#3 とんと大井沢 横山皓一さん

横山皓一さん 2#3 とんと大井沢 横山皓一さん

「言うなれば見栄っ張りなんですよね、僕は」

Profile
1932年東京生まれ。西川町大井沢在住。幼少期を北朝鮮で過ごす。中学校1年時に日本に引き揚げた後、開成中学、高校に進学。卒業後、市役所に勤める。9年で公務員の職を辞した後、様々な職を経験。2002年に大井沢移住。移住後、愛宕神社の山道に埋もれていた石段を発掘。地区の有志と共に「とんと大井沢」を結成。1年半かけて掘り終える。現在も、舎那山の遊歩道の整備、石碑の発掘等の活動に取り組んでいる。また、町外の有志と「里山の会」を結成し、自身が借りた山にてキノコを栽培。並行して山のハイキングコースの整備なども行う。多方面に人脈を持ち、自宅は多くの人が集うコミュニティスペースのような役割を果たしている。

記事公開:2012-6-5

僕のルーツ
 遡ること60年以上前の1945年8月ーーー。それは、僕がまだ青春にもなっていなかった中学校1年生くらいの年頃のこと。小学校1年の時からそれまで北朝鮮にいた僕は、ソ連に追いかけられるという形で日本に引き揚げてきたんですよね。目の前で人が殺されたり、橋が爆破されたりとかっていう、いわゆる戦争の中をくぐり抜けてきて逃げてきたんだからふつうの引き揚げじゃなかった。逃げる日本人の集団の最後尾にいた僕の後ろから、ソ連とか北朝鮮の兵士が追っかけてくるわけだから。彼らに捕まればたちまち殺されるという噂がもっぱら流れているわけで。その噂はほんとかウソかわからなかったけど、みんなはそう思ったんですよね。
 そんな中を2~3週間くらいの期間、大人とは別に子供たちだけで京城(現在のソウル)まで逃げたんですよ。それから、1週間経って大人と再会した。そういった過去があるんだけど、それは自分の中で記憶としてはあっても、思い出としては残したくない事実なんですよね。
 今の人たちが言うような「戦争は悲惨だ」とか「戦争は何で起こったのか」なんていうような戦争に対しての批判的な気持ちというのは、当時はなかったんです。そういう気持ちは後で振り返ってみて初めて出てくるものであって、僕らはただ戦争に巻き込まれて、「大変だー、こわいぞー、逃げろー、殺される」っていう思いだけでしたから。
 北朝鮮にいた間に現地の人の生活とかを見てきて思うのは、侵略した方とされた方との感情の食い違いがものすごく大きいってこと。だから今、平和的解決だなんだって言われているけど、それは決して望めないと思いますよね、体験してきた者としては。
 子どもの頃にそういうことを植え付けられたから、それが僕の精神構造上の1つの基礎になっているんですよ。そんな体験に小学校5年の時に落第して、5年生を二度経験したっていう僕の人生での最初の挫折体験も相まって、「人の言うとおりになんかなるもんか」「右行けって言われたらおれは左に行く」っていう精神構造が出来上がったんですよね。そこに快感を覚える性格っていうのがその頃できたんだな。
 日本に帰ってきたら帰ってきたで、親戚のところに行くと、皆こぞっておふくろに言うわけですよ、「山の中に母親(僕にとってはばあちゃん)を置いてくるなんて…」って。でも現場を間近で見ていた僕としては、本当はそうじゃないんだと言いたかった。(おふくろは7人兄妹だったんだけど、自分以外の6人は皆20歳になるまでに死んじゃっているから、親戚と言えば旦那の方ばかりだったというのも関係していたんでしょうね。)そういう親戚の態度に接するたび、四面楚歌状態のおふくろを見るたび、僕の中で彼らに対する反発心がふつふつと沸き上がってきたんですよね。
 以来、逃げるだの、隠れるだの、反発するだのっていう形で、いろんな仕事をしながら60年以上経ち、今ここで暮らしている僕がいるんですよね。 

僕の行動様式 1
 東京に引き揚げてきてから開成中学に入ったんですけど、その動機としてもそんな僕の精神構造に由来したものでしたから。というのも、親戚の人たちはみんな言うわけですよ「あいつに開成は無理だろう」って。僕としてはそう言われるのが悔しいから、開成を目指したんですよね。
 高校卒業後の進路を選ぶときにしてもそう。周りには東大に行く奴が多かったし、自分もそういう道を歩むのかなとは漠然と考えていたんです。だけど、僕が東大に行くことを期待する親戚やおふくろと接する中で気持ちが変わったんですよ「冗談じゃねぇ。お前らの望み通りになんてするもんか、東大になって行くもんか」って。(笑)まぁ、東大に受かる自信がなかったというのも大いにありますけどね。受験して落ちた時、周囲がするであろう「やっぱり…」というような反応を想像したら腹が立つから違う道を選んだというのが本音ではありますね。
 結局、その後、代わりにと志望した東京商船大学に落ちた僕は、不本意ながらも市役所に入って働き始めたんです。いつでも辞めてやるという気持ちでいたから、まぁロクなもんじゃなかったですよね。「安定して、給料もいい仕事で…」というように周囲が羨ましがってくるような仕事だったから、僕としてはなおさら辞めたくて仕方なかった。(笑)結局、9年働いて、係長の内示が出るという時、もういいやという思いとともに役所を辞めました。周囲は僕が役所を辞めると言っても本気にしなかったですけどね。役所を辞めることをある人に相談した時も、賛成とか反対以前に信じられないという感じを受けていたみたいですから。
 そうそう、1日100本くらいタバコを吸うヘビースモーカーだった僕が、ある時を境にぱったりとタバコを絶ったのも似たようないきさつをたどっているんです。10数年前、心筋梗塞で倒れてしばらく入院していた僕が「さあ退院だ」という時、付き添いの人が言ったんですよね「タバコは辞めた方がいいよ」って。そしたら、それを聞いた医者が僕に向かって言ったんですよ「この人にタバコを辞められるわけがないよ。自殺したい人なんだから」って。それを聞いた僕はもう腹が立ってね~。「今、この場で辞めてやる」と持っていたタバコをテーブルに叩きつけた僕は、それっきり1本も吸わずに今まで生きてきたわけです。(笑)もし、その時、医者から「いいんだよ、本人が好きなんだから」と言われていたら…。おそらくタバコを辞めることはなかったと思いますから。

僕の行動様式 2
 他にも幼い頃にできあがった僕の精神構造は、人生における様々な場面で僕の行動を左右してきましたよね。
 恋愛をするにしても、好き嫌い以前にその人の境遇とかが先に気になってしまうんですよ。虐げられた人生を送っている女性のような、いわゆる恵まれない境遇にある女性に自然と目がいってしまうんです。実際に、そういう人ばっかりと知り合いになりましたしね、不思議なことに。
 結婚にしてもそう。僕は24歳の時に結婚したんだけど、その相手と結婚した理由っていうのも、好きとか嫌いとかじゃなかったですから。女房は僕の知っている男の彼女だったんだけど、その男がすごく暴力を振るう奴でねぇ。僕は見るに見かねて仲裁に入ったんですよ。それでその男とやり合って勝った僕が責任を取る一つの形として女房にすることを選んだんですよね。彼女を救ってあげたいというか助けてあげたいというか、そういう気持ちだったんでしょう。まぁ、周囲からは猛反対を食らいましたけど。特にその頃市役所の職員になっていたおふくろは中傷をわんさか受けたらしくて。それを聞いたら、おれもなおさら後ひかねえぞって思ったわけですよ。(笑)何としてでも彼女と結婚するんだって。・・・おふくろは思い悩んだでしょうけどね。当時の僕は血気盛んだったし、自分の面子を守ることが先で、おふくろの気持ちを斟酌する余裕がなかったんですよ。そんないきさつで結婚したわけだから、結婚生活そのものっていうのはだめでしたよね。それでも10年くらいはもちましたけど。
 そんな風に人の楯になるのが好きだったんですよ。―――中学校の時に、カンニングが発覚したことがありました。「誰がやった?」っていう先生からの追及が始まっても誰も手を挙げないから、「おれだ」って手を挙げたんですよね。そうやってみんなの犠牲になって、停学になったこともありましたから。
 それから、僕が中学1年の頃は、戦後間もない頃という時代背景もあって、上級生が下級生をぶん殴ったり、先生が生徒にビンタを張るのも当たり前だったんです。でも、そういうところを見たら、僕は我慢できなかった。近くにある棒を持って、上級生の所に行って「てめぇ、出てこいコノヤロー」って怒鳴り込んだりしていましたから。だから、文化系の気の弱い奴なんかはみんな僕の周りに集まってきましたよね。
 言うなれば、僕は見栄っ張りだったんですよね、いい所見せたいっていうか。

僕の楽しみ
 話は少し変わるけれど、僕は若い頃から、車の運転が大好きなんですよね。運転している時、精神が一番安定してるんです。というより、どこかに出かける、いわゆる「旅」が好き。さらに言えば、「旅」そのものっていうよりは「旅」に出かけるまでの過程というか想像をふくらましている時間が好きなんですよね。だから、僕にとってどこかに行こうと思い始めた時から「旅」は始まっているんです。色んなことを調べたり、考えたりするだけでも相当の時間楽しんでいられますから。
でも、予約っていうのはあんまり好きじゃない。気分的に縛られるから。温泉に行く時なんかはやむを得ず1か月前とかに予約するけど、行くまでのその1か月が楽しいんですよね。行った時より、行く前の方がずっと楽しい。僕にとっては楽しいってそういうことなんですよね、何かをやっているその瞬間じゃなくて。
 好きな登山でもそう。登っているときは、なんでこんなことしてるんだろう、なんでこんなしんどい思いしてまで自分は山に登ってるんだろうって思いますから。何回行ってもそう思う。
 宝くじも必ず買うんだけど、それも結局は同じこと。当たるとはこれっぽっちも思ってないわけですよ。でも、3000円でもいいから買ってみると、発表までの間、当たったらどうしようっていうようなことを想像する時間ができますから。そういう時間を持つために、僕は宝くじを買うんですよね。
 とにかく、日常のどこか、何かに楽しみを見出せればいいんですよね。「これが楽しくて、これがなければ楽しくない」っていうんじゃなくて。

僕のロマン
 僕のそういう考え方っていうのは、他のところにも通じているんですよね。
 たとえば、男女に限らずだけど、あの人を連れてあそこへ行けば何て言うかな、あの夕日を見せたら喜ぶかなとかって想像するんですよね。僕がいいなって思ったものを、一緒にいいなって思ってほしいなって思うわけです。だから連れてく間中、そういう期待でわくわくしているし、それが楽しみでありロマンですよね。
 ロマンと言えば、遠距離恋愛。まことにロマンチックじゃないですか。―――1956年。神奈川で国体があったんです。僕はそれに関わっていたんだけど、会場内に宮崎県代表のかわいい女の子がいたんですよねぇ。それでのぼせあがっちゃった僕は、その後宮崎まで何回も通いましたから。当時は交通機関なんて今ほど発達していないから汽車で2日かかるわけですよ、東京から宮崎まで。汽車に乗っているときは、ずっと想像してるからすごく幸せなんですよねぇ。だけどそれでオーバーになっちゃうんだなぁ。帰ってくる時は何しに行ったんだろうって逆に落ち込んじゃってましたから。(笑)そんな風に遠距離恋愛は感情の落差が大きいから、精神的に強くないとだめですよね。
 遠距離恋愛で理想的だなと思うのが、写真家であり作家の星野道夫。僕は彼の本をいっぱい持っているんだけど、彼の生き方が好きだし、きれいだなと思いますよね。彼はアラスカ、奥さんは日本というように物理的には遠く離れた場所に暮らしていながら夫婦だったわけだけど、精神的な結びつきは強烈だったんでしょうね。
 夕日も好きなんですよね。僕にとって、一日の中で一番素晴らしい時間は夕日が沈む時。季節のうちで一番好きなのは、雪が降るか降らないか、秋が終わるか冬が始まるかという境目の時。何かが終わる直前っていうのがいいんだなぁ。強いて言えば、ロマンチックなんですよ。まぁ、そんなことを言って粋がっていたんでしょうね。かっこいいと自分では思っていたし、それをいくつになっても通しているってだけのこと。
 そんでもって、ロマン派って言われるのが悔しいから、「おれはそうじゃねぇんだよ」っていうように装うというか。人に正体を見破られない人間になりたいって今までずっと思ってきたし、今でもそういう思いはある。そういうのをわからせたくないっていう見栄みたいなものがあって、抜けないんですよね。
 でも、女性に対しては違って、これがほんとの横山皓一なのかと思ってもらえるようなことを言うわけ。(笑)「これがほんとのおれの気持ちなんだよ」っていうようなことを匂わせて言うわけですよ。何ていうか、自分の正直な気持ちをわかってもらえる相手っていうのが欲しいんですよね。男性には、そこは求めないけれど。(笑)

僕が憧れたもの
 話を戻すと、長い間逃げるだの、隠れるだの、反発するだのっていう形で生きてきて、親類縁者の一切いない場所で暮らそうと山形で暮らすようになり、最終的にたどりついたのが大井沢だった。都会でずっとすったもんだしてきて、そういうのにうんざりしていたんですよ。逃げてここに来たっていうわけじゃないんだけど、何となく心の癒しっていうのができそうな所を探していたんですよね。・・・まぁでも、自分で自分の尻拭いをするという生き方は貫いてきたと言えるかもしれませんね。誰かに対して腹が立ったり感情が燃えたつことは色々とあったんだけど、わりとすぐに冷めるというか、自分が悪かったんだなということにいつも思い至るというか。そうなると立ち直りは早かったですよね。相手への恨みつらみといった負の感情を引きずることもあまりなかったし、ひしゃげずに自分で自分の身を立て直して前向きに生きていくというところはあったかなぁ。もしかしたら、それも幼少期の環境から形作られたのかもしれませんけど。
 そんな今、僕が抱くロマンは、アラスカの地でオーロラを見ながら息を引き取ること。子供の頃読んだ本に出ていたユーコン川や、そこで開催された犬ぞりの大会で子供が活躍したというようなストーリーはなぜか僕の心に刻まれたし、小学校時代を過ごした北朝鮮も寒くて雪が降るところだったから、そういう環境には抵抗がないですしね。星野道夫に惹かれたのも”アラスカ”というキーワードは抜きにできないはず。でもやっぱり、40代の頃に読んだ新田次郎の『アラスカ物語』との出逢いは大きかったかなぁ。主人公であるフランク安田の生き様は鮮烈な印象を僕に残しましたから。
「19歳で日本を飛び出したフランク安田はアラスカに渡り、そこでエスキモーの社会にとけ込みエスキモーの女性と結婚する。その後、飢餓から一族を救うなどアラスカのモーゼという言葉に象徴されるような英雄的な人生を歩み、90歳でその生涯をアラスカにて閉じた」というストーリーなんですけど、そのフランク安田という人物が実在し、実際にそういう生を全うしたということが何より僕の胸を打ったし、彼の人間像なり生き様に憧れを抱かされましたから。立身出世してえらくなることへの憧れではなくて、歳をとっても情熱を持って生きることへの憧れを。
 その背景には、何も手にしていないという当時の自身が直面していた状況がありましたよね。それまでの自分には情熱を傾けられるものが何もなかったし、ずっと探してはいたものの見つかっていなかったですから。今で言うところの”自分探し”をずっと続けていたわけです。
 そんな状態が、この歳になっても続いているんですよね。僕は淡々として見られたり、今ここにいる僕の生き方を羨ましがられたりするんだけど、自分の身の置きどころが確立できていないという現状は確かにあるし、落ち着く境地を見い出したいという思いもありますからね。・・・振り返ってみると、家族や土地といった基盤を持たない子供時代を出発点に行き当たりばったりで生きてきたし、余裕がなかったという状況も相まって子供の頃から夢も希望も憧れもなく生きてきましたからねぇ。東大の代わりにと志望した東京商船大学に入るという小さな夢が破れてからは、しょうがねぇから市役所に入り、しょうがねぇから結婚し、しょうがねぇから会社作って…というようにそれぞれの場面で妥協しながら、刹那的な生き方をしてきましたから。だから今、「あなたは何をしてきたのか?何がしたいのか?」と問われたところでまるっきり説明がつかないし、「オーロラを見ながら息を引き取りたい」くらいのことしか言えないんですよ。きわどいところ、言い換えれば善と悪の潮目を泳いで生きた時期もありましたしね。たとえ自分でまいた種であったとしても、まともな人生観なり人生哲学を持っていては到底生きていけないような状況でしたから。そんな背景があったからこそ、よけいに星野道夫やフランク安田の生き様の”純粋さ”みたいなものに対する憧れが僕の中で大きく膨らんだのかもしれません。
 そんな過去を経て大井沢にやってきたわけだけど、ここを選んだ理由としてはやっぱり雪(約3m積もる)は大きかったですよね。かつて抱いた憧れの残像は僕の中に残っていたし、実際、この地で過ごす冬場、毎日のように降る雪は、懐かしさと共に子どもの頃雪の中でかけずり回って遊んだという記憶を呼び起こしてくれるんです。だから、僕にとっては雪や寒さっていうのはむしろ歓びの種なんですよね、ずっと雪で苦労してきた地元の人には到底言えないことだけれども。それに大井沢で暮らしながら、例えば人を呼んで一緒に山に行ってキノコを植えたりすること、いわばフランク安田の真似事をすることに満足感はありますから。そういう意味では、アラスカに抱いた憧れなり、憧れを追いかけることへの憧れがこれまでの僕を動かしてきたのかもしれません。・・・まぁでも、未だに湧き上がってくる好奇心だけは持ち続けたいし、持ち続けるべきだとは思いますね。いくら歳をとったとしても、好奇心があるうちは、いやあってこそ、生きているという実感を持っていられるのでしょうから。

 
 

<編集後記>
限られた生の中で夢や理想を描き、さらにその夢や理想を実現させられた人はいったいどれほどいるというのだろう。

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