#63 ハチ蜜の森キャンドル 代表 安藤 竜二さん



辿ってきた自分らしさ
 それからはほんと、毎日が楽しかったですから。蜜ろう作りにしても、日々実験の繰り返しで寝なくても良かった。若かったこともあるけれど、やりたいことをやっていると寝なくてもいられるってことに気づけました。
 初めて間もないうちに、自然&アウトドア系の雑誌「BE-PAL」から取材をしてもらったことも追い風となりました。主に都会から田舎へと移住したユニークな人を取り上げるコーナーで6ページのインタビュー記事を組んで頂いたのですが、いいライターの方が当時の日本の自然が直面している危機的な状況や時代背景と絡めて記事を書いてくださったおかげで、ぼやけていた自分の自然観みたいなものがクリアになりましたし、時代背景という観点を得ることができました。何というか、その記事を通じて自分のこれからの方向性を示してもらったというような感覚はありましたね。
 他にも色んな雑誌で取り上げて頂いたのですが、インターネットがまだ普及していない当時、そういった雑誌の影響は大きく、お客さんも増えるとともに、蜜ろうが持っている”力”をますます強く実感するようになりました。同時に、ちゃんと作らないとダメだなと気が引き締まるようになりました。とは言え、蜜ろうの売り上げはごくわずか。その時妻と結婚したてで、子どもも小さくてあまりお金がいらなかったのは良かったですけどね。
 まぁでも、最初はどうやって売ったらいいか、すごく悩みましたけどね。一度きりでしたが、仙台の高級デパート藤崎の前で荷造りの段ボールを敷いて路上販売をしたこともあります。そこで私を見つけてくれた仙台光原社の従業員さんの紹介で、盛岡市にある本店でも取り扱ってもらえるようになり、定期的に買ってもらえるようになりました。その後、全国の工芸店から一目置かれているような盛岡の本店で蜜ろうを取り扱うようになったという噂は広まり、やがて全国の工芸店から問い合わせが来るようになり、販売ルートが出来ました。加えて、BE-PALに掲載された記事をきっかけに「らでぃしゅぼーや」や「大地を守る会」、「GAIA」などといった自然系の団体への販売ルートを築くことが出来ました。
 やっぱり私も若かったので、ほんとに色んな人に助けられてきたんですよ。当時から定期的に私の思いなどを綴ったお客さんへの通信は発行しているんですけど、取材されたことを書いたら、みんなから「良かったね」と言ってもらえたりしましたからね。私にとっては、自分の成長日記を書いている感じでした。その当時のお客さんの中には今でも買ってくださる人もたくさんいるので、ありがたいなと思うし、いい仕事にめぐり逢えたなって思います。
 けれども、今や蜜ろうは世界中から輸入される時代です。あぐらをかいていられる時代ではありません。むしろ、これまで25年間、食わせてもらっただけでも奇跡的かなと。(笑)そもそも、蜜ろうってなくてもいいものですからね。輸入物には価格面の勝負では敵いません。でも、国産の蜜ろうってこういうもんだと表すためにも、どれほどライバルがいようともますますいいモノを出してやろうという思いを原動力にやっていますね。
 今でもお金は生活するのに精一杯くらいの額しか稼げていません。だから、子どもを大学に入れる時は脅威でしたよね。それでも、上の息子は今年で大学を卒業、下の娘も来年で専門学校を終えるので、一つの役目は終えられるかなととりあえずホッとしています。ただ、基本的には好きなことをやっているので、いくら仕事しても苦しくはないんです。ストレスもありません。
 そうは言っても、何度か辞めようと思ったことはありました。ただ、辞めさせてもらえなかったんですよ。辞めようと思った時に、注文が来たりとか辞められないことが起きたんですよね。一番決定的だったのは、20年くらい前、照明文化研究会から「灯りの歴史」という文献のコピーが送られてきた時のこと。その中には、「蜜ロウソクはキリスト教の教会で最も神聖なものであって、1年に一度、キリスト教の中でキャンドルマスという祭りが行われている」と書かれてありました。で、その日にちっていうのが2月2日、私の誕生日なんですよ。そのことに気づいた単純な私は、やっぱり辞めないで続けてみようと思ったんですよね。(笑)加えて、辞められない、辞めさせてもらえないってことは最低限食えるということなんじゃないか…みたいな根拠のない楽観も生まれましたから。(笑)典型的なプラス思考ですよね。でもやっぱり、その思い込みの激しい性格に何より支えられてきたんじゃないかな。それから、私が好きなことをやり続けることを妻が許してくれたことも大きかったですね。
