きました。ヒマラヤと言えば、水すら流れていない極寒の世界、岩と雪と氷だけの単調な世界。そんな世界に何度か通い身を置いているうちに、だんだん山に飽きを感じるようになり水への恋しさが募ってきていたんです。
 実は88年、ヒマラヤに行く前に私は会社を辞めていました。会社に「続けて休暇をやることはできないから辞めてくれ」と言われた時、私はためらうことなくヒマラヤを優先しました。そして帰国後。実家に帰ってきた私は水が近くにある環境を求め、情報誌でたまたま見つけた月山ポレポレファーム主催のカヌー教室を息抜きがてら手伝うようになりました。
 でも、手伝い始めて2、3年が経つと…。簡単に言うと、飽きてきてしまったんですよね。山に比べればカヌーをして得られる刺激は少なく、単調でしたから。一方で、カヌーと並行して国立登山研修所や登山教室の講師を務めたり、月山朝日ガイド協会の立ち上げに関わったりするうちに、山への気持ちがだんだん甦ってきたんです。山形の山を始めとした緑豊かな日本の山に人を連れて行く中で、人に山を案内する楽しさも覚えましたしね。それは自身にとってはいわば原点回帰。その後、94年に再びヒマラヤ(エベレストの初登ルート)を目指すという予定が具体的に決まると、カヌーからは足を洗い再び山の方に照準を合わせていったんです。

山に魅せられて
 「山岳部に入らないか。」――高校1年の1学期。出席番号順の座席で前に座っていた鈴木君からの誘いが最初のきっかけでした。それまでの私は、山なんて全く縁がなし。水泳をずっとやっていたこともあって、むしろ海の方が好きだったんです。
 その高校の山岳部は不良の掃き溜めのような場所でした。先輩は基本的に何も教えてくれず、夏合宿とか県の大会を除いて、部活動は行きたい山に行きたい人が行くという自主活動が中心でした。そんな山岳部に入部してからまだ日の浅い5月、顧問の先生に連れられて蔵王の瀧山(りゅうざん)を登ったことを皮切りに、どんどん山登りの世界に魅せられていっている私がいたんです。入部して半年も経たないうち、1年生の夏頃にはもう完全にはまっていたんじゃないでしょうか。
 登山が自分の性分に合っていたのか。それとも自分が求めていたものとオーバーラップしたのか…。わからないけれど、子供の頃から外で遊ぶことは好きだったんですよ。――私は東京都府中市生まれ。当時の家は新宿駅まで歩いていける場所、今は新宿副都心ビルが建ち並んでいる場所にありました。幼少期を過ごした1960年代半ば、まだビルもなく原っぱが広がっていたその場所で毎日のように遊んでいたことが子供の頃の原体験。加えて、夏休みとか冬休みは母親の実家がある田舎(山形)に預けられていて、その間も時間があれば外で遊んでいるような感じでしたからね。
 ところが、親の仕事の都合で山形県東根市に引っ越し、市内の小学校に転校したことをきっかけに、徐々に内向的になっていったんです。というのも、コミュニケーションを取ろうにもまず言葉が通じなかったんです。同級生たちが話す山形弁は全然わからないと言ってもいいくらいで。そんな彼らに「ことばがきれいだ」というようなことを指摘されたりするうちにだんだんしゃべれなくなっていったと記憶しています。その後、同じ東根市内でもう一度転校しているのですが、中学校を卒業するまではずっとそういう状況が続いていたんです。
 とにかく全然学校にはなじめなかったから、中学校でも部活は一切していませんでした。(スイミングクラブでの水泳は続けていましたが。)ほんとは彼らと一緒になって外で思いっきり遊びたいのに、それが叶わない…。きっとそんな風に長い間わだかまっていた思いを山は解放させてくれたんでしょうね。ほぼ毎週山に通うようになりましたから。――だいたい木曜日か金曜日、担任の先生にその週の土日の登山計画書を提出し、土曜日、午前中授業が終った後と日曜日は山で過ごすというのが基本的なスケジュール。ある時は一人で、ある時は友達と二人で、またあるいは違う学校の山岳部の部員たちと一緒に蔵王の山を中心に山形県内の色んな山に登っていました。
 とにかく「山に登る」ことが楽しかったんですよ。先輩たちが引退し、2年生になってからは皆でトレーニングをし始めたんですけど、それも結局は自分が山に行きたいから。よく一緒に山に登り、山菜採りを教えてくれたりした山好きの顧問の先生の影響もあったでしょうね。

