#65 NPO法人 With優 代表 白石祥和さん

65 白石祥和さん「何かに挑戦できるってことはすごく幸せなことですよね」


1981年生。山形県米沢市出身、在住。山形大学教育学部を卒業後、学校の特別支援学級の指導員としての経験や、フィリピンでのストリートチルドレンの支援に関わる活動などを経て、自身でフリースクールを立ち上げることを決意。(短くしました)その後、自分の思いを綴ったチラシを片手に自転車で米沢市内の各戸をまわった結果、11人の協力者を得て、07年5月、同級生とともにフリースクール「With 優」を立ち上げる。09年よりカフェレストラン、10年より若者の就労支援を行う置賜若者サポートステーションを展開。13年2月には、一般就労を目指す若者がトレーニングを積めるような中間的就労の場として会員制の居酒屋『結』をオープン。今に至る。Webサイトはこちら

記事公開:2014-04-11

  

漠然と胸にあった思い
 06年春。行方不明になっていた同級生が自殺していたこと。その後、彼の実家を訪れた時、なかったことにするとまでは行かなくとも、彼が自殺したことを外には言えないという残された人の苦しさみたいなものに触れたこと。その出来事は、私の心に火をつけました。そして社会全体に思いを馳せれば、自殺者が3万人いるだけじゃなく、未遂する人にもそれぞれ苦しみや葛藤がある…。そう思うと、以前から胸中でくすぶっていたおれも米沢で何かしたいという思いは、やらなきゃだめだなという思いへと姿を変えていったのです。
 ――小学校の頃から大学までずっとサッカーをしてきた私の生活の中心にはサッカーがありました。高校時代にはキャプテンを務めるなど、いわゆる体育会系の人間でした。けれど、プロになりたいという思いはなく、というより小さい頃から自分の実力ではプロにはなれないだろうと冷静に捉えていたんです。

 かといって、具体的な将来の夢や目標はありませんでした。高校時代、学校の先生は自分にはたぶん合わないだろうと感じながらも教育関係の仕事にはすごく興味があったので、卒業後は山形大学教育学部に進学。けれど、同じ学部に在籍する友達はほとんど教員になっていく中で、明確な進路が見つかっていなかった私は進路に迷っていました。
 この職業じゃなきゃダメというようなこだわりが特になかったことがその一因です。別に仕事は何でもいいっちゃ何でもいい。ただ、自分を育ててくれた場所(米沢)で何か役割を持てればいいな、ここで生きていたいなという思いはあったんです。だから、大学を卒業したら米沢に戻ることだけは決めていたんですよね。地元が好きな私にとって、やっぱり何のために働くかを考えた時、お金が欲しいというより、ここでそれなりの生活をすることの方が価値があるなと。3人兄妹(妹2人)の長男だし、家族と一緒に暮らしていきたいという思いは昔からありましたしね。

 「米沢で暮らす」という前提に体育会系という自身のタイプも考え合わせた時、手っ取り早い仕事として思いついたのが消防士でした。憧れもありました。ただ、大卒採用の枠が少ないのが難点であり、最初のチャレンジとなった大学4年の時は失敗。とは言え、それほど挫折感を味わうこともなく、いずれなれるだろうと楽天的に捉えていたんです。
 結果から言うと、年齢制限に引っかからない歳まで3度チャレンジするも全て面接で落とされてしまったんですけど、正直、自分が試験に落ちるなんて想定していなかったんですよね。受かると信じていたのに受からなかった、ずっと頑張ってきたのになれなかったという現実に直面した時、別の道を探す気にもなれなかった私は、とりあえず一度米沢から逃げることを決め、一冬の間、北海道の牧場に住み込みで働いたんです。
 「仕事は何でもいいっちゃ…」とは言うものの、大学時代から漠然とではあっても人と関われる仕事をしたいなという思いはあったんですよね。なので、一時期、老人ホームでボランティアをしていたんです。ただ、行ってみると、施設の運営上、必要最低限の人数で回さなくてはならないがゆえに、一人ひとりとの密な関わりが持てていないという現状を肌で感じました。例えば、天気のいい日に一緒に散歩したり、歌をうたったりということが一番求められているにも関わらず、職業となるとそれが出来ないことに気づいたんですよね。
 北海道から戻ってきた後、米沢市教育委員会からの誘いを受け、特別支援学級の指導員として地元の小学校で働いていた時も似たようなことを感じていました。そこで関わっていた子の中には複雑な家庭の事情を抱えている子もいたんですけど、学校の中だけだとどうしようもない…というか支援しきれない感じだったんですよね。おまけに子どもたちも何が大切なのかわからないまま日々を過ごしているというような状況で。そんな状況に違和感を感じていた私は、休みの日を利用して、昔自分が連れて行ってもらって嬉しかったところ、楽しかったところに月に1、2回のペースで連れて行くようになりました。結果として、その試みは子どもたちにとってはすごく良かったと思います。でもやっぱり、枠の中でやることの限界を強く感じていた私は、06年3月、契約期間の満了を待たずに辞めたんです。