 まぁ紆余曲折はあったけれど、こうやって続けてきたおかげで色んな人と出逢えたし、続けてきて良かったなと思います。おまけに、自分の生活を支える収入にもなり、自然保護の一助になりたいという目的も叶っていますからね。やりがいもありますし。
 実際、自然の豊かさを伝えるんだったら、養蜂業で美味しい蜂蜜を作ることでも良かったのでしょう。でも、たまたま工作好きの私には、蜜ロウソクがもたらされたんだろうなという気がしているんです。結婚後、暮らすようになった妻の家のたまたま空いていたガレージを活用して工房を作ったのですが、今振り返ればそれもちゃんとお膳立てがされていたなって。高校卒業後、私が朝日町に戻ってきたことに親父は気を良くしたのか、ハチは増やすわ、家は建てるわ、新しいトラックは買うわで、1000万円以上の借金をしたと聞きます。それも私にとっては足かせでしたが、必要な時間だったなと今では思えます。なぜなら、町を出られなかったおかげで養蜂の仕事をとりあえず覚えることができたのですから。もっと言えば、生まれたときから始まっているような気さえする…と言うと大げさですけど、全体の流れとしては自分らしさを素直に辿ってこられたような気もしているんですよ。
要するに、それくらい今が充実しているってこと。今もやりたいことがいっぱいあるので、朝起きるとワクワクして寝てられないという気持ちになりますから。時間は限られているので、やれないことはやれないと割り切っていますけど。

私を動かしてきたもの
 だから、元々蜜ロウソク作家になりたかったわけじゃないんですよ。どこかで修業をしたわけでもないし、今でも「蜜ロウソクを作っている」というプライドは少し欠落しています。(笑)というのも、あくまでも手段だから。とは言え、いい意味でのプライドは持っています。25年間、毎日蜜ろうと向き合っているし、日本で一番蜜ろうのことは知っているという自負はあります。蜜ろうは愛おしいものだし、蜜ろうがなければ今の私もいません。だけれども、自分の作品に強い思い入れを持っている作家さんとは少し異なるところはあるんじゃないかなと思うんですよね。 
 なので、時たまイベント等で「蜜ろう作家」として紹介されることもあるんですけど、作家と呼ばれるのはくすぐったすぎるんです。どちらかと言うと、堅気職人的な感じの方が好きだし、製造業というのがしっくりくる。何でしょう…。作家って、自分の世界を表している人という感じがあるんですよね。そういう高い位置に自分を置きたくないのかな。実際、ロウソクを身近なものとして感じてほしい、日用品の一つとして使ってもらいたいという思いもあるので、芸術作品のように付加価値はつけていません。ましてや「灯りを見てもらいたい」というコンセプトでやっているので、高い値段はつけられません。蜜ろうを作る仕事っていうのは、蜜蜂から受け取った自然の恵みをろうそくとして形にする、いわば代行の仕事だと思っています。あくまでも主人公は自然。だから、安藤竜二の世界を表現しているという感覚は一切ないんです。
 エコミュージアム活動における聞き書きにおいても、文章をその人がしゃべった言葉でまとめているのは、私が主人公になってしまうのを避けたいから。いや、そういう書き方を否定するつもりはないんですけど、私たちはライターではないですからね。大学も出ていないし、この辺の人と同じであって。そんな素人がわかったふりをして書くと逆に力をなくしちゃいますから。この文章の中で一番かっこつけているのは安藤さんだけみたくなっちゃうわけで。そう考えると、両者に対するスタンスと近いところはあるのかもしれませんね。
 実際、割いている時間に大差はありますが、蜜ろうも、エコミュージアムも私にとっては同じものというか、同じところに位置づけられているものなんですよ。きっとそれで自分の気持ちが落ち着くんでしょうね。何だろう…。先祖代々、自然の中で暮らしてきた家に育ったにも関わらず、それを否定していた過去の自分に対する罪滅ぼしでもあるのかもしれません。かつて河原で不意に襲ってきた感覚の正体も、今では「怒られていたんだ」と説明できるんです。やっぱり、「朝日町のような田舎には何もない」と思っていた過去の自分がいるし、その価値観に覆われているかのような世の中に対して、こんなにロマンチックなもの、こんなに垢抜けたものを朝日町で作れるんだぞと示すことで一石を投じたいというような思いはありましたから。でも、基本的には自分が好きな自然をみんなにも好きになってもらえればという気持ちが私を動かしているんじゃないかな。 
