#63 ハチ蜜の森キャンドル 代表 安藤 竜二さん

安藤竜二さん
「田舎であれ、都会であれ、価値は変わらないはずなんです」

 

1964年生。朝日町出身、在住。高校卒業後、実家に戻り、家族で営んでいた養蜂業を手伝うようになる。88年より、蜜ロウソクの制作を開始。2年後に独立。以来25年間、蜜ロウソクを作り続け今に至る。また、その傍ら、89年より”朝日町全体が博物館!住民一人一人が学芸員!”をコンセプトとした「朝日町エコミュージアム」活動に取り組み、地域住民の話を聞き書きでまとめたり、ワークショップを開いたりしている。

記事公開:2014.3.26

変わってきた時代
 「遅れている、進んでいる」テレビCMでそんなフレーズが使われていた80年代のこと。都会的なものや新しいものばかり追いかける当時の日本社会は、大げさではなく、最上川の合流点の激流がごとく経済優先主義まっしぐらでした。その結果、経済は発展し、私たちの生活は豊かになったかもしれません。けれども、その陰で私たちは色んなモノを失くしたり、捨ててきたりしてきましたよね。
 私が暮らしている朝日町では、その一つが自然環境でした。バブルまっただ中の、80年代。広葉樹を伐採しスギを植える拡大造林事業に始まり、それを進めるために山の中に7m幅の大規模林道を通したり、土砂崩れを防ぐために砂防ダムを造ったり。金券の販売が目的とされたゴルフ場の建設が町内だけでも3カ所(しかもフルコース18ホール)予定されていたり。そして、毎朝都会から来るトラック2台分の産業廃棄物はどこかに捨てられていたり…。朝日町のみならず山形県全体でそういった自然開発が推進されていた当時、私は自然保護団体に入り自然保護活動をしていました。反対運動を起こしたり、自然環境について考える会を催したりなど、行政やゼネコンと闘っていたんです。
 結局、それらの計画が形になる前にバブルがはじけたので、ゴルフ場建設の話は立ち消えに。金券も全て紙くずと化したのでホッとしました。その代わり、地元の人たちには嫌われましたけどね。当時、私は結婚して同じ町内でも別の集落にある妻の家に住んでいるのですけど、その集落のほとんどの人たちはゴルフ場建設に当たって賛成の声を挙げていた中、外から来た男が反対していたわけですから。
 今思えば、やり方が違ったなとは思います。ゴルフ場建設の是非はおれが一番わかっているんだというように私が主人公みたいなスタンスだったから、たぶん集落の人たちからすれば鼻についたでしょうね。
 それでも最近になってようやく、「安藤くんのおかげで土地は高く売れたし、ゴルフ場は出来ずに済んだからちょうど良かったよ」と言ってくださる人も出てきたので良かったかなとは思っていますけど。