思いを形にできるまで
 大学卒業後、消防士を目指していた2年の間に、自動販売機を運ぶ仕事や土木関係の仕事、さくらんぼもぎなどの季節労働など色んな仕事を経験したんですけど、そこで感じたのは社会とのギャップだったんですよね。
というのも、進学校だった高校の授業で学んだことは、そういう仕事をやる上では全く生かされなかったから。働く現場で必要とされるスキルって全然違うわけですよね。経験値によって差は出るものの、基本的にコミュニケーション力と体力、そして精神力があれば誰でもできるんじゃないかと感じました。

 ドラマやニュースで取り上げられていたフリースクールに興味を持つようになったのは、その頃のことなんです。働く中で社会とのギャップを感じたり、自殺者が3万人以上いることをニュースで知ったりする中で、学校という枠の中だけではない自由な教育の形があるんじゃないか、色んな職業があって、色んな生き方があるんじゃないかという思いは増してきていたんです。そんな思いを具現化できる場所としてフリースクールに可能性を感じるようになった私は、それに関連する情報にアンテナを立てるようになりました。
 ところで、学校の先生の役割って、勉強のテクニックじゃなくて、勉強をしたいという気持ちを持たせる為のきっかけ作りだと私は思うんです。そして、やっぱり一人の大人として何が大切なのかを伝えることが必要じゃないか…と考えた時、気づいたのは、指導員として子どもと接している自分は何も語れるものを持っていないということ。
 だったらまずは自分の目で実際に世界を見なきゃと、06年3月、指導員の職を辞めた私は、経済的な理由等で学校に行けない子どもたちがいるフィリピンへと向かいました。フィリピンではストリートチルドレンや虐待を受けた子どもたちを支援するNGOのワークキャンプに参加。その後、タイでも似たような形でボランティア活動をする中で、自由でいいんじゃないか、色んな生き方があっていいんじゃないかという思いはますます固まっていきました。と同時に、フリースクールはより明確な目標として形を成してきていたんです。
 そんな思いを胸に米沢へと帰ってきたものの、フリースクールという分野は職業として成り立たないという現実は立ちはだかっていました。それでも運良く、知り合いだった米沢の生協の方から声をかけて頂いて職員となった私は、場所と時間を与えてもらいフリースクールを事業化するという仕事をさせてもらったんです。そこではとても良くして頂きました。でも、結局そこは1年で辞めたんです。というのも、企業と私の思惑が一致せず、色んな葛藤を抱えていましたから。
 そして、07年3月。自分たちでやっていこう、やるんだったら覚悟してやろうと同級生の森とともに立ち上がった私は、自分たちの思いを綴ったチラシを公共施設等の色んな場所に置いてまわりました。でも、反応は全くありませんでした。ならば別の方法でと、チラシを片手に、自転車で1軒1軒米沢市内の家をまわるようになりました。結局1ヶ月半で7000軒くらいまわったかな。その中で11人の方が私たちの考えや思いに賛同し、協力したいと言ってくれたことはやっていけるという手応えを私に与えてくれたんです。実際、関心を持って私たちの話に耳を傾けてくれるのは、1日回って1人いるかいないかという程度。ボロクソに言われることもありましたし、地区の会議で発言したところで相手にしてくれる人はいませんでした。でも、だからこそ、賛同してくれる人に出逢った時はすごく嬉しかったんですよね。
 というようないきさつを経て、「With 優」を立ち上げたのが07年5月のこと。以来、約7年。生徒1人からスタートし、2014年4月時点では15人くらいの子どもたちも通うようになっており、行政から”職業”として認めてもらえるようにもなりました。10年には若者の就労支援を行うサポステを始め、昨年度には会員制の居酒屋”結”もオープンさせられるなど、今のところ事業としては順調にいっています。
 思い返せば、当初は助成金の獲得に挑戦しながら、その日暮らしと言えばその日暮らし状態でしたからね。給料はひと月で1万5000円くらい。朝は魚市場で働き、夜は別の仕事をして…という生活を送っていましたから。今でも、1年1年事業を回しているという感覚はありますけどね。
 でもやっぱり、自身がそうやってこられたのは家族の存在が大きいでしょうね。――定職を持たぬまま大学を卒業し、季節労働のような形で仕事をしていた頃は、自分としても何とかしたいんだけど、どうしていいかわからなかったんです。たとえ貧しくとも陽気に生きている現地の人びとに触れながらフィリピンで過ごす時間は楽しく、何も仕事がなくなったらここで生きてもいいなという半ば投げやりな気持ちを抱いていたこともありました。そんな私に対して、山形大に入れば「素晴らしい」とか、土木工事をやっていれば「山形大出たのにあいつは…」みたいに陰でささやかれている噂も家族の耳には入ってきていたようです、この辺の地域は閉鎖的な世界ですからね。
 それでも、家族からの「○○をしてほしい」というような要望は一切なく、自分の信じたことをやってみろというスタンスで接してくれたし、自転車でチラシをまく時もみんなすごく応援してくれました。直接は言わないんだけど、土木の仕事をやっている時や、北海道に行っている時に手紙をくれたりもしました。やっぱり、そういうのが効いてくるんですよね。頑張らなきゃなって思わされたというか。とにかく「信じてくれていた感」はあったし、それに応えたい自分はいましたよね。だから、結果的に家族のことは尊敬しているんです。かと言って、普段は全然仲良くないんですけどね。(笑)
 自身がそういう経験をしているから、支援についても家族という視点で考えちゃうんです。実際、本人がすごく変わっても、家族が共に成長していなければ、何も変わらないと思うんです。だから、オヤジの会のように、どうやって理解して支えていくか一緒に考える場を設定したりしていますね。

