番外編#1 東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科 教授 三浦秀一さん

#1 三浦秀一さん番外編 #1  東雲(しののめ)の期〜

1963年生。兵庫県出身、山形市在住。高校卒業後は、建築を学びたいと早稲田大学理工学部に進学。1992年3月、同大大学院博士課程を修了。同年4月より、東北芸術工科大学(以下、芸工大)の講師となり山形に移住。近年は、カーボンニュートラルな地域づくりを目指し、住民や自治体と共に実践活動に取り組んでいる。主な著書として、『コミュニティ・エネルギー、シリーズ地域の再生』(農文協・2013)『木質資源活用 森林の恵みを活かす ~木質バイオマスで中山間地を元気にする~』(農文協・2013)がある。
※写真:クレジット  TEDxTohoku カメラマン  太田一彦氏

 関連動画:TED×Tohoku 2013

記事公開:2014-04-29

山形にやってきた経緯
「とりあえず、スキーをしに行こうかくらいの感覚だったんですよね」
 兵庫県出身の三浦が、結婚した妻と山形にやって来たのは92年4月のことである。早稲田大学の博士課程に在籍し「都市計画とエネルギーの関連性」について研究を進めていた三浦は、博士論文を書き終えるタイミングで結婚。修了後の職として選んだのは、研究室の指導教官から勧められた、当時出来たばかりの芸工大での講師としてのポストだった。当時、三浦は28歳。山形はおろか東北さえほぼ行ったことがないような状態だった。
「大学の先生になるつもりもなく、骨をうずめるつもりもない。だけど、結婚したし、とりあえずの食いぶちを確保しよう。とりあえず、スキーをしに行こう。そのくらいの気持ちだったんです」
 当時の時代背景は、バブルが終焉へと向かっている頃。とはいえ、まだまだ世の中にバブルの名残はあり、「地方に行って一旗挙げよう」というような考えを持った人はまわりには見当たらなかった。もちろん三浦自身の中にもそんな考えはなかった。実際、芸工大で働くようになっても、しばらくの間はいずれ帰るだろうという気持ちでいた。そして、妻にもそう伝えていた。
 遡れば、三浦が在籍していた早稲田の理工学部での専攻は建築だった。バブリーな空気が社会に漂っていた当時、東京では高層ビルの建築ラッシュが続いていた。世界都市・東京として今後発展していくためにもと新たな土地の必要性が俎上に上がっていた。その中で、ウォーターフロントと呼ばれる、83年に開園した東京ディズニーランドのように港湾や臨海部の遊休地を利用した都市開発、そして、ジオフロントと呼ばれる地下空間の開発が進められていた。
 三浦が4年の時に入った研究室では、大気汚染問題などの公害問題や過密の問題など「都市開発の負の側面である環境問題を解決し、より豊かな都市生活を送るために何ができるか?」ということが大きなテーマとされていた。理論もあるが、まずは現場に出て実態を見ながら研究を進めていく。そんなスタイルの教授のもと、皆、フィールドワークを中心に研究を進めていた。
 そのなかで三浦は、ゴミの収集システムを地下に造ったり、工場の廃熱を地下に通したパイプで他に回したりなどというように、地下空間の活用方法を研究していた。わりと積極的に現場に出て行くのが好きだったこともあり、研究のために工学的なデータを採取することに加えて、人々の生活とのつながりにも着目。ハード面だけでなくソフト面も踏まえて、公害問題を考えていた。 

バイオマスと出逢って… 1
 ところが、一転。長らく都市生活を送ってきた三浦にとって、山形は大きなギャップを感じる場所だった。空気がきれいで、山もいっぱいある。緑もあるし、畑もある。東京のような高層ビルなどほとんどない。環境問題やエネルギー問題とは無縁の土地だった。
「研究者としてみれば、学生時代に研究してきたバブリーなテーマはとんでもなく場違いなテーマへと変わってしまったんです。今までやってきたテーマが通用しない状態で。だから、当初、ここで何をしようか…と途方に暮れた感覚はありましたよね」