自然への想いを伝えたくて
 その時の反省点として思ったのは、世論が動かなきゃダメだなってこと。それで、こぶしを振り上げるばっかりじゃなくって、何かを伝えたいな、自然が大好きだという気持ちを自分らしく伝えたいなって思うようになったんです。その伝える手段として、蜜ろうそくを作り始めたのは88年。24歳の時のことです。
 ちょうどその頃、朝日鉱泉ナチュラリストの家の主人・西澤信雄さんと出逢い、本当の自然保護とは何かを教えてもらったんです。西澤さんは当時では珍しく地元の子どもたちに自然体験を提供する活動や(独自に)地域を地域の人から教わるという発想で聞き書きのような活動を始められていましたからね。それから、「100年かかって育った木は100年もつ家具に」などのコンセプトで家具造りをしている飛騨高山・オークビレッジの稲本正さんや主に森や樹木の写真を撮っていた写真家の姉崎一馬さんとも出逢いました。当時は第二次自然保護ブームが訪れていた時代だったのかな。他にも色んな方がいましたが、そういう人たちに感化されていったんです。
 その蜜ろう作りと並行して関わるようになったのが、「朝日町エコミュージアム」です。2代前の朝日町長の下で始まったまちづくりに資するその活動の中心は、朝日町を博物館と見立てての「地元の宝」の掘り起こしです。経済発展と同時に捨ててしまったモノや、物語や、技、そして生活の知恵…。それらを地元の人たちと一緒に拾って輝かせていこうという試みです。「地元の宝」というと、教育委員会やお偉い先生方とかが「この町の宝は○○です」って発表するケースが一般的ですよね。でも、私はそれじゃあダメだと思うんですよ。本来は矢印が逆、つまり地元の人が教えられるんじゃなくて、教わるという関係性であるべきなんじゃないかって。そんな風に環境と人との関わりを探るエコミュージアムの中で、私たちは住民一人ひとりが学芸員であるという自覚を持ち、住民の人たちに教わりながら、その内容を文章に表したり、シンポジウムやワークショップを開いたりという活動をずっとやってきたんです。
 話を蜜ろうに戻すと、「蜜ろうそくをいわば”森の分身”を全国的に広めて、灯してもらって、こんなに素晴らしいもの、ロマンチックなもの、心がやさしくなるものを自然はもたらしてくれるんだってことを伝えたい。」今でこそ、こういう発言は受け入れられやすくなったように感じますが、おそらく当時は「よく言うよ」と思われていたでしょうね。癒しの効果を求めてろうそくの火を灯すなんてことはなかったし、使うのは神様や仏様をまつる時くらい。そんな時分に「蜜ろうで独立する」なんて言ったものだから、皆さんから心配されましたよね。しかも、同時に結婚生活を始めたわけだから余計に。(笑)
 それが26歳の時。でも、いざ始めてみると、インパクトはありましたよね。みんな信じられないというような顔をしていましたから。実を言うと、当初、蜜ろうは売らずに、蜂蜜を買ってくれた人にあげていたんです。そしたらすごく喜んでくれたので、力があるんじゃないかと思うようになったんです。
 まぁ、私自身が初めて作った一本の灯りに魅了されてしまったことが何よりのきっかけでしたけどね。本当にロウソクになったんだという驚きに、きれいに灯っていることへの感動も相まって、頭の中で赤色灯がグルグル回って胸がドキドキ。その時の記憶は忘れられないものとして残っていますから。まぁ何のことはない、蜂の巣にロウソクの芯を入れただけでも火は灯ると言えば灯るんですよ。でも、それが夕方、ちょうど薄暮の時間帯に出来上がって火をつけたものだから、余計にきれいに見えたんでしょうね。
 何というか、裏付けをもらったという感覚だったかな…。というのも、それまでの私は都会かぶれの男でしたから。