私が目指しているもの
 フィリピンやタイに行って実感したのは、日本人は圧倒的に変えていける環境にあるということ。やっぱりあっちは変えたくとも変えられない社会ですから。努力しても変えられない現実がある。例えば、フィリピンのゴミの山で生活している子どもたちが、将来日本で学びたいと願ったところで絶対無理じゃないですか。変えられる人が変えられない人を引っ張っていくことなら出来るでしょうけど。
 だからやっぱり、社会が変わってくれるのを待つんじゃなくて、自分が変わっていかなきゃいけない。なので一番理想なのは、自分で選んで作っていくこと。失敗してもいいから、自分でチャレンジしてみること。それが、13年2月にオープンした「居酒屋 結」の目標でもあります。
 とは言え、現実として「今、働けない人」がいることは確かです。この辺りでも時代の流れとともに個人経営の店に取って代わるように増えてきたチェーン店では、即戦力じゃないと就労が難しいんです。基本的にうちは誰でも困っている人を対象にやっているので、薬を飲みながら来ている若者や、長期間引きこもっている若者、知的障害、精神障害を抱えた若者もいます。それが個性なのか障害なのかはわからないけれど、仮に働けたとしても、相手の言っていることを理解して行動できないとか、コミュニケーションの問題でつまづいたり、孤立してしまったりする若者もいるので、働いてからもつながれる場所を…という思いも「結」には込めています。
 また、一般就労が難しいとなると、敷居の低いB型作業所で働くという選択肢しか残されていない場合もあります。一般就労を目指してはいても、なかなかB型作業所から抜け出せずにいる場合もあります。障害者の雇用を実現させるなど福祉的な役割を担っているB型作業所の中には時給に換算すると60円、70円という世界もあります。B型作業所を含めた福祉的就労の場と一般就労の場に明確なボーダーラインはないので、彼らの多くは一般就労を目指すのか、あるいは福祉的な支援を受けながら生きるのか、その狭間で揺れ動いているという現実はあります。

Pocket

1 2