#62 名月荘 社長 菊池 敏行さん

菊池敏行さん

「好きな場所に毎日いられる私はとっても幸せですね」

 

1944年生。山形県上山市出身、在住。東京の大学を卒業後、父が営んでいた建設会社の経理部に就職。7年後、兄が後継ぎとして戻ってきたことをきっかけに会社を辞め、父の資産であった葉山ホテルの責任者となる。約3年後には、老人クラブを主な顧客とするホテルとして売上げを大幅に増やす。76年には葉山ホテルを改築し、数寄屋造りの2階建ての旅館「名月荘」をオープン。96年に蔵王連峰を一望できる4000坪の敷地を確保し、現在の場所に移転。今に至る。  Webサイトはこちら

記事公開:2014.3.3


今に至る道のり 

 後継者は二人いても意味がないな。――今から約40年前。大学を卒業してから父が営んでいた建設会社の経理担当として働いていた私は、6、7年勤めた後、会社を辞めました。当時、私は20代後半。事実上ライバル関係にあった父と同じ会社で仕事をする中で独立したいという思いは徐々に膨らんできていました。父の資産であり、支配人を雇い経営を委ねていた葉山ホテルにも経理として関わっていた中で、経営状態がパッとしないという現状を何とかしたいという思いは胸中にあったんです。そんな時に大学の建築科を卒業した兄が戻ってきたことが引き金となり、私は葉山ホテルの責任者になるという形で独立したんです。
 当時の料金体系は3食付きで1泊3500円。古い洋館造りの建物だったので、建て替えの必要性を当初より感じていたんです。けれども、せいぜい3000万程度の年間売上げでは銀行には相手にされないだろうとみた私は年商1億を目標に掲げたんです。
 今のように個人旅行をするお客さんは少なく農協などが企画する団体旅行が主流だった当時、私が目を付けたのが老人クラブでした。そこでマイクロバスによる送迎サービスをつけたり、新たに営業を2、3人雇って東北圏内などにもPRしたり。結果、2、3年くらいかかって、何とか目標通り1億くらいまで稼げる会社に成長させられたんです。
 そうして銀行からお金を借りて、結局1億5000万くらいは投資したかな。1976年、葉山ホテルの跡地に数寄屋造りの旅館「名月荘」をオープンさせたんです。というのも、建て替えをしようと考えるようになって以来、設計士と一緒に色んな所に足を運び色んな旅館を見てきた中で、自身が気に入ったのが数寄屋造りの宿でしたから。当時には珍しく平屋建ての数寄屋造りだった天童荘さんなどは建て替えする上でのモデルとなりました。実際、名月荘の設計は天童荘さんと同じ設計事務所に頼みましたから。確かに、高層化、ホテル化するのが、当時の旅館業界の主流だったかもしれません。10階建てのホテルを建てるのも一つの道だったでしょう。けれども私はそういう路線には興味がなかったし、数寄屋造りの高価格帯という業態でしか生き残るすべはないと思っていましたから。
 実際のところ、名月荘を始めて3年くらいは全く売上げがあがらず大変でしたけどね。何せ、1泊3500円から2万に料金を変えるなどという急激な業態転換をしたわけですから。結局5年目くらいだったかな、やっと経営が軌道に乗ってきたのは。
 けれど、全てが理想通りだったわけではありません。まず400坪という狭い敷地内で造らなければいけないという制約の下、やむなく2階建てにしましたし、周りには4階建て、5階建ての高いホテルが立ち並んでいて蔵王連峰が見えなかったので、せめてもと中庭に旅館の各部屋から見える坪庭を造りました。ただやっぱり、無理がありましたよね。木造の2階建てだったので、お客さんから階段を上り下りする際にミシミシと音がして「うるさい」という苦情が来たり、見晴らしがイマイチだったり…。なので、もっと広々として蔵王の見晴らしも良い場所に旅館を移転させたいという思いは日増しに募っていたんです。