私を動かしていたもの
 大学でも山に登りたい。大学に行けなくとも、山小屋で働くなり何かしら山に関わることを続けたい…。そんなぼんやりとした夢を抱きながら将来の道を考えていた時、雑誌『山と渓谷』に載っていた湯浅道男さん、後に私の山の師匠となる人の記事を読んだんです。湯浅さんと言えば、日本人で初めてエベレスト登山隊の隊長としてエベレスト登山に成功した人。そして、日本人で初めてヨーロッパの山の岩壁を登った人。そんな人が部長を務めている山岳部に入れば何かなるんじゃないか…という漠然とした思いを胸に愛知学院大学の願書を取り寄せた私は、試験にも受かり入学を決めました。その時もとりたてて高い意識があったというわけではなく、ただ山に登りたいという思いだけ。同大山岳部が日本の大学の中で1、2を争うハイレベルな場所だったなんて一切知りませんでしたから。
 いざ入ってみると、そこは別世界。実は、私が入学する前の年、1977年に同大山岳部はブロードピーク(パキスタン・8051m)に40日くらいで登るという偉業を成し遂げていたんです。(ヒマラヤ登山隊は約60日くらいかけて8000m峰を登るのが”常識”とされていた中、)「地方の大学の山岳部(学生、OBの混合部隊)の連中が40日で落とした」という、当時の山岳界ではかなりトピック性の高いネタを提供した張本人たちがまだ同じ部活にいたわけです。そんなレベルだから、部室内で飛び交っているのは「次はどこの8000m級の山に登ろうか」という話題ばかり。
 当然のように、それに向けたトレーニングもまたハイレベル。自主活動が主だった高校時代とは打って変わって、大学時代は部全体で動くのが基本でした。普段の土日の練習はほとんど毎週のように岩登り。そして、ゴールデンウィークや夏休みなどの長期の休みは、北アルプスや中央アルプスなどで合宿に入り、岩登りや縦走、高さの変化に慣れるために標高差1500メートルの山の上り下りを繰り返したりといった練習に時間を費やしていました。それらはみな、基本的にはヒマラヤを意識したもの。「いつでもヒマラヤ(8000m級の山)に行ける体を作る」ことを目的として、練習計画が組まれていたんです。
 自身にとっては、とにかく厳しい練習でしたよね。まず岩登りは東北人の私には未知の世界。それに自身の体力の低さが相まって、自分一人だけ置いてけぼり状態になることも多々ありました。先輩たちには自分より重い荷物を背負っているにも関わらず追いつけないというような厳しさというか有無を言わせぬ強さがありましたから。ほんと、いかに自分には体力がないかを思い知らされて、情けなかったですよね。だから、実は私、大学1年の6月、いたたまれなくなって2、3日部活を辞めているんです。同級生も説得に来てくれたし、やっぱりやりたいということで戻りましたが。――その経験は、登山研修所で講師を務めた時に生きました。自身も弱かったという過去があるから、「体力がないんです」と言ってくる学生の気持ちを理解できる部分はあったんです。――
 そんな中、大学1年の11月13日。部活動中に北岳のバットレスという岩場で同級生2人が墜落死するという事故が起きました。それが私の中に、彼らの分も山に登ろうというような思いを芽生えさせたんです。
 2年の春頃になると、その思いは「ヒマラヤに行きたい」という夢へと姿を変えていました。でも自分にはヒマラヤに行けるほどの体力はないという自覚があったので、自身に「日常の移動手段は自転車を使う!」というミッションを課したんです。やっぱり、ヒマラヤの山を登るためにはまず体力が必要だから。どれほど技術が高かったとしても、体力がなければどんどん負けていってしまって、結果的には命を落としてしまうから。
 学校までの片道20kmはもちろんのこと、自宅から半径50km圏内であれば、出発する時点で雨が降っていなければ自転車で行く。さらに赤信号で停まっている時以外はすべて全力で走ることを自身に課していました。だから、平均して月に1000kmくらいは走っていたんじゃないでしょうか。タイヤは半年で丸坊主になるくらいでしたから。
 それでも、自分としては「追い込んでいる」という感覚はあんまりなかったんです。自転車が好きだったことも確かですが、それが当たり前みたいな感覚はありましたよね。先輩もそういう生活を送っているし、しないと先輩から怒られたりもしましたから。でもやっぱり、山に行きたいという思いが真っ先にあることは変わらないまま。
 ヒマラヤに登るために。いつでも山に行ける体であるために――。サラリーマンを辞めて山形に帰ってきてからも、結婚して小さい子供がいる中でも時間を作ってトレーニングを続けていました。ある時は東根から仙台まで(片道約70km)をアップダウンのある峠道を経由して半日で戻ってきたり、ある時は通常は2泊3日コースで登る飯豊連峰の大日岳をランニングに近いスピードで走って上り下りしてその日のうちに往復してきたり。またある時は半日で鳥海山の頂上まで往復してきたり…。
 そんな風に妥協することなくトレーニングを続けられたのは35歳くらいまででしょうか。以降はだんだん離れていってしまいましたから。仕事柄車に乗ることも多いし、付き合いでお酒を飲んだりすることもありますからね。しかもここ数年は、おそらく大学生の時以上、年間250日くらいは山に入っているからトレーニングに充てる時間はとれないんです。

ヒマラヤの魅力
 ヨーロッパにも山はありますが、惹かれるのはやっぱりヒマラヤの方でしょうか。
 ヒマラヤっていうのはある意味チームワークで登る山であって、人と一緒に登ることで生まれてくる人間関係のどろどろした部分を味わえるのが楽しいんですよ。
 4,50人ほどのメンバーで共同生活を送る約60日間は完全なる非日常。ベースキャンプを張る標高5000mくらいのところの外気は平均マイナス30℃なので、マイナス15℃とか20℃だとむしろ暖かく感じられるくらい。基本的にプライバシーはほとんど守られないし、起床時間も食事の時間も決められているなど色んな規則の下でやりくりしていかなきゃいけない…。

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