 将来的には、エコミュージアムのコンサルタントになって、朝日町のエコミュージアムのスタイルを他市町村に広める活動をしながら、そこにいる昭和系コンサルタントと闘いたいなと。(笑)蜜ろう作りも死ぬまでやっていると思います。ただ、いつ死んでも悔いはないかなという思いも胸の内にはあるんです。いや、悔いはあります。あるけれど、何というか、とりあえずいつも頑張ってやっているし、夢や目標を全て成就させることが答えじゃないような気もするし…。わからないけれど、とりあえず風当たりの強いところにはいつもいたいかな。そうそう。去年、店に来た占い師の人に占ってもらう機会があったんですけど、「安藤さんって怒りんぼですね。怒ってますね、いつも」と言われたんです。幾分戸惑いはありました。でも、よくよく考えてみると今までの私の全ての行動って怒りから始まっているんですよね。自然保護活動もそうだし、木造校舎を残したくてイベントをやったり、町の委員会とかに呼ばれればガンガン発言するのもそう。学生の頃、弁論大会に出たことも然り。私っていつも何かを言いたくてうずうずしている男なのでしょうね。(笑)
 バブル崩壊を境に、世相は変わり、手のひらを返したかのごとく「自然」や「田舎」が脚光を浴びるようになってきました。朝日町も昔のように「何もない」と言わなくなったし、だいぶ元気になってきたように感じます。とは言え、本質的な部分ではまだまだ卑屈感が残り、昔と変わっていないような気もするので、もうちょっと町の魅力を町の人に教わる活動を頑張ろうと思っています。 
 でも、こうして「自然が大好き」「田舎が大好き」と言いながらも、実は都会も大好きなんですよ。年に2~3度体験教室で呼ばれて行ったりするんですけど、都会で過ごす時間はすごく楽しいし、行けないと辛いんです。(笑)というのも、結局、私が悔しさを感じていたのは、本来、田舎であれ都会であれ、どこに住んでいようがそれぞれ同じくらいいい所であるはずなのに、「進んでいる、遅れている」というように上下関係が作られてしまっていたこと。遡れば、高度経済成長時代から「田舎や古いものは何の価値もない」と時代が決めつけることで経済が循環し、日本は発展してきたわけですよね。要するに、”偽りの時代”を私たちは生きてきたわけで。そのことに対する怒りや悔しさはずっと胸中でくすぶっていましたよね。だって、山形市とかに行くと朝日町に暮らしているというだけで馬鹿にされたんですから。
 20歳の頃、髪を赤く染めてオートバイを乗り回して、垢抜けたバンド活動をしていたのも、それでやっと山形市の人たちと天秤がつり合うような気がしていたから。やっぱり、田舎の若者って卑屈にならざるを得ないのよ、ましてや「進んでる、遅れている」というフレーズが闊歩する時代においては。それに、絶えず何かに怯えながら暮らしているような感覚や、長いものに巻かれて生きるしかないんだという投げやりな気持ちもありました。その悔しさを晴らす矛先が田舎にやってくる都会の人へと向かったんです。当時の時代背景を象徴するような都会の人たちの中にはわかったふりをして田舎に来る人も多かったんです。そこで彼らの田舎を馬鹿にしたような態度に触れると追い出すように帰していた私がいましたから。もののけ姫に出てくる、自然を破壊する人間たちに対してすごく牙をむくサンみたいな感じだったかな。(笑)
 そういう人たちの中には「蜜ロウソク作りのような垢抜けたことをやるのはよそから来た人だ」というような固定観念があったようで、「あなたはどこから来たの?」とはよく訊かれたんです。だけど実際、朝日町を始めとした田舎で暮らしている人たち、頑張っている人たちの中には長男、長女として先祖代々の田畑を守り、両親の面倒を見て…というような義務を果たすべく、家を出たくとも出られなかった人も多いんですよ。そういう人がいるからこそ、田舎が残っているわけですよね。だから、「よそに行かないと朝日町の良さがわかんないよね」とわかったフリをして言う人がいるとムッとしていましたよね。私自身、朝日町の良さは朝日町に住んでいる人が一番知っているのだと信じていますから。ただ、時代の波に呑まれて、いいものなのにいいものだと実感できていないだけであって。まぁ最近やっと大人になって、しこりがとれてきた感じはしていますけどね。
 だから、ある意味蜜ろうは、朝日町でこんなスゴいものを作れるんだぞ…と示すことで田舎で生きること、そして田舎で生きている自分自身が誇りを手にするための手段だったのかもしれません。やっぱり、どこだって同じように価値はあるはず。どちらが上か下かではなく、天秤はなるべく平らにしたいなと思っていますね。

<編集後記>
原体験とはその行為自体というより、その行為とともにあった喜びであり、悲しみであり、楽しさであり、悔しさなのかもしれない。

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