#66 東北芸術工科大学 教授 教養教育センター教職課程担当 片桐隆嗣さん

片桐隆嗣さん「ある意味、神様に感謝しているんです」


1959年生。宮城県仙台市出身。山形市在住。高校卒業後、1年間の浪人生活を経て千葉大学教育学部に入学。在学中、大学教員を目指すために筑波大学大学院を受験するも不合格に。浪人中、京浜工業地帯の工場での1年間のアルバイト生活を経験。その傍ら受験勉強をし、2浪後、同大学院に進学。博士課程を取得後、93年より東北芸術工科大学(以下、芸工大)にて勤務。翌94年にはチュートリアル Doing Sociology を立ち上げる。「こども芸術大学」の立ち上げにも参加。学生主体で行うチュートリアルを通して、専門である社会学と芸術との接点に着目している。 ブログはこちら

記事公開:2014-04-17

 

私が教員になった理由
 旅人になりたい――。遡ること、30年以上前。高校生の頃、私は本気でそんな夢を描いていました。
 そのためにはまず、外国語ができた方がいいなと。でも、アメリカ帝国主義みたいなものは嫌だから英語は避けたい。ならば、貿易関係の仕事に就くには有利なスペイン語だといいかな。ヨーロッパの老舗の落ちぶれた国とのイメージのあるスペインへの憧れもあるし…。そんな思いを抱いた私は、東京外国語大学と上智大学スペイン語学科を受験するも失敗。
 その後、東京にて浪人生活をスタートさせたものの、その1年間、さほど一生懸命勉強をしなかったこともあり、2度目も失敗。仮面浪人し、再度受験することを前提に、2次募集で受かっていた千葉大学の教育学部に入ったんです。
 いざ仮面浪人生活に突入したものの、これといった動機づけもなく、結局再受験せずじまいに。一方の学生生活においても、教育学部での授業では小学校の教員養成の場だからと縫い物や鉄棒をやらされるし、好きだった語学の勉強に至っては『星の王子さま』の訳本を読み上げるだけ。酷な言い方になるけれど、ここは大学じゃないなと思ったんです。
 そうこうするうちにも時間だけは過ぎ、3年生になっても先生になる気もないし、かといって何か熱中できるものを見つけたわけじゃない…という極めて中途半端な状態で鬱々とした大学生活を送っていたんです。
 そんなある日。3年の後期、10月頃だったでしょうか。何の気なしに「労働社会学」という授業に出てみたんです。受講生は、私ともう一人くらいしかいなかったんですけど、先生の話を聞いてみると妙におもしろかったんですよね。すごく脳みそが活性化されているような感覚があった。かつて味わったことのないような高揚感というか、わくわく感があったんです。
 4年の前期に入ったゼミも「社会学」と名のつく、明石要一先生が担当していた教育社会学のゼミでした。その時初めてじゃないかな、大学で勉強したいと思ったのは。とは言え、自身の中で教員になるつもりはないという気持ちは変わらないまま。ならば進路をどうしようか…と考えていた時に出逢ったのが向山洋一先生でした。
 現在「TOSS」という教育運動を主宰している向山さんと言えば、教育技術の法則化運動を立ち上げた人。ざっくりと言えば、「授業のうまさだったり、学級経営のうまさっていうのは、技術じゃなくて芸だ。つまり、人に伝えられるものではなく、その人が教壇を降りてしまえばその人と共に消えてゆくものである。それでは日本の教育が良くならないから、芸ではなく技術として伝えていくべきだ」というのが向山さんの考えです。
 当時、向山さんは30代後半くらい。まだ「TOSS」の主宰者ではなかったのですが、ゼミの先生に薦められて大田区の小学校に通い向山さんの授業を見せてもらったり、アンケートをとらせてもらったりしているうちに感じていたんですよね、「あ、この人すげぇな」って。
 そのすごさを見るにつけ、私の中ではこんなすげぇ人と一緒に仕事をしたいという思いが芽生えていました。でも同時に思ったのは、もし自分が小学校の教師になってしまったら、この人の背中をずーっと追いかけて行くようになってしまうだろうってこと。ならば向山さんと対等に渡り合えるポジションで仕事を探そうと。教員採用試験の日程も迫り、受けようか受けまいか迷いが消えない中、そのポジションとして思い当たったのが大学の教員だったんです。
 そうして、筑波大学大学院(以下、筑波)に行くことを決意したのが4年の9月のことでした。けれど、翌年2月に試験を控え、試験科目の一つである第二外国語に関しては、全く手つかずと言ってもいい状態でした。というのも、それまでの約3年半、第二言語どころか英語ですら『星の王子さま』以外はほぼ勉強してませんでしたから。結局、ドイツ語に照準を合わせ半年間勉強するも、(後から聞いた)5点というドイツ語のテストの成績がネックとなりまたもや受験に失敗。二度目の浪人生活へと突入しました。


まわり道をして

 少し遡って、大学在学中、「大学院に進みたい」と親に告げた時、父親には大反対されたんです。土建屋の父は、基本的にはダムや道路を造るなど何億、何十億単位のお金が動く仕事をしていた人でした。「この道路はおれが作った」というように、形になるものを仕事の成果として残すことが自身にとってのプライドだったんでしょう。でも、教育ってそういうものではないじゃないですか。だから「大学の教員を含めた学校の教員というのは虚業だ」と。「男っていうのは汗水垂らして仕事をするもんだ」とその価値を認められず、最終的には「もっと勉強したいなんて贅沢だ」と勘当を言い渡されました。
 私も私で、そこは優等生のお坊ちゃん。一からやり直さなきゃいけないなと思ったんです。それなりに裕福な家庭で育ち、勉強をやらせてもらっていたから、その他の世界は知らないわけで。だから、語弊があるかもしれませんが、「社会の底辺を体験してその上で自分の夢を実現したい」と、京浜工業地帯の工場でアルバイトを始めたんです。
 そこはビデオラックの組み立て工場でした。ひたすら電動ドリルで20カ所くらいのネジ穴にビス(ネジ)を打ち込んでラックを組み立て続けることが仕事でした。でも、電動ドリルなんて持ったことのない私にはできないわけですよ。その道2、30年のベテランが1日当たり2~30個ラックを作る一方で、私は1日2個とか3個くらいしか作れなかった。
 そこでは友達もいないわ、周りからはシカトされるわ、場合によっては陰口や嫌味を言われるわ…。「おれって何やっているんだろう?」「一体何になるんだろう?」と思いながら一人で昼飯を食べたりしていましたから。その当時、優しい声をかけてくれるのは、基本的に新興宗教関係の人くらいのもの。(笑)
 ただ、そういう生活に一度浸かってしまうと、なかなか抜け出せないのが現実でした。筑波にも月一度くらいのペースで通っていたし、ヒマを見つけて一応勉強はしていたものの、結局2度目のチャレンジも失敗。
 不合格の通知を受け、これからどうしよう…と考えていた時、たまたま赤羽駅のホームで筑波に通っている先輩に会ったんです。そこで自身の近況を報告したら、「おまえ、馬鹿じゃないか」と。「そういう生活をしていたら大学院なんて受からないだろ。まず生活をちゃんと安定させるのが先じゃないか」と言って、自分が勤めている塾に私を紹介してくれたんです。
 結局、その後すぐその塾に非常勤講師として雇ってもらったんですけど、以降は、平均して月20万くらいは稼いでいたんじゃないかな。その傍らで受験勉強をし、翌年の入試では合格。2年越しで筑波の門をくぐることができたんです。
 そういう意味では、私は学歴社会の中での失敗、挫折経験をしてきたんです。高校を落ちたことに始まり、大学は一浪、大学院は二浪というように。でも、明石要一さんにも言われたのは「君は大学の教員になる価値はあるよ」ってこと。「失敗や苦労をした経験があるから、困ったり落ち込んだりして相談に来る学生に基本的には共感できるじゃん」って。

私の原点と今
 芸工大で勤めること20年――。今にせよ、これまでにせよ私の研究室には学科のメインストリームを歩いている子たちはほとんど来ないんですよね。どちらかと言うと、学科では端っこにいる子や学科にいたくないというエネルギーを持っている子が(特に昔は)多かったんです。
 だからここは、探していた行き場を見つけた子たちが集まる喫茶店状態になり、ここで出逢った仲間と何かを作ることができていたんです。ただ、4年になったら学科の方に帰すようにしていましたけどね。というのも、最後に彼らが帰る場所はアトリエだろうから。でもそれまではここで自由に過ごしていいよという風に接してきました。
 というのもやっぱり、学科、つまり専門科目の方は競争社会なんですよ。まず、1年の最初の時点(4月の2週目か3週目)で自分の作品が一斉に校内に並べられて、その時に誰が上手くて、誰が上手くないかってことは何となく学生自身がわかっちゃいますから。
 加えて、学科の方では価値が主観的に測られます。つまり、先生との相性があって、偏りがある。40人生徒がいて、40人全員に先生は目をかけたりしないですからね。
 そもそも、基本的に芸工大はアートの世界のトップエリートを育てる場所です。だから、50人のうちの1人でいいんですよ。10年に1人でいい。そのくらいの確率であったとしてもそういう人間を輩出できれば、大学の存在価値はありますからね。だから、そのルートに乗れない学生への関心はどうしても低くなってしまう。
 でも、芸術家として、あるいは制作者としてトップエリートにはなれなくとも、手には技術を持っていたり豊かな発想力もあったりするわけだから、私も含めた教養の先生たちがやっている活動と上手くつながれば彼らはけっこうハイクオリティのパフォーマンスを発揮するんですよね。
 例えば、年に2回開催している「やなファク ※」でも、学生の手だけで準備して作り上げて大江町の子供たちを呼んで、彼らがまた来たいと思えるような充実した時間を創り出していますから。一人一人単体で見ると、学科内ではおとなしかったり、あるいは課題も出せなかったりする子もけっこうたくさんいますけどね。
 とは言うものの、芸工大も変わってきています。「昔は…」と言ったのも、今はメインストリームというか学科で普通にやれている子も来ています。というのも、大学がいわゆる”周辺”の子にも教育の手を差し伸べることによって取り込んできているから。私の研究室が「あそこに行けば力がつくよ」との評価をされたりというように、中心性を帯びてきているところもあるでしょう。
 昔は、「アトリエで絵だけ描いていればいい」という話だったんです。でも、今は「それではダメだ」と社会が大学に要求します。そして、それに伴って大学も変わってきたということ。となると、いたくないというエネルギーを持った子が減るのは当然のことだと思います。
 設立当初から芸工大を見てきて、確実に変わったのは、5年目、1期生が卒業した頃から「生徒化」が起こったということ。要するに、学ぶために入ってきた子たち、「先生がいて、自分は生徒である」という関係から始まる子たちが増えたんですよ。そうして、10年目くらい、「芸工大っていい大学だよね」という評価を社会から与えられるようになると、完璧な”生徒”が入ってきたんです。
 その違いを象徴しているのが、ノートです。1期生とか2期生は、授業にノートなんか持ってきていないわけですよ。大きいのから小さいのまで、みんなバラバラのスケッチブックを持参し、授業中もスケッチやいたずら書きをしているという状態だった。一方、そういう”生徒”たちは、皆、先生が板書をしたものを書くためのノートを持ってくるんです。となると、どうしても「教えてもらう」「やってもらう」というように受け身になってしまう。

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