 その時にいい場所だなと目星をつけていたのが、当時は田んぼだった今の名月荘(以下、現・名月荘)がある場所なんですよね。90年代半ばだったでしょうか。現・名月荘の前の道路がまだなく、田んぼだった頃のこと。上山市街とかみのやま温泉街を結ぶ道路が一本しかなく災害時の対応が困難だということで、新しい道路が通ることになりました。道路建設予定地がうちの社員寮や駐車場と重なっていたこともあり、今がチャンスだと踏んだ私はこの土地を買い、95年の8月18日に着工。新たな名月荘を翌96年の8月8日にオープンさせました。
 「約1年の休業期間を経て、ゼロからのスタートになる。だから営業は大変だろう」という私の予想は大きく裏切られました。旧・名月荘の評判が良かったおかげで、当時のお客さんがついて来てくれたんです。
 現・名月荘の設計図を描く上で心がけていたのは、旧・名月荘でマイナスだった部分を失くすこと。まず、問題の敷地は4000坪と以前の10倍の広さを確保し、ゆとりのある空間作りを目指しました。また、部屋の中はベランダを取り外したスペースにリビングルームを作り、椅子とテーブルを設置。(今では主流になっていることでしょうが)ごく普通の家庭と同じように布団を敷いたまま隣の部屋で食事の準備をすることを可能にしました。というのも、当時、旧・名月荘を含めた多くの旅館は「ベランダがあり、部屋には椅子がないといけない」という法律で定められた造りになっていたのですが、その結果全くもって役に立っていないスペースが作られていましたから。であるが故に、例えばお客さんが部屋で朝食をとる場合、和室の布団を一旦押し入れなどにしまわないと食事の準備ができず、片付ける際にホコリが出るというようにお客さんにとって心地よい状況を作り出せていなかったんです。また、チェックアウトの時間も10時から11時半に変更。お客さんが食後にもごろ寝するなり、お風呂に入るなりゆっくりできる時間を用意しました。その結果、働く側としてもお客さんが帰ってから一気に片付けをできるようになったので、従業員のオペレーションも楽になるという想定外の効果も生まれました。
 他には旅館の造りも以前のように統一せず、和洋混合、そして蔵王連峰を臨める窓は景色を存分に楽しむためのベストな選択だと考えてバリ島のホテル風にしています。(良さでもあるのですが)暗くて落ち着きのある数寄屋造り旧・名月荘にいる時には、開放的で明るい雰囲気のある旅館にしたいという思いはありましたからね。そして、旧・名月荘では(女性のみ)従業員は着物を着ていましたが、現・名月荘の従業員は作務衣を着ています。要は、より自由な形の旅館を造りたかったんですよ。というのも、料理や服装などがどうしても限定されてしまう数寄屋造りは堅苦しくてあんまり好きじゃなかったんです。だから、うちは価格こそ高けれど、敷居は低いんじゃないかな。私自身、基本的にはジーパン姿だし、お客さんが緊張しなくてもいいというのはうちの一つの売りだと思っていますけどね。
 やっぱり、変わっていかなきゃならない、そのために投資をしなきゃいけないというのは旅館の宿命ですよね。仮に20年も同じ施設で同じサービスを提供していれば、八百屋さんが腐れる手前の野菜を店頭に並べているのと同じことですから。振り返れば、昔は旅館に来て刺身を食べるのが一つの贅沢として位置づけられていたわけでしょう。それが今やどこのスーパーに行っても手に入る時代になっている。ともすると、家庭でも旅館以上の贅沢を享受していたりするわけで。その中で、旅館は温泉や空間など家庭にはないものを新しい価値として作り出さなきゃいけないし、料金を上げることなくお客さんに還元していかなきゃいけないと思うんです。
 ならば積極的に投資をすればいいかと言うとそうでもないんですよね。一般的には5年スパンで投資をし、そのおかげで旅館も大きくなってきたわけですが、裏を返せば特色がないがゆえに施設で変えてゆくしかなかったとも言えると思います。本来はそれではダメ。なぜなら、キリがないから。今、うちでは毎年1部屋ずつ直しているので、20部屋全てを直し終えるのは20年かかるんですけど、それくらいのペースがちょうどいいとは思っていますね。一挙に全体を改築するとなればリスクもありますから。1年ごとに一部屋1000万ずつかければさほど負担にはならないんじゃないかとは思っています。

ブティックとしての名月荘
 食事の部屋出しもうちの一つの売り、いわば”名月荘流”なんですよね。うちのような小旅館では特に、食堂を作ってお客さんに足を運んでもらうのが一般的だと思います。その場合、女性だと朝食事に行くのにもちょっと化粧をしなきゃいけないですよね。でも部屋で食べられるとあらば、化粧をしなくても済むじゃないですか。
 遡れば、かつては部屋出しというスタイルが主流という時代もありました。その後、効率化の波に乗り、多くの旅館が食堂にてお客さんを集めるというようなスタイルへと路線変更していく中でも、うちは変わらず部屋出しスタイルを続けています。もちろん、経営という面から言えば効率は悪くなってしまうので、その分料金を上乗せするという形をとっています。経営面から言えば価格の安さと効率は表裏一体でしょうから。恐らく、お客さんもそういうことを分かった上でうちに来てくれていると思いますしね。私が常に念頭に置いている”(一度行ってみたいと思えるような)憧れの旅館”であり続けるためにも、料金は下げないんですよ。
 結局のところ、「自分がお客さんになった場合、どういうサービスだと良いか」。そこに尽きるんです。だから稼働率などの経営効率を考え出すと到底出来ません。どちらかしかとれない。それでいてうちの色を打ち出すには、独自のもの、他ではやっていないことをやるしかない…。というような考えは、若い頃から比較的固まっていたんですよ。自身は営業向きじゃないし、営業はやりたくない。だから、営業が必要となってくるホテルのような大きな旅館は選択肢から真っ先に外されたわけです。ならばどうしようかと考えた時、とにかく旅館に来た人に満足して帰ってもらおうと。当時胸中に生まれたいわば”館内営業”を徹底してやろうという考えは今もって変わっていませんから。
 やっぱり、うちのような小さな旅館はリピーターが財産ですからね。一度来たお客さんに何回も来てもらうためにはどうしたらいいか――。それはやっぱり、お客さんの満足度を上げるしかないじゃないですか。
 もちろんお客さんも十人十色。だから、その人が求めていたものとは違った場合、不満も出るでしょう。でも、それはどうしようもないんです。なぜなら、私たちはブティック、要は専門店だから。古窯さんのような何でもあるデパートではないわけです。だったらその専門性をもっと磨いていくしか道はないということは、今になってつくづく実感しているんですよね。究極は「名月荘が好き」というお客さんにさえ来てもらえばいいと思っています。実際、波長が合うということは、クレームの種が減ることにもつながるわけですから。
 今、うちには年に何十回も来る人もいます。今年の正月は、通算で40、50回くらい来ているお客さんばかりだったんじゃないかな。しかも嬉しいことに、その時点で「来年の正月の予約もお願いします」と言ってくれます。けれども、いつも同じメンバーにすると新しいお客さんが入る余地はなくなってしまうのが悩みの種。実際、3、4回来た人から「お前のところ、正月はいつも泊まれないな~」と言われたりすると申し訳ないなと思いますから。まぁありがたいことだし、嬉しい悩みなんですけどね。かと言って、これ以上部屋を増やすつもりはありません。やっぱり大きくすることに伴って必要になってくることは色々ありますからね。

人材という魅力
 専門性を磨き込むことに加えて、プラスαのサービスをいかに提供できるか。あとは、やっぱり人材かな。働く人の魅力が大きいですよね。お客さんはたとえ今満足してくれていたとしても、もっともっと上を望みますからね。なので、お客さんの管理はけっこう徹底させています。従業員は皆、一、二度来たらお客さんの顔を覚えるべきだし、恐らく出来ているでしょう。お客さんとしても、名前で呼ばれたら嬉しいでしょうからね。
 とは言いながらも、人材教育に力を入れているかというとそんなことはないんですよね。配膳の仕方とか基本的なことは教えるけれど、あとはそれぞれが会得してもらうしかないというスタンスです。というのも何より、お客さんが彼らを育ててくれるから。質の良いお客さんと言えば語弊があるかもしれませんが、そういうお客さんに接する中で自分もちゃんとしなきゃって自ずと思えるんじゃないかな。ひるがえって安価だった葉山ホテルの頃は、騒ぐことが目的のような団体が来てどんちゃん騒ぎをすることも多かったんですけど、それじゃあやっぱり働く方のモチベーションも下がりますからね。きっと接客する上で芽生える緊張感が彼らを成長させてくれるはず。バブルの頃にはどうしようもないお客さんがいたけれど、今は違いますからね。

Pocket

1 2