私を変えた出来事
 ――朝日町にいるのが嫌。そんな理由で入った山形市内の高校には、学校の近くに下宿をしながら通い、バンド活動をする傍らで毎日遊びほろけていました。高校卒業後も、本当は東京に行くつもりだったんです。けれど、卒業間近になって父が体調を崩したことをきっかけに予定を変更。3年間遊びすぎたことへの申し訳ない気持ちもあって、家の仕事(養蜂業)を手伝うために実家へと戻ってきました。
 だとしても、朝日町が田舎であることは変わらないわけで。山形市で3年過ごした後では、とてもとても朝日町で収まるはずはなかったんです。(笑)実際、暮らし始めてみると、青年団、消防団、地区の若い衆の会、草野球チーム…と縛りつけるものだらけで、自分のための休日なんてないに等しい感じだった。そんな生活が4~5年続いた結果、ノイローゼみたくなったことをきっかけに、怒られてもいいやとスパッと全て辞めました。実際、「お前、どうやって生きていくつもりだ」などと言われたりもしたけれど、おかげでやっと自分らしさを取り戻せたような感覚はありましたから。
 その陰には、朝日町を出たくても出られないという気持ちをずっと引きずっていた私がいましたよね。もう、出たくて出たくてしょうがなかった。でも、手に技も何も持っていないのに「東京に行きたい」なんて言えないなと。でも、もしロックバンドの大会でいい成績を残せば親父にも思いを打ち明けられるんじゃないか…と心中密かに東京進出計画を練っていたんです。実際、ロックバンドに関しては、県大会で優勝したりするなど、けっこういい線まで行っていたんですよ。まぁ、成績が良かったのは本選につながらない時ばかりでしたけど。とにかく当時の私は真剣に思っていたんですよね、東京に行かない限りおれの人生の扉は開かないんだって。
 そうして時は経ち、23歳の時。結局、日の目を見ることのないままバンドは解散。絶望的な気持ちになるとともに、人生で最も辛かった時代へと突入したんです。
 ただ、そんな時代はさほど長く続くことなく思わぬ形で幕を閉じたのです。――当時の私には憧れの人がいました。その人は同じバイト先で働いていた先輩でした。とても垢抜けていてかっこよく、大好きな人でした。その先輩がある時唐突に、「渓流釣りをしたいから、お前の地元を案内してくれ」と言い出したんです。不思議に思いながらも、私は、幼い頃毎日のように遊びに行っていた朝日川の上流に先輩を連れて行きました。
 渓流釣りは上流にいる人の方が釣れるので、先輩を先に行かせて、私は後から拾い釣りのような形でついていっていました。そのまましばらく時間が過ぎた時のことです。曲がりくねった川だったこともあり、フッと気づいたら先に進んでいた先輩の姿は私の視界から消え、河原に私一人だけ佇んでいるという状況に。すると突然、瀬を流れる水のザーッという音や、木が風に揺られるザワザワという音が迫りくるような感覚に陥ったのです。居ても立ってもいられなくなった私は、先輩に「さっさと辞めましょう」と声をかけ、その足で朝日鉱泉ナチュラリストの家へと向かいました。時刻はお昼前。その時初めて行ったナチュラリストの家には驚きが待ち受けていました。東京ナンバーを始めとして関東近辺の車がずらり。建物は外観も内装も洗練された都会風で、中に入ってみれば標準語を話す人たちがたくさん。朝日町の中でも最も山奥に位置する朝日鉱泉に、一番の”都会”があったのです。
 その日に起こった河原での”出来事”が頭から離れなかった私は、何が起きたのかを確かめるべく、翌日また一人でその河原へと向かいました。いざ降り立ってみると昨日と同じ感覚が襲ってきたんですよ。胸がギューッとするような感覚というか。…思えば、朝日川は私が毎日のように遊んでいた川、つまり小さい頃の原体験を与えてくれた場所でした。水中メガネをつけて潜り、カジカなどの魚をヤスでつき、とれた魚を火で炙って食べるという最高の愉しみを味あわせてくれた、その河原でした。まさに自然の象徴とも言えるようなじいちゃんが釣りを教えてくれたその河原でした。そこに一人佇んだ時、小さい頃の色んな思い出がよみがえってくると同時に、否定していた思い出はどんどんあたたかな思い出へと姿を変えていったんです。
 きっと、その河原でボロっと何かが落ちたんでしょうね。ふっと肩が軽くなったような感覚を覚えるともに、おれの人生の扉はここにあるじゃんと気づけたような気がしましたから。その2日間を境に、私は考え方も生き方もまるっきり違う別人に生まれ変わったのです。そんな私を見て、家族は亡くなったじいちゃんが(じいちゃんっ子だった)私に取り憑いたんじゃないかと思ったらしいですけどね。(笑)
 実はバンドを解散した後も山形には週3回くらいのペースで行っていたんですよ、親のスネをかじってガソリン代をまかないながら。山にも毎日のように仕事で行っていましたが、あくまでも山は”仕事場”でしかなくって。山を否定しながら山に入っては、「木がいっぱいあるから、田舎だって思われるんだ。だから、山の木なんて全部切り倒してしまえ。」というくらいに凶暴な都会志向をもった若者でしたから。(笑)
 そんな私が一転、山形には見向きもしなくなり、連日のように自ら山に足を向けるという状態に。遊ぶために山に入ったのなんて7~8年ぶりのこと。次第に山は私にとって”生活する場所としての山”と変わっていったんです。 
 後々振り返ってみれば、自分探しってこういうことだったのかと腑に落ちるんですよ。なぜならそこで素直に気づけたのですから、本当の自分はこれを求めてるんだってことに。時代によって封印されていた”本当の自分”を、河原で引っぱり出してもらったんです。その時偶然出逢った、花巻市の小学校の体育館に掲げてあった高村光太郎の「正直 素直」という書も私の思いを後押しくれました。ひるがえって、それまでの私にとっての「正直」「素直」っていうのは、先生に対して、親に対して、誰かに対して…という類いのものでしたから。そして、それが正しいとずっと思っていたわけですから。でもわかったんですよね、「正直・素直」というのは自分の心に対してのことなんだって。
 とにかく、全ては河原での2日間から始まったってわけですよ。その後自然保護団体に入り、蜜ロウソクが力を持つってことがわかるようになり、朝日町エコミュージアムにも関わるようになり…。今ほど田舎に価値が見出されていなかったあの頃、やみくもに都会的なもの、新しいものを追い求める時代の激しい波、例えれば最上川の大豪流の中を流されながらも、その流れに逆らいながら必死で泳いでやっと岸にたどり着けたような感覚はありましたよね。

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