 研究のスタイルは人それぞれだ。研究者の中には、まわりの環境いかんに関わらず、自身のテーマを突き詰めるスタイルもあるだろう。一方、学生の頃から地域と絡めたテーマを扱っていた三浦は、山形に来た時点で山形なりのテーマを探すことを始めたのだ。
 空気がきれいで、緑も多い。でも、本当にそれだけでいいのか…。テーマを探している過程で、そんな問題意識がいつしか三浦の中に芽生えるようになっていた。
 そんなある日、地元住民から車で山の上の見晴らしが良い所まで案内してもらったときのことだった。目的地に到着すると、その人は言った。「すばらしい景色と大自然があっていいでしょう。ドア toドアで行けて便利だし」と。
「でも…と私は思ったんです。そんなに車にバンバン乗ってガソリンを消費していていいのだろうかと。実際、各々が一人でマイカーに乗って通勤するとなると、エネルギー効率としては最悪ですからね。一方、東京で満員電車に乗るのはきついことです。だけれども、エネルギー効率としては最高なんですよ」
 そこで三浦が目をつけたのは、マスコミ等でもクローズアップされるようになっていた地球温暖化問題だった。生活のなかで、車社会を代表として、地方生活者の一人当たりのエネルギー消費量は都市生活者より間違いなく多いことがわかってきたのだ。そこで「地球温暖化」という切り口からアピールして理解してもらおうと、「温暖化問題」に研究テーマをスイッチした。
 ところが、その切り口からではなかなか切り崩すことができなかった。
「講師として呼ばれて温暖化問題について話したりすると「確かにそうだし、いい話だ」というような反応は返ってくるんですよ。でも、そこで終わってしまう。何かが変わるということはなくって。私自身も然り。私だって車に乗っているし、「やめられるか」と言われてもやめられないわけですよね。だから、「車を辞めよう」とみんなに訴えるのはそんなに説得力がないなと。それに、地球温暖化は山形のような所にいると実感が伴わない。どちらかと言うとむしろ、暖かくなって雪が溶けてくれれば助かると思っている人がいるくらいでしたから」
 そこで三浦は作戦を変更した。違った切り口から攻めようと、テーマを自然エネルギーに絞り、山形という地域性を考えた上でバイオマスエネルギーへとさらに絞っていったのが10年程前のこと。周りの反応が変わったと感じたのは、バイオマスと関わるようになってからだった。人を主体的に関わらせることができるという意味でも、今までのテーマとはまったく違ったのだ。 
「やっぱり、利害関係が生じるからなんです。山を持っている人が山を使えるかもしれない。林業をやっている人が林業を生かせるかもしれない…。そんな直接的な利害関係が見えたからなんですよね」
 バイオマスと関わるようになって三浦自身も変わった。
「初めて山形の資源が生きて見えるようになり、山も”宝の山”として目に映るようになったんです。いわば風景の見え方が変わったというような感覚はありました。いや、「宝の山」っていうフレーズは人からよく聞かされていたんです。だけど、ピンとは来ることはなくって。それがエネルギーとして活用できるとわかった途端、それに関わる人や、興味を持つ人など、いろんなものが見えてくるようになりましたから」
 バイオマスエネルギーの分野に関しては、ヨーロッパの国々の方が日本より断然進歩している。特にオーストリアは、世界的にも注目されているうえ、気候条件など日本とも近いところがあるため、学ぶところがたくさんあるという。
「でも、それはヨーロッパの人の意識が高いからじゃない。日本人の意識が低いからじゃない。劇的に地元社会を動かしたのはおそらく、ものすごく合理的で実利的な彼らの気質なんです。もちろん、皆がみんなそうじゃなくって、本当に環境のことを心配してやっている人たちも活動の音頭をとっているような人たちの中にはいますけどね。一方、日本人はモラルに訴えかけようとして精神論を語りがち。それでは世の中は動かないですよね。
 やっぱり、頭だけで理解して、理性だけで人が変わるってことは無理な話だってことは長年の経験の中で実感させられてきました。何らかの利害関係とか本能的な危機感とかいうものなくして、人は変わらないんだってこともそう。どちらかと言えば観念的になってしまう「地球温暖化問題」では利害関係が見えませんから。科学的に証明されている客観的事実があったとしても、規制とかモラルしか見えないから、誰も前向きにはなれない。もちろん、今、人がらみで進めていくのも難しいことに変わりはありません。深入りしていくと大変な部分もあります。でもやっぱり、それよりはおもしろかったかなと思うんです」 

地方で暮らすことの宿命
「変えられるとしたらもう一つ。自分で変わってみせることだと思います」
「色々言ってますけど、先生は何やっているんですか?」かねてから人前で話している中で、三浦は聴衆からのそんな含みをもった視線を常に感じていた。そうはっきりと訊かれることもあった。
「薪、薪…とさんざん言っている手前、「先生、何使っているんですか?」と訊かれて「電気です」とは言えないじゃないですか。(笑)だから、自分がやらなければいけないという意識は常にあったんですよね。まずは省エネをやんなきゃいけないし、車もハイブリッドに乗んなきゃいけない。となると、最後は家ですよね」
 2011年7月。三浦は山形市内に、暖房等で使用するエネルギーの消費を抑えるために厚い断熱材を入れ、太陽光発電パネルをつけ、薪ストーブを導入した家を建てた。
「もし仮に、東京で学生に向かって講義だけしていれば、そんなことはなかったかもしれません。でも、市民向けの講座とかで話していると、そういう矢がどんどん飛んでくるし、無視できないわけです。元々建築学科だったこともあるし、そこに手をつけないわけにはいかないなと。だから、言った以上やらなきゃいけないというのは人が近い、山形のような地方で暮らすことの宿命ですよね。自分が言ったことを自分で証明しなきゃいけないというか、変わらざるを得ない状況だったというか。
 いや、少し昔に遡れば「いい話ですね」という感想と拍手で終わっていたんです。ところが、3.11のようなことが起こったりすると、「自分でやりたい」という人が出てくるようになった。となると、自分もそれに対応しなきゃいけなくなる。だから、身近に実践している人、したい人がいたことが、私を変えてきたんでしょうね」
 ところで、今回建てた家は、三浦にとって生まれて初めて住む一軒家だった。それまではずっとマンション暮らし。
「むしろ東京に住んでいた頃は、「土地のない東京で一戸建てに住むなんて罪でしょ」と思っていたくらいだったんです。(笑)実際、隣どうしで暖め合えるからマンションに住んだ方が暖房効率がいいし、環境への負荷という点ではマンションの方に軍配が上がります。木造の一戸建てだと少し話は変わってくるので、一概には言えませんが。とにかく、一戸建てに住みたいというような憧れも願望も私にはなかったんです」
 だが、実際に住むようになると、三浦の中で変化があった。
「地べたで暮らすことの心地よさを知りました。塀や郵便受けを造ってみたりと、自分の生活空間をいじるおもしろさも知ることができました。それに、以前は薪割りみたいな面倒なことをやるよりは仕事に集中していた方がいいと思っていたんです。でも、それもやってみると意外と面白くって。あくまでも「適度にやる分には」という条件付きですけどね。というのも、新しいことをやるというのは世界が広がることだから。なので、過度な負担にはならず生活が豊かになるというレベルで留めて、上手くバランスをとりながら生活を築いていくってことは全然アリなんじゃないかと思っています。
 それは私にとって目新しい日常だからというのもあるでしょう。でもやっぱり、(商売とかに関わらない小さな世界ではあるけれど)自分の生活に直結することのために時間を使って、自分の生活のために生きることってけっこう快感ですよね。そもそも人間はお金のためとか会社のためではなく、自分が生きていくために働くわけでしょうし」

夢はエネルギーシフトの実現
「未曾有の大災害」と呼ばれる3.11。東北ではまだまだ冬の名残が色濃いその時期に電気・ガス、水道が数日間ストップしたことで、自宅に薪ストーブを導入することを本気で検討する人は増えたかもしれない。文明に浸りきっているという現状を肌で感じた人も少なくはないだろう。とにかく3.11を機に、思考や価値観、行動が変わった人は多いのではないか。エネルギーの専門家である三浦もその一人だった。
「やっぱり、3.11でスイッチが入ったところはありましたよね。今まで穏やかに進めてきたものも、本気でやんなきゃいけないな、闘わなきゃいけないなという気持ちにはなりましたから。すべてではないけれど、電力会社の弊害って大きいわけです。原発に限らず、エネルギー全体に対して。今回は福島が犠牲になったけれど、地方というくくりで言えば山形も同じ。これまでずっと地方の弱みにつけこむようなことをされてきたわけで。専門家にせよ、原発がよくないってわかっていても「よくない」って言わなかったじゃないですか。でも本当は「よくないものはよくない」って言わなくちゃいけないし、地方がもっと主体性を持って自立できるように闘わなきゃいけないと思うんです。
 その点、ヨーロッパでは一人ひとりが自立していてたくましいですよね。だから、コミュニティとしてもたくましいし、たとえ小さくとも国としてもたくましい。自分の生活に関わることであれば、自分でできることは極力自分でやっていくというのがおそらくヨーロッパの人たちの生き方だと思うんですよ。ある意味、ゼネラリストとして生きているというか。
 一方で、人任せにしちゃうのが、私自身も含めた日本人の脆さだと思うんです。研究者はその最たるところですが、ちょっと専門分野から外れた途端わからなくなるわけです。でも、それは研究者に限ったことではなく、一般の生活者にも当てはまること。自分はエネルギーの専門家ではないから、原発のことはわからない…みたくなってしまうわけで。だから、3.11はある意味、助け合いも含めて、自分たちで何かをやんなきゃいけないんだって気づかされた機会でもあったと思うんです。政治だってそうじゃないですか。人任せにするから暴走するわけですよね。だから、全て人任せにしないこと。自分に関係することは自分でやること。少なくとも関心を持つこと。それは、研究者であれ、一般の生活者であれ、考えなきゃいけないことだと思っています。
 でも、それが大昔からの日本人の国民性であり、気質かと言うと、そんなことはないと思うんです。変わり目は、おそらく高度経済成長期が終わり、低成長時代に入ってきてから。目標が明確だった当時は個々が役割を決めて、それに向けて突っ走ればよかったわけですよね。だからたとえば、薪割りのようなことをやらなくてもよかったわけです。それはつまり、生活を自分で組み立てることを現代生活においては、まったくやらなくなってきたということ。だけど、もう今はそういう時代じゃない。きっと今は時代の転換期。生活って何だろう、幸せって何だろうってことを個々が考えなきゃいけない時代であり、個々が自立していくことを求められる時代なんだと思います」
 20世紀初頭、夏目漱石は「道楽と職業」という題目の講演にて、「大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支ないのであります」と語っているが、高度経済成長期はまさにその打ち崩し具合がフェラーリ並の加速度で進んだ時代だったのかもしれない。人類の歴史から見れば、高度経済成長期以降の5、60年はまさに“異常事態”と言えるだろう。3.11などの大災害はそういった“異常事態”への警鐘だったのかもしれない。
「自立を求められることは、すなわちやらなきゃいけないことが増えるということです。でもそれは必ずしも義務感で動くだけではなくて、やってみると意外と楽しいものだったりする。自分で畑を耕して食べ物を作る人が増えているのもその一例だと思います。料理を作ったり、弁当を作ったりする男が少しずつ増えてきたという傾向にしても然り。昔は「男子、厨房に立たず」という言葉があったわけですからね」
 今の時代を一言で表すならば「自由」であろう。善かれ悪しかれ、自由なのだ。かつての日本に生きた一般庶民と今の日本に生きる人々が決定的に違うのは、ゼネラリストとして生きること、自立して生きることが選択肢の一つであることだ。ネット社会が広がり続け、「情報過多」と言われる現代社会。実際に思考を推し進めるか否かは別として、私たちはかつてより圧倒的に多くの情報という思考の“種”を与えられているのではないか。 
 そういった時代の変化とともに、求められる人間関係の形も変わってきているはずだ。中央集権体制に象徴され、大企業でも軒並み適用されていたトップダウン型は今後下火になっていくのではないだろうか。いや、組織が大きくなっていけばいくほど、効率的に組織運営をしていくためにトップダウン型にせざるを得ないのだろう。だが、自らの手で何かを生み出すことの喜びを知った人間は、その所属の枠組みの中であれ、外れたところであれ、自立した生き方を選ぶことはごくごく自然な流れではなかろうか。
「とはいえ、現実的に考えて、日本がヨーロッパの国のようになれるのかは正直わかりません。ものすごくしんどい闘いなのかもしれないし、もしかしたら努力が実らないかもしれない。だとしても諦めるわけにはいかないなと。やれる限りはたくましくならなきゃなと。そこで諦めたら、人間としての尊厳を捨て去ってしまうことになるんじゃないかというくらいの思いはありますから。実際、それくらい地方は厳しい状況になってきているんです。
 やっぱり、エネルギーシフトは実現させたいですよね。自然エネルギーだけでやっていけるような町なり村を作ること。それが今の私の夢です」   

バイオマスと出逢って… 2
 高校時代の三浦は、反社会的、反体制的なメッセージが歌われたパンクロック系の音楽を好んでよく聞いていた。1980年代前半の日本は経済成長期。世界の国々からジャパン・アズ・ナンバーワンと称された時代において、高校生だった三浦にとっても社会的に不安定な要素など何もなかった。
「だから、ただのファッション感覚だったのかもしれません。でも、失業率が高いイギリスなどのヨーロッパの国で若者たちの反体制的な動きが社会的に大きなムーブメントとなっていることが、当時の私にはかっこよく映っていたんです。平和でつつがなく流れていく日本社会につまらなさを感じていたからでしょうか。同時に学生運動が盛んだったかつての日本、活気づいていたであろう当時の社会の様相に思いを馳せたりもしていましたから。とにかく、社会と何らかの形で関わりたい、影響力を持つようなことをやりたいという思いは強かったんですよ」
 そこで、理系だった三浦が選んだ分野は建築だった。でっかい建物を造ることで社会に何らかのメッセージを訴えかけられるんじゃないか。そんな思いを抱いた三浦は、日本の中心である東京を見てみたいと生まれ育った関西を離れ、「在野精神」が校風としてあった早稲田の理工学部へと進学する。「在野」に惹かれたのも、体制側に立つのではなく、現状を打破して新しい社会をつくる側に立ちたいとの思いがあったからだ。
 だが、三浦は建築を学ぶうちに気づいてゆく。実際のところ、建築は単なる建築でしかなく、デザインに左右される部分も大きいのだと。それに伴って、ハコを造っているにすぎないという限定的な世界に行き詰まりを感じるようにもなっていった。
 そんなときにめぐり逢えたのが、研究室の指導教官・尾島俊雄だった。著書である『東京大改造』に象徴されるように都市計画という大きな視点でメッセージを発信していた尾島との出逢いにより、三浦の中でそういったスケールの大きな仕事をしたいという憧れに再び火がついた。そして、尾島研究室では、建築物単体としてではなく、都市や街と絡めて考えるという視点を学ぶ。
「今、バイオマスというテーマを通して、自治体や地域住民たちと協同でプロジェクトなどを推進しているのは、やりたかったことというか、やりたかったスタイルに近づけているような気がしています。でもそれは、やってみて初めて気づいたこと。目の前にある問題や、社会的なニーズに都度反応しながら、人と一緒に何かをやっていくという過程で掴めたものなんです」
「大学の先生らしくない」とは、三浦と協同でバイオマスの利活用を進めている地域住民の声だ。決して上からの押しつけではない、“在野精神”が宿った三浦のスタンスは、きっと地域住民にとっても心地よいものなのだろう。「新しい土地で自分をリセットし、その場所や状況に合った自分自身を作り上げていく」という三浦の生き方は、関西人でありながら関西弁をあまり話さないところにも息づいているのかもしれない。「聞き上手だ」と地域住民から評されているのもうなずける。
 三浦の研究テーマを過去からざっくりと辿ってみると、社会と関わりたいという欲求から建築に入り、興味の対象は都市計画を経て、都市計画とエネルギーの関連性へとテーマは広がっている。新天地・山形では、地球温暖化問題から始まり、自然エネルギー全般を経て、バイオマスエネルギーをテーマとしている今がある。
「なので、どちらかと言うと、その場しのぎでやってきたという感じですよね。すべては成り行きまかせ。(笑)その場のニーズをしっかり見ながらやっていきたいという意志があったからなのか、それしかできなかったのかはわからないけれど、いずれにしてもそういうスタイルでやってきたことは確かです。10年後は、20年後は…というような自身の人生設計は立てたことはあんまりないんです。だから、女房からは言われるんですよ、「もっと計画性を持ってやってくれ」と。(笑)
 自身のことはともかく、環境問題のような話では、大学にいる立場としても、身の回りの人の利害関係を考慮に入れつつ、長期的な視点をもって計画を立てるようにします。「問題」と称せば後ろ向きに聞こえるかもしれません。でも、知らないことを知るのは面白いし、問題を解決したいとも思います。自身、山形に来たくて来たわけではないけれど、課題が見えると放っておけないんですよ。その過程で見えてきたものはおもしろくなるし、見えてきたものは放っておけない。だから、計画性がなくなり、「いずれ帰る」と言い続けて20年以上経っている今があるのかもしれません(笑)」
 「将来何になりたいか?」という質問に象徴されるように、日本では「何をやるか」ではなく、「何であるか」、すなわち職業や肩書きが重視される傾向がある。だが、職業は可変的であるという側面を持つ。つまり、職業は時代の産物であると同時に、過去の遺物ともなりうるものなのだ。極端な例だが、小学生の頃なりたかった職業が、いざ社会人にならんとする時にはもうないということだってあり得る。そう考えると、三浦の辿ってきた道はある意味“自然”だと言えるだろう。(大学で教鞭をとっているという点では不変だが。)
 だが、三浦のような旅人的な生き方は、どこかに根を張ることとはあまり相性が合わない。ミツバチと花でたとえるならば、三浦はいわば受粉を手助けするミツバチなのだ。
「実際、バイオマスに出逢うまでは、もっと都会で研究したいという思いは胸を去来していましたから。三浦家の長男でもあるので、いずれは実家のある関西に戻ろうという考えも頭の片隅にありました。都会志向の人たちと同じように、「田舎には田んぼや畑しかない」という見方をしている私もいました。けれども、バイオマスと出逢ってから、分断された山と人との関係を逆につなぎ直すことの意義やおもしろさを知り、さらに新たなつながりが広がっていく可能性も強く感じ、学生時代に思い描いた理想に近づいてゆくうちに、いつしか都会の魅力はすっかり霞んでしまっていましたから。だから、私にとってバイオマスとの出逢いは人生の中ですごく大きなできごとなんですよね」
 人が何かと出逢って、人生が変わることは決して稀少な話ではないだろう。それは、一冊の本かもしれない。一本の映画かもしれない。あるいは一人の人間なのかもしれない。その契機となるものは、おそらく千差万別だ。一方で、そこに通底しているものがあるとと思う。それは、内面に変化が及ぼされ、世界の見え方が変わることだ。まさに三浦が「山が“宝の山”として映るようになった」と語っているように。
 三浦は学生の頃からずっと社会と接点を持てる術を探していたのだろうか。この社会に自身が存在する意義を確かめたかったのだろうか。バイオマスはそんな人間にもたらされたプレゼントだったのかもしれない。今後の山形におけるバイオマスエネルギーの取り組みの動向に注目したい。

